第10話

 近頃、耕太が浜に戻る時間は、まちまちになっていた。澪と会えたら遅くなり、会えなければ早い。今日はどうやら澪が現れない、と諦める時は残念だが、闇雲に、いるかいないかも分からない凪海の生まれ変わりを探していた時に比べれば、全然ましだった。

 今日は会えなくとも、またいずれ会える。この緑がかった天ヶ内海のどこかに澪は確かにいる。それが分かっているだけで、気の持ちようがまったく違う。

 どんよりと曇った日に、底がまったく見えない暗い海を覗きこんでいるような絶望感からは解放されたのだ。

 凪海と瓜二つの澪は、死に別れた頃の凪海とちょうど同じ年頃だ。あの頃の凪海が、耕太の目の前に戻ってきたようだった。――人魚となって。

 人魚は、代償と引き替えに人間となれる。澪は知らないようだが、耕太も彼女に教えられずにいた。人間になれると知ったら、澪は尾鰭を捨てるだろう。だが、志乃のように、何らかの代償を支払わねばならないとしたら、果たして人間になりたいと思うだろうか。

 ――たぶん、思うのだろう。志乃のように、尾鰭も夫も息子も捨ててでも陸に上がりたいと望むのだろう。そうでなければ、人間である耕太と会い続けるわけがない。人魚は、そもそも人間と直接交流するのを避けているのだから。

 澪は、凪海と見た目が瓜二つだけでなく、性格もよく似ている。ただ、凪海は洲央村によく馴染み、そこで生きていくことに何ら疑問を抱いていなかったが、澪はそうではない。凪海のように特別な立場に置かれながらも、疑問を抱いている。人間の生まれ変わりだからこそ、なのかもしれない。

 代償があると分かっていても、澪はきっと人間になるのを望む。耕太はそれを止めるべきか、止めないべきか、まだ迷っていた。澪が自ら望み、選んだのであれば、その結果を耕太は受け止めたらいい。足を得る変わりに何かを失ったら、耕太が支えればいい。

 そうも思うが、果たしてそれが正しいのかどうか、分からない。

 澪には人魚としての家族がいる。友人もいる。意に沿わぬとはいえ、波弥斗という許嫁もいる。

 波弥斗は、志乃に捨てられてしまった子供だ。澪が人間となれば、今度は許嫁に捨てられたことになる。彼の身の上と気持ちを思うと、気の毒ではあった。

 だが、凪海を助けられなかった後悔と、彼女と共に生きる未来が潰えた絶望は忘れてはいない。決して、忘れられるものではなかった。

 浜から今の家に帰るには、耕太の実家から凪海の家に向かう、昔から通り慣れた道を途中で通らねばならない。そこから見える小高い丘に、人影があった。

 村人の誰かであれば、普段は気にもとめない。いつも通り、足早にその場を後にしようとして、しかし耕太は立ち止まった。

 顔の判別は付かないが、服装は分かる。洲央村の誰でもないのは一目瞭然だった。

 村人の粗末で簡素な衣と違い、鮮やかな色。腰には刀。侍だ。

 洲央村に現れる侍姿の者は、源藤様の遣いでほぼ間違いない。ここは今でも源藤家の所領だから、遣いの侍が訪れて、村の様子を見るため丘に立つのは珍しいことではない。だが、時期が違う。多くは収穫期の秋に訪れる。桜が散ったばかりの今、源藤様の遣いが村を訪れるのは珍しい。

 いつにない時期に、源藤様の遣いが村に現れる――嫌な過去を思い出し、それはそのまま嫌な予感に繋がる。物見遊山で、彼らが小さな漁村を訪れるわけがない。

 耕太は丘に背を向け、再び歩き出した。

 源藤様の遣いが来たのならば、接待するのは村長の役目だ。無理難題を振りかけられるのでなければ、耕太には関係ない。無関係であってほしい。

 家に戻った耕太は、自分の食べる分の魚を置いて、すぐに志乃達の家に向かった。澪を待つ間、今日はよく釣れたのだ。澪とは会えなかったが、なかなかの釣果が得られたので、志乃達にお裾分けである。

