第7話

「朝餉の支度もしないで、どこへ行くんだい」

 空は薄明の終わりを告げようとしていた。朝餉の支度をするのは、もう少し明るくなってからなので、起き出すには少々早い。それなのに、凪海が布団を抜け出そうとしたら、隣の布団にいるタキに声をかけられた。まだ眠っていると思ったので、驚いて足が滑って布団の上に四つん這いになる。

「婆様……起きてたの」

「年寄りは朝が早いからね」

 タキがゆっくりと起き上がる。

「起きたんなら、朝餉の支度をしな。今日は凪海にやってもらいたいことがある」

「婆様。わたし、今日は用事が」

「まずは朝餉の支度だ。ほら、早く」

 有無を言わさぬタキの声に、凪海は渋々頷いた。

 いつもよりずいぶんと早い時間に磯へ行ったところで、きっと波瑠はいない。いつも通りの時間に行けば大丈夫。自分にそう言い聞かせ、それでも落ち着かない気分を朝餉とともにかき込んだ。

 洗い物を手早く済ませ、今度こそ磯へ行こうとしたが、またタキに呼び止められる。

「やってもらいたいことがあると言っただろう」

「……婆様。わたし、貝採りに行きたいの。その、今日はどうしても貝が食べたくて」

 自分でも下手な嘘だと思う。だが、人魚に人魚狩りのことを伝えに行くなど、タキに言えるわけがなかった。

「おまえは、当分浜へ行かない方がいい。皆にはわしから言っておくから、仕事のことは気にしなくていい」

「え」

「人魚が捕まるところを、見たくはないだろう?」

 タキの言葉は重く胸に突き刺さる。凪海が何も言い返せず固まっていると、タキに籠を突きつけられた。中には、干した魚や野菜が入っていた。

「松吉のところへそれを届けて、志乃の手伝いをしてきな」

「婆様……」

「ついでに、松吉が何か捕っていたら、肉を少しもらってきておくれ。たまには魚以外も食べたいからね」

 凪海に籠を握らせ、さっさと行けと追い立てられる。凪海と共に外へ出たタキは、彼女が山へ向かうのを、見張るように眺めていた。

 人魚がそう簡単に人間に捕まるわけがない。漁師達の投げた網に人魚が掛かったという話は聞いたことがないし、しけた海でおぼれた凪海を助けられるほど泳ぎが巧みなのだ。それに、彼らは基本的に人間の前に姿を現さない。遠くで見たことがある、という話は時折聞くが、間近で人魚を見たことのある人間は、洲央村では凪海くらいのものだろう。

 そうだ。だから、きっと大丈夫。

 凪海が警告しなくても、そもそも人魚は人間に近付かない。それでも漁師達は人魚を捕まえようとするだろうが、捕まえられずとも、源藤様の命に逆らっていないと分かれば、村人もきっと大丈夫のはずだ。いずれ、人魚を捕まえるなんて土台無理な話だと、源藤様が諦めるかもしれない。諦めてほしい――。


「どうしたの? 凪海」

 志乃の声で、凪海は我に返った。縁側に、籠の中身が散らばっている。

 松吉の家を訪ねると、志乃は軒先で洗濯物を干していて、松吉は畑の世話をしているところだった。来訪の理由を告げると縁側に座らされた。松吉が茶の用意をしている間に、凪海は志乃に、何があるのか説明していたのだ。その最中、いつの間にか、人魚狩りのことを考えてしまっていたらしい。

 志乃が手探りで散らばったものを集め、籠の中へ戻していく。

「ごめんなさい。ぼーっとしちゃって」

「どうした。ひっくり返したのか?」

 そこへ、お盆を持った松吉がやって来た。お盆を脇に置くと、志乃を手伝い拾い集める。

「心配事でもあるのか、凪海。さっきから上の空だぞ」

 松吉は今度は籠を脇に置き、湯気の立つ湯飲みを凪海に差し出す。

「耕太とけんかでもしたの?」

 湯飲みを包むように持っている志乃が、首を傾げる。

 集落から離れ、村人ともほとんど交流をしない二人は、昨夜、漁師が集められたことさえ知らないのだ。松吉は元は漁師だが、今は猟師であり、今回の人魚狩りに関係はしていない。しかし、人魚狩りで不備があった時の咎は、彼にも及ぶかもしれない。

