第6話

 豊漁祈願祭の宴があった広間に漁師達が続々集まってくる。上座に昭蔵の姿はないが、その脇にタキと凪海は並んで座していた。

 広間に入ってきた漁師は仲間と挨拶を交わし、上座にいる凪海達を見て、首を傾げた。あちこちでめいめいが雑談しているので広間は騒然としているが、時々、どうして凪海やタキがここにいるのか、という声が聞こえた。

 どうしてなのか、こちらが聞きたいくらいだ。凪海は未だに何も知らされていない。直接尋ねてくる者はいないが、怪訝そうに凪海達を見る者はいて、居心地が悪かった。

 助けを求める気持ちで耕太の姿を探す。彼は、父親と共に隅に近いところにいた。凪海と耕太が親しいことも、耕太の家がタキの役目をよく手伝っているのも皆が知っていることなので、どうして凪海達がここにいるのか、尋ねる者は後を絶たないようだった。そのたび、耕太や彼の父親は首を横に振っていた。

「じっとしていな。みっともないよ」

 どうにも落ち着かず、そわそわとしていたら、タキに小声で注意された。タキは広間に入ってから、正座してほとんど動かない。昼間のような浮かない顔は、もうしていない。今集まっている理由を知っているから、というよりは、腹を括ったからのように、凪海には見えた。

 広間を眺めると、洲央村の漁師のほとんどがすでに集まっているようだった。網元や年長の漁師が上座に近い方に陣取っていて、下座に行くほどおおむね若くなる。

 そこへ、昭蔵が現れた。その後に平蔵が続く。村長とその跡継ぎの姿を見て、漁師達の雑談が収まる。

 昭蔵は普段から厳めしい顔をしていて、今夜もいつも通りだ。しかし、軽薄な表情を浮かべていることの多い平蔵が、今は珍しく硬い顔をしている。村人達の前に立つのは慣れているはずだが、緊張しているようにも見えた。

 皆が座る中、上座の昭蔵だけが立っている。平蔵も、父親の斜め後ろ、タキの隣に座っていた。

 先程までのざわめきは波が引くように消えて、広間に集った全員の視線が昭蔵に集まる。自分を見つめる漁師達を見回して、昭蔵は小さく頷いた。

「夜分遅くに集まってもらい、すまない。特別の用向きがあってのことだ。皆には落ち着いて、よく聞いてもらいたい」

 昭蔵は広間中に聞こえる声で、しかし怒鳴るわけではなく、言い含めるように続ける。

「昨日、源藤様から特別に下された沙汰を伝えるべく、遣いの方々がおとなった」

 領主の名を聞いて、広間の空気がにわかに張りつめる。使者の急な来訪は、やはり誰もが驚きを隠せないのだ。しかも、特別な沙汰がある、となれば。

「その沙汰とは――人魚を捕獲せよ、というものだ」

 固唾を呑んで昭蔵の言葉を聞いていた凪海は、その瞬間、思わず声を上げそうになった。慌てて、己の手で口をふさぐ。

「源藤様は人魚をご所望であられる。漁師の多いここ洲央村には特に期待していると、遣いの方々は仰せだ」

 どうしてそんなことを昭蔵は淡々と告げられるのか、凪海には不思議でならなかった。何を言っているのか彼は理解しているのだろうか、と疑いたくなるほどに。

 人魚を捕獲? 馬鹿な。そんなことは許されない。だって人魚は、波瑠は、凪海を助けてくれた。それに――。

「待ってくれ、村長。それは、本当なのか」

 驚いているのは、凪海ばかりではなかった。最前列に座る網元の一人が、昭蔵の声を遮るように声を上げた。それを皮切りに、広間が荒れ狂う海のように騒がしくなる。

「人魚は海神様の遣いだ。それを捕獲するなんて、罰当たりな」

「今日の豊漁だって、海神様に我らの祈りが届いたから」

「人魚を捕獲なんてしたら、海神様の怒りを買ってしまう」

「だいたい、山の麓にお住まいの源藤様が、どうして人魚をお望みなんだ」

 口々に抗議するのは網元達だけではなかった。広間のあちこちから不満の声が上がる。

「婆様。どういうことなの。どうして――」

 タキは知っていたのだ。だから、昼間あんな浮かない顔をしていたのだ。タキの袖を掴んで、どうしてなのかと重ねて訊くが、タキは首を小さく横に振るだけだった。

 タキの近くに座る漁師達も、昭蔵やタキに、不満をぶつける。

「黙らぬか!」

 皆の声をかき消すほどの昭蔵の声に、一瞬で広間が静まりかえった。

「源藤様の奥方さまが、今、病で伏せておられる。医者も匙を投げてしまったそうだ。奥方さまの病を治せるのは、もはや不老長寿の妙薬だけ――それが、人魚の肉だという」

 昭蔵の一喝で静まりかえった広間が、更に静かになるような気がした。

 凪海は目眩がしそうだった。

 人魚の肉、と昭蔵は言ったか。それが不老長寿の妙薬だと。人魚を捕獲するだけに飽きたらず、肉、とは――。

 真っ先に思い浮かんだのは、もちろん波瑠の顔だった。彼女を捕まえて……その先など、想像もしたくない。

 凪海のように、間近で頻繁に人魚を見ているわけではない漁師達も、心なしか青い顔をしている。人魚は海神の遣い。遣いではあるけれど、人間にとって不可思議で遠い存在である彼らは、神に近いのだ。

