第9話

「澪ねえ様。この頃、なんだか嬉しそうね」

「……そう?」

 今は、どちらかと言えば嬉しくない気分だ。当初の予定では、多江を訪ねるはずではなかったのだ。

 食事のふりをして耕太のところへ行こうとした澪は、途中で波弥斗と出くわしてしまった。どこへ行くのかと訊かれ、多江のところへ答えると、波弥斗は多江のねぐらの近くまで付いてきたのだった。澪が本当に多江のところへ向かうのを見届けてから去っていった。

 波弥斗は、よほどの用事がない限り、多江と佐々のねぐらに近付かないのだ。どうも佐々が苦手らしい。

「波弥斗にい様との結婚が近いからだっていう噂もあるけど、本当?」

「誰がそんなことを言ってるの!?」

 他の人魚とあまり交流しない多江のところまで、そんな噂が届くなんて。

「佐々ばあ様を訪ねて来る人が、何人かそんなことを言っていたって」

「根も葉もない噂よ」

 佐々の薬を求めてくる人魚は、どちらかと言えば年かさだ。最近の澪の様子を誤解した友人達の想像がその親に伝わり、噂となって広がっているのだ。ここまで届いているなら波弥斗達の耳にも入っているだろう。噂は噂、本当ではないと誰よりも知っている彼らは、何故そんな噂が流れているのか不思議に思っているかもしれない。

 それだけで済むならいいが、噂を真にしようと、長や波弥斗が動き出したら大変だ。

「……ねえ様は、波弥斗にい様と夫婦になりたい訳ではないのね」

 以前にも、同じことを多江に訊かれた。しかしその時と違って、多江は澪の答えを知っている声だった。

 どうして、先に生まれたというだけで澪なのだろう。どうして、後から生まれた多江ではだめなのだろう。二人とも、海で死んだ娘の生まれ変わりだ。澪がそう思っているように、多江も同じように考えているだろう。

「なんだい、若い娘が揃って暗い顔をして」

 岩の影から佐々が滑るように出てきて、澪と多江の顔を見回した。手にはサザエをいくつか持っている。ふたが付いていないから、中身は空のようだ。

「跡継ぎと夫婦になるのが近い娘がする顔じゃないね」

「単なる噂です。でたらめよ。当の本人が言うんだから、間違いないです」

 澪は思わず険のある声で言い返すが、佐々は気にした風でもなかった。彼女は、あくまで噂と知っているのだろう。

「……佐々ばあ様。波弥斗の妻になるのは、わたしじゃないといけないの? 『幸せを約束された娘』はわたしだけじゃない。多江だってそうでしょ」

「ねえ様!?」

「波弥斗は、どうしてわたしにこだわるの。どうして、多江もいるのに、昔からわたしが波弥斗の許嫁に決まっていたの」

「天ヶ内海の人魚を統べる長の伴侶となれば、他の人魚よりも優遇されるよ」

「どうしてなの、ばあ様」

 佐々は明らかにはぐらかそうとしている。答えか、それに近いことを知っているのだ。澪はそう確信した。

「……母親に捨てられたからだよ」

「え」

「波弥斗がまだ物心付くか付かないかという頃に、息子と夫を置いて消えたのさ」

 波弥斗の母は嵐で陸から流れ込んできた流木にぶつかり亡くなった、と澪は聞いていた。

 嵐が来ると、海が荒れるだけでなく陸から様々なものが流れ込む。去った後でも海中が濁るなど、しばらく影響が残る。澪の父親は、嵐が去った後の片付けをしている最中、海底に沈んでいた流木や岩が崩れ、それに巻き込まれて死んだ。嵐の最中や後にそうやって亡くなる人魚はたまにいるので、波弥斗の母親の死因を疑問に思ったことはなかった。

「……どうして、波弥斗にい様のお母さんはいなくなってしまったの?」

「さあね。理由は知らないよ。だけど、母御に捨てられたから、波弥斗は自分のそばから誰かが去っていくのが嫌なのさ」

「わたしにこだわる理由は、それなの?」

「お前さんが波弥斗の許嫁なのは、多江より先に生まれた、それだけの理由さ。だけど波弥斗は、一度自分のものになったからには、もう二度と失いたくないんだろうね」

「わたしは波弥斗の許嫁かもしれないけど、波弥斗のものじゃないわ」

 どういう理由があったのか知らないが、母親に捨てられたという波弥斗の境遇には同情する。だけどそれを理由に、澪を縛り付けようとするなんて、おかしい。澪は彼の母親ではないし、所有物でもないのだ。

 もう二度と誰かに捨てられたくない、という波弥斗の気持ちは理解できる。だけど波弥斗は、澪の気持ちを少しでも考えたことはあるのだろうか。波弥斗に限らず、澪を、彼の許嫁だと疑わない人魚達は。

「お前さんの言う通りさ。お前さんは、お前さんのものだ。長の跡取りのものじゃない。だけど、あれがそれを理解してくれるかねえ」

 きっと、分かってくれないだろう。『幸せを約束された娘』は跡取りの妻となる。波弥斗はそれを疑いもせず受け入れて、その娘を決して逃がすまいとしている。波弥斗が澪をやたらと心配するのは、彼の安心のためではなく、逃げられたくなかったからなのだ。

「……『幸せを約束された娘』はわたしだけじゃない。波弥斗もみんなも、それを忘れているんじゃないの?」

 澪は多江を見た。多江が目を丸くする。その瞳の中で、戸惑いが揺れているのが見えた。

 佐々がため息を付く。

「波弥斗は、一度これと決めたらそう簡単に譲らないからね。母親に似て、強情なもんさ」

「多江が望めばいいのよ。多江は、誰でも好きな相手を選べるんでしょう」

「ねえ様、わたしは――」

「お前さんは、波弥斗の嫁御になるのが嫌なのかい」

「嫌よ」

 即座に答え、澪は自分で驚いた。

 耕太と出会ったから、そう思うのではない。その前からずっと、目を背けて気付かないふりをしていただけで、その気持ちは胸の奥にあったのだ。他の人魚より優遇される気まずさと後ろめたさで、蓋をしていただけなのだ。

 皆よりよくしてもらっているから、波弥斗の許嫁でいなければならない。澪はずっとそう思っていた。そう思わなければいけなかった。特別扱いされているから。

「ねえ様……」

「多江、あなたが波弥斗の許嫁になってよ。そうじゃないと、わたしは――」

 波弥斗の母が何故いなくなったのか、理由は知らない。だけどこのままでは、彼の母のように、波弥斗を捨てて逃げるだろう。

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