「……先日、源藤様の遣いが来たの。源藤様は、奥方さまの病を治すために、人魚の肉をほしがっていて、漁師師達に人魚を捕まえろって」

 湯飲みを受け取った凪海はそれに口を付けることなく、ほのかに湯気を立てる小さな水面を見つめていた。目線を伏せたままでも、松吉と志乃が息を呑むのが分かった。

「な……んで、人魚の肉を?」

 そう言う志乃の声はわずかに震えていた。よく見ると、湯飲みを持つ手も震えている。

「人魚の肉は、不老長寿の妙薬になるんだって……。うんと昔、婆様は、人魚の肉を食べて不老長寿になった尼僧がいるっていう噂をきいたことがあるそうよ」

「嘘。人魚の肉が、そんな妙薬になる訳ない!」

 志乃がいつになく声を高くしたのに、凪海は目を丸くして驚いた。彼女がこんな大きな声を上げるところなど、ほとんど見たことがない。

 志乃は、両手でしっかりと湯飲みを握りしめていた。もう震えていない。

「なる訳ないわ。噂は所詮噂よ。そんなはずない。だって――」

 そこまで言って、志乃は不意に言葉を切った。

「だって?」

 まだ何か続きがありそうなのに、志乃は言葉を続けない。それでかえって気になってしまい、凪海は先を促した。しかし、志乃は何でもない、と首を振る。

「それより、皆はどうするんだ? 人魚なんてそう簡単に捕まえられるはずないし、なにより、海神様の遣いだろう」

「命令に反発した別の村では、何人か、遣いの人に斬られたんだって。それに、もし人魚を捕まえたら、すべての税を半分にすると源藤様が言っているから、村長も、婆様も、みんなも、逆らえない……」

 口にすれば、改めてその現実が押し寄せてくる。目尻からは涙がこぼれていた。

「大丈夫よ、凪海。人魚は、簡単に捕まえられるものじゃない。そもそも、人間に近付かないもの」

 湯飲みを置き、志乃が凪海の頭を撫でる。

 別の誰かが、自分と同じようなことを言ってくれたのが、せめてもの慰めだった。

「そうだよね。そう簡単に捕まらないよね……」

「ええ、そうよ。だから、心配しなくても大丈夫」

「うん……」

 柔らかく笑う志乃の顔を見ているうち、不安は少し落ち着いた。


 視線を正面に転じると、木々の隙間から水平線が見えるだけで、潮騒は届かない。志乃達の家で半日過ごしているだけで、海が遠い場所になったように感じる。家事を手伝う間は人魚狩りのことを忘れられたが、海ではいったいどうなっているだろう。慰められたし、すぐに何かが起きるとは思えないが、気がかりには違いない。

 短い水平線を背にして、人影が見えた。

「あかね。どうしたの」

 顔の判別がつく距離になって、凪海は声を上げる。凪海の姿と声を認めたあかねは、駆け足でやってくる。

「ねえ様の帰りが遅いから様子を見てこいって、タキ婆様が」

「いろいろと手伝ってたから、ちょっと長居しただけよ。わざわざ悪かったわね」

「ううん、いいの。気分転換になったし」

 あかねが複雑そうな顔で笑う。

 昨夜集まったのは男達だけだったが、彼らの口から、女達はこれから海で何が行われるか聞いただろう。あかねの父の姿も、昨日広間にあった。

「今日も、いつも通りに漁をしているの?」

「うん。いつもと変わりないよ。今日は魚しかあがらなかったし」

「……耕太や、みんなの様子はどう?」

「耕太にいさんもいつも通り。ねえ様がいなくて寂しそうだったよ。他のみんなも、見た目はいつも通りだけど、やっぱり、浜の雰囲気はちょっと重い、かな」

「そう……」

「人魚を捕まえたら、税が半分になるんでしょう? 左吉おじさんは、村のために人魚を捕まえるんだって、怖い顔で言ってた」

 左吉は耕太達網子をまとめる網元の一人だ。昨日も、難しい顔をしていたが、結局反対意見は口にしないまま、広間を去っていった。

「うちの父さんも、捕まえるしかないって……。母さんは身重だし、弟達はまだ小さいから、つらいけど、こんな機会は滅多にないって……」

 あかねの母は、あかねの四人目となる弟か妹を身ごもっている。志乃よりまだ腹は目立たないが、食べ盛りの子供達と妻のために、彼女の父の幸治ゆきじが人魚と税の軽減、どちらを選ぶか、悩むのにそれほど長い時間はかからなかっただろう。人魚を選べば、路頭に迷うどころではないのだ。

 網元や漁師達の判断を、凪海は責められない。

「ねえ様、大丈夫?」

「……人魚は簡単に捕まったりしない。大丈夫よ」

 籠が急に重さを増したように感じ、落とさないよう、しっかりと抱え直した。

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