 夕方が近い頃合いになっていたので、松吉も猟から戻ってきていた。耕太が持ってきた魚と交換で、猪肉や山菜をもらった。

「今日は澪と会ったの?」

「いや、現れなかった。毎日会うのは難しいみたいだ。それは、志乃さん達もよく知ってるんじゃないのか?」

「そうね。海の中は、相変わらずのようだから」

 苦笑する志乃は、あれ以来、波弥斗のことを口にしなかった。松吉に気を使っているのもあるのだろうが、もはや彼女は波弥斗の母親ではない、と改めて腹を括ったのだろう。

「でも、耕太の顔が以前よりだいぶ明るくなって、よかったよ。あのまま凪海の生まれ変わりが見つからなかったら、海に身投げでもするんじゃないかと心配してたから」

「そんなに暗い顔をしてたのか、俺は?」

「ああ。うちの子らは、お前のことを『笑わない暗いおじさん』と言ってるからな」

「ひどいな」

 耕太が苦笑いすると、松吉と志乃も謝りつつも笑っていた。

 愛想良くにこにこしていない自覚はあったが、まさかそんなことを言われているとは思いもしなかった。澪と出会って、少しは――いやかなり、ましになったのだろう。凪海がいた頃は、家族との関係に悩みつつも、もっと笑っていた。澪と一緒になれば、かつての自分に戻るのだろう。

「噂をすれば、帰ってきたぞ」

 遠くから、松吉と志乃を呼ぶ声が聞こえてきた。

 凪海が生け贄にされた後、志乃は男の子を産んだ。その後も更に二人の子宝に恵まれている。いずれも男の子で、三人の息子がそろうと実ににぎやかだ。

 長男から三男まで、そろって漁師の見習いをしていた。松吉は自分の跡を継がせるよりは、子供達に村の中に戻ることを望んだのである。村人の方も、働き手が増えるのを歓迎したし、平蔵の口添えもあって、他の子供達と同じように扱われている。

「お侍さまが来てたんだよ! 刀、刀持ってた!」

 この夏に十になる末っ子が、興奮した様子で、志乃に飛びついた。

「あんな近くで初めて見たよ、俺。平蔵さまより上等そうな着物着てた。裸足でもなかったし!」

 その一つ年上の次男も、弟に負けず劣らずの興奮ぶりだ。微笑ましいが、彼らの言う内容が、耕太には引っかかった。

 源藤様の遣いが、漁師達のすぐ近くまでやって来ることは、滅多にない。彼らは村長に言うことだけ言って、あの丘から村を眺めて帰って行く。彼らが浜へ降りるのを、耕太は見たことがなかった。

 だが、子供らが見たということは、おそらく浜でだろう。帰り道でたまたま行き会った、という様子ではない。

「源藤様の遣いの方だろう。ここへ来る途中、俺もお見かけしたよ」

「この時期にお越しになるなんて珍しいな。お前達、近くで拝見したのか?」

 下の二人は見たことを志乃に報告しているが、幼いだけに要領を得ないし、それぞれ好きにしゃべっているから結局何を言っているのかよく分からない。

 松吉が顔を向けたのは、十七になったばかりの長男だった。彼はもうほとんど一人前の漁師である。

「大変なことになりそうだよ、父さん」

 弟達と違って、長男は困り顔だった。耕太は先ほど抱いた嫌な予感を思い出した。

「大変なこと?」

 松吉が怪訝な顔をする。長男の言葉が聞こえた志乃は、まとわりつく子供達に黙るように言った。

「人魚狩りをするから手伝え、だってさ」

「若さまが人魚を見たいから手伝えって言ってたね」

「母ちゃん、人魚っているの?」

 下の子二人は、いかにものんきそうに志乃を見上げる。だが、その志乃は顔面蒼白だった。

「耕太……」

 松吉が耕太を見やる。耕太は、今自分がどんな表情をしているのかまったく分からなかった。

 まさかまた『人魚狩り』という言葉を聞くとは思いもしなかった。今度は何だ。見たいとはどういうことだ。そんな理由で、源藤様は人魚を狩れというのか。

 天ヶ内海には、凪海の生まれ変わりである澪がいるのに。

「あの、耕太さん……?」

 長男が、おそるおそる耕太を伺う。彼らは、昔洲央村であった出来事を知らないのだ。

「源藤様の若様が人魚を狩りたい、と言ってきたのか? わざわざ浜へ降りてきて」

「え、いや、浜へ来たのは家来の方達だけだよ。詳しいことは追って知らせるから、心しておけとかなんとか、偉そうに言ってた」

「そうか――耕太、どこへ行く!?」

「帰る。松吉さん、猪肉、ありがとう」

「耕太、無茶はするな!」

「分かってる。大丈夫、無茶はしません」

 ほとんど走り出していた耕太は、振り返らずに答えた。

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