「……人魚の肉が不老長寿の妙薬だなんて、初耳だ」

 網元の一人が、やっとといった様子で声を出す。彼の言葉に、広間のあちこちから同意する小さな声が上がる。声は上げずともうなずく者も多い。

「タキ婆、あんたは聞いたことあるか」

 その網元は、昭蔵ではなく、タキに顔を向けた。海神に、その遣いに祈りを捧げる役目を負うだけでなく、洲央村の長老の一人であるタキは、生き字引的存在でもあった。

「……遠い昔、人魚の肉を食べて不老長寿を得た尼僧がいるという噂を、娘の頃に聞いたことはある。聞いたことがあるのはその噂だけ、ただ一度きり」

 広間に、潮騒より小さなざわめきが広がる。しかし、そのざわめきは続くタキの声ですぐに消えた。

「……人魚の肉を食べたら、本当に奥方さまの病は治るのか?」

 半信半疑という顔の網元の言葉に、タキ婆は首を横に振る。

「分からぬ。分からぬが、源藤様は、人魚が天ヶ内海にいるのなら、捕まえて奥方さまに食べさせずにはいられないそうじゃ」

 その顔には、あきらめが浮かんでいた。

「人魚を献上できたら、その村の今年の税を半分にする、とのことだ。村に課せられたすべての税を」

 静かに、だがはっきりとした声でそう告げた昭蔵は、あきらめを通り越して覚悟を決めた顔をしていた。

 広間に、先程とは別のどよめきが広がる。

 源藤様は酷薄な領主ではない。それでも、税が半分になる、という報奨は、決して裕福な暮らしをしているわけではない漁師達にとって、魅力的に過ぎた。もとより、領主の命令であれば、領民である凪海達が逆らえるものではない。

 それは誰もが分かってることだからこそ、どよめきは収まり、広間がまた静かになった。

「しかし、やはり海神の遣いを、薬とするために捕獲するというのは……」

 静まりかえった中から、ためらいがちな声がぽつりと上がる。

「源藤様は人魚をご所望だ。皆には、必ず捕まえてもらいたい。我らが漁をする天ヶ内海には、人魚がいるのだ」

「村長。しかし」

「洲央村以外にも命が下っている。強く反対して、遣いの方に斬られた村長もいたそうだ」

 今度は、昭蔵が重いため息をこぼした。

「我々がさぼっていないか、遣いの方が時々監視に来られるそうだ。命に従わなければ相応の覚悟をしておくように、と仰せだ」

 広間に集まった漁師達を見回し、昭蔵は言った。

「皆の気持ちは分かる。だが、我々にとって大事なのは、人魚よりも自分達の暮らしだ。なんとしても、どこの村よりも早く、源藤様に人魚を献上する。いいな」

 有無を言わさぬ口調に、もう反対の声は上がらなかった。

 網元や漁師達が反対するのを諦めたのなら、自分が。

 凪海がそう思って顔を上げたら、厳しい顔つきのタキと目が合った。その強さに気圧され、凪海は結局何も言えず、しゅんとうなだれてしまった。

「報奨の話は、本当なんだろうな?」

「遣いの方は、約束すると仰った。疑うなど、領民たる我らにあってはならぬことだ」

「――普段の漁の合間にやるしかない。それでいいのだろう?」

「人魚ばかり追いかけるわけにもいくまい」

「わかった」

 網元の一人がそう言うと、ほかの網元達も頷いた。

 人魚が、もはや海神の遣いではなくなった瞬間だった。


    ●


 集まる時とは違って、広間を去る漁師達は誰もが言葉少なだった。結論は既に下され、明日からそれに従うのだという暗黙の了解がそこにはあった。ごく一部の者を除いて。

「婆様、どうしてあんなことを――」

 広間から出ていく漁師達に背を向け、凪海はタキの正面に座った。間近にある養い子の顔を、タキはまっすぐに見つめる。

「話を聞いていなかったのかい、凪海。村のためだ」

「でも、だからって人魚を」

「おまえは、源藤様の命令に逆らって、昭蔵が殺されてもいいと言うのかい」

 タキのまなざしが鋭く、厳しくなる。

「そんなことは……」

「昭蔵一人じゃ済まないよ。下手すれば、村中皆殺しになるかもしれないんだ」

「凪海。もう決まったことなんだ」

 平蔵の声に、凪海は振り返る。彼は、消沈したような表情だった。平蔵もきっと反対したのだろう。そして、源藤様の遣いと直接言葉を交わしている彼は、逆らえないと知ったのだ。

「去年は幸いなことに豊漁豊作だった。だけど、今年もそうなるとは限らない。税を軽くできるなら、それに越したことはないさね」

 分かっている。それは凪海も分かっている。でも、だからといって、皆のように諦めて従うことはできない。

「凪海……」

 両肩を後ろから支えられ、それで自分が倒れかけたのだと気付いた。振り返ると、耕太の心配そうな顔があった。

「帰るぞ、凪海」

 タキが立ち上がる。見ると、広間にはほとんど人の姿がなくなっていた。昭蔵もいない。平蔵も出て行くところだった。

「耕太、どうしよう……波瑠が」

 助けを求めるように抱きついた凪海を、耕太は柔らかく抱きしめる。かぎ慣れたにおいが鼻腔を満たすと、その奥がつんと痛くなる。我慢はできなかった。

「凪海。とにかく、彼女に知らせるんだ」

 声を詰まらせ、耕太の胸元に涙をしみこませる凪海の背中を、彼の手が優しく撫でる。

「そうすれば、彼女の仲間にも伝わるだろう?」

「うん……」

 明日、すぐにいつもの磯に行って、知らせなければならない。波瑠に、天ヶ内海に住む人魚達に。凪海しか、彼らに危機を伝えられる人間はいないのだ。

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