第8話
薄い雲が霞のように広がり太陽の光を遮っていた。それでも、海の中よりずっと明るい。
朝からやって来る波弥斗の小言を黙って聞き、時には一緒に息継ぎに行き、おとなしくしていたら、ようやく安心したらしい。昨日は朝一では顔を出さなくなった。今朝もである。
監視されているような息苦しい生活がようやく終わり、澪はほっとしてねぐらを離れた。どこへ行くのかと出がけに母親に聞かれたので、食事だと言っておく。嘘ではない。ねぐらに戻ってくるまでの間に食事はするし、息継ぎだってするのだから。
耕太と落ち合う約束をしている島は、人が住むには小さすぎる島だった。洲央村からだと、いくつかの島が重なり、その小さな島は見えない。舟をこいで回り込まなければたどり着けないし、そこまで行かずとも手前にある島々のおかげでよい漁場があるから、滅多に人間は来ない、という場所だった。
小さな島の近くの海面に、見覚えのある船底が浮かんでいた。それを認めた瞬間、澪は全身を大きくしならせた。伸ばした両手を指先からぴったりと合わせ、力強く尾鰭を振る。
海面にぐんぐん近付き、澪は大きな水音をたてて海上に頭を出した。いつもであれば、そんなことは絶対にしない。
「澪」
舟の上に耕太が、驚いた顔で縁を掴む。澪は、その手に自分の手をかけた。
「耕太、会いたかった」
最初に会ってから――あるいは再会したと言うべきだろうか――もう六日もたっている。薄曇りの空の下でも、海の中よりずっと明るかった。
「俺もだよ。ずっと待ってた。なかなか来ないから、心配してたよ」
「ごめんなさい。波弥斗に見張られてて、息継ぎの時以外、海面に近付けなかったの」
ずっと待っていたという言葉が嬉しい。諦めてしまってもきっとおかしくなかったのに、耕太はここにいてくれた。
「澪。舟に上がるか?」
「うん」
このあたりに人魚のねぐらはなかったと思うが、誰かが通りかかることはあるかもしれない。舟のそばに人魚の影があるとしれたら、長や波弥斗に報告される。
澪は舟の縁を掴んで、耕太に手伝われて舟に上がった。全身が完全に海から出るのはこれが初めてだった。なんだか少しだけ体が重い。
濡れそぼった頭から次々海水がしたたり落ちる。濡れた髪の毛はべったりと体に張り付き、まとめていなかったものだからまるでわかめがまとわりついているみたいだ。海の中ではそれでも大して気にならなかったが、上がるとこうなるとは。
「……」
滴る海水が目に入る度視界がぼやけるので、前髪をかき分けて、張り付く髪をまとめて絞る。そこでふと、耕太が呆気に取られたように見ているのに気が付いた。
「耕太? どうしたの?」
人魚を間近で見るのは、彼は初めてではないはずだ。それとも、舟の中が水浸しになったのが気になっただろうか。
「……あ。いや、その……人魚は、着物を着ないんだったな、と改めて思って」
「着るのは特別な時だけよ。洲央村の人間が供物で捧げた着物を着るの」
「ああ、そういう使い方をしているのか……ちょっと、目のやり場に困る」
人魚は特別な場合以外着物を必要としないが、人間は常に衣をまとっている。それは澪も知っているが、目のやり場に困るとはどういうことだろう。耕太は、澪からすっかり目を逸らして、本当に困った顔をしていた。
「その、人間の女は、人前で胸をさらさないんだ。夫や恋人以外に見られるのは恥ずかしいと思うものなんだ。男も、妻でも恋人でもない女の胸を見るのは恥ずかしい」
「そうなの?」
澪は自分の体を見下ろしてみるが、特にどうということはない。波弥斗達男の人魚と比べると、胸は丸く膨らんでいる程度のことだ。けれど人間からすれば、衣をまとわないこの状態は、他人同士では見る者も見られる者も恥ずかしい、ということか。
「……耕太は、わたしが『凪海』じゃないから、見るのは恥ずかしいということ? 他人同士だから?」
「違う。恋人同士でも、むやみに見ていいものじゃない。それこそ、特別な時だけだ」
慌てた様子で耕太が言う。人間にとって、胸を見せる見せないというのは特別なことらしい、というのはとりあえず澪にも分かった。
ひゅうと風が吹き、澪は身震いした。寒い。息継ぎで海上に頭を出した時、風が吹くとひんやりと感じることはあったが、全身に風が当たると一気に全身が寒いと感じる。
「澪、これで体を拭け。濡れたままだと、人魚でも体が冷えるだろう」
察した耕太が手ぬぐいを差し出した。供物の中にあるのを見たことがあるが、体を拭くのに使うものだったのか。
「人間が衣を着るのは、陸は寒いからなの?」
「それもあるな」
「耕太と一緒に行くなら、わたし、衣を着ないといけないのね」
海の中に長くいられない人間と違って、人魚は海を出ても死ぬことはない。
「でも、足がないから、陸に上がったら移動するのが大変そうだわ」
尾鰭を軽く振るだけで、あるいは岩に付いた手を軽く押すだけで、そうでなくとも流れに乗れば簡単に移動できる。舟に上がるのにも、澪は耕太の手を借りなければならず、上がってみれば、体は重い。
「人間が人魚になれるのなら、人魚が人間にもなれるのかしら。そうしたら、尾鰭が足に変わって、陸に上がっても困らないのに」
ねえ、と耕太に同意を求めるが、彼の顔に先ほどまでの笑みはない。固く強ばって、困っているように見えた。
「……耕太?」
澪は、何か彼の気に入らないことを言ってしまったのだろうか。それとも。
「わたしが陸に上がるのは、本当は困るの?」
一緒に来るか、と言ってくれたのに。
「――人間は、海で死んで人魚に生まれ変わるんだ。人魚が人間になるのにも、やはり一度死なないといけないとしたら、困るだろう?」
「……そんなことになったら、また、耕太と離ればなれになってしまう」
船底に手を突いて、澪は耕太ににじり寄った。尾鰭をいくらばたつかせても、前に進むのにほとんど役に立たないのが口惜しい。それを見て、耕太の方から澪に寄って来てくれた。
耕太、と名前を呼ぶ間に抱きすくめられた。ごわごわとした衣の肌触りと、澪を包み込む腕の力強さに息が止まりそうになる。そして、ひどく懐かしい。きっと昔、人間だった頃、何度もこうして抱きしめられたに違いなかった。
「もう二度とそんなことにはさせない。今度こそずっと一緒にいよう、澪」
しがみつくように耕太の体を抱きしめた。なんてたくましい背中だろう。
「今すぐには無理でも、必ず」
「うん……」
懐かしさと嬉しさで胸がいっぱいで、涙があふれてくる。
慌てることはない。一緒にいられる方法を、二人で探せばいいのだ。
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