第7話

 昨日取れた魚が入った魚籠を持って、耕太は志乃達の家を訪ねた。

「おはよう、耕太。今日は早いのね」

 縁側に腰掛けて繕いものをしている志乃は、訪問者の足音を聞き分ける。風向きによっては、驚くほど離れたところの音も拾える。

「おはようございます。松吉さんや、子供達は?」

「みんな出掛けてるわ。松吉達に用事があったの?」

 手を止めた志乃が首を傾げる。耕太は、いや、と呟くように答えた。

 家に、志乃しかいない頃合いを狙ってやって来たのだ。松吉や子供達には聞かせない方がいいであろう話をしようとしているのだから。

「魚ね。いつもありがとう」

 持ってきたと言う前から、志乃がにこりと笑う。彼女は鼻もいい。目は見えずとも、音を聞き分けにおいを嗅ぎ分け、周囲を捉えている。

「少ないけど、みんなで食べてくれ」

「……海に出て、何かあったのね」

 勘も鋭い。もっとも、家族のいない時を狙って訪ねるのは、たいがい何か訳ありの時だ。先日、幼い人魚を捕まえた後も、同じような時間に志乃を訪ねていた。

「凪海の生まれ変わりの人魚に、会った。澪という名前だが、凪海と瓜二つだった。歳は十六になると言っていた。……凪海が生け贄にされたすぐ後に生まれたんだ」

 多少は驚くだろうかと思って志乃を見るが、彼女は特に驚くこともなく、海のある方角を向いていた。

「……海で死んだ人間がすべて人魚に生まれ変わる訳じゃない。凪海は運が良かった――と言ってもいい?」

「不幸中の幸い、だな。でも、本当に人魚に生まれ変わっていて、驚いた」

「わたしの言ったことを疑っていたの? まあ、無理もないけど」

「信じてたよ。でも、長いこと見つけられなかったし、諦めかけてた」

「十七年、諦めずに探し続けた耕太は、すごいと思うわ」

「……志乃さんの言っていたことは、全部本当なんだな。凪海は人魚に生まれ変わっていて、長の跡取りの、波弥斗と夫婦になるんだそうだ」

 志乃の表情が揺れ動いた。

「波弥斗は元気らしい。澪を大事にしていて、過保護なくらいだと言っていた」

「……さぞや立派な青年になったんでしょうね」

 志乃は海の方角に顔を向け、独り言のように呟いた。見えないはずの彼女の目には、波弥斗の姿が浮かんでいるのかもしれない。

「凪海の生まれ変わり――澪、と言ったわね。その子は、波弥斗と夫婦になるのを、喜んでいた?」

 おそるおそる尋ねる志乃の顔を、耕太は黙って見つめた。

 十七年前、志乃から、彼女の秘密を打ち明けられた。にわかには信じがたい話だったが、松吉がその証人だった。そして、信じなければ、耕太は希望のすべてを失っていた。

 志乃は、天ヶ内海で生まれた人魚だった。それも、ただの人魚ではなく、海で死んだ人間の生まれ変わり。

 人間だった時の彼女は、誤って海に落ちて死んでしまったらしい。人間だった記憶はないが、人間と、陸への懐かしさを抱えて海の中で暮らしていた。そして、澪と同じように、志乃も、長の跡取りの許嫁だった。

 その跡取りが、今の天ヶ内人魚の長だという。波弥斗は、志乃が人魚だった時に生んだ子だ。

 夫婦になるよりもずっと前に、志乃は松吉と出会っていた。長と夫婦になって波弥斗を生んでも、志乃は松吉のことを忘れられず、波弥斗も夫も人魚の尾鰭も海の中へ捨て、人間となって陸に上がった。

 だが、自ら捨てても、生んだ子のことは気になるのだろう。

「不幸ではないけど、幸せでもない。澪はそう言っていた。志乃さんなら、澪の気持ちが分かるんじゃないのか?」

「……そうね。そうよね……」

 志乃は俯いて、そう言った。

「……なあ、志乃さん。澪にその気さえあれば、彼女も人間になれるんだろう?」

 志乃は人魚だった。それは間違いないと、松吉が言っている。人魚だった時の志乃と、松吉は何度も密かに会っていたそうだ。

「澪には、きっとその気がある」

 耕太を見て涙していた。一緒に来るかと訊いたら、うんと答えた。あの後、そろそろねぐらに戻らなければ波弥斗が探しに来てしまう、と言うので、名残惜しいが別れた。だが、もう一度必ず会おう、と約束した。その気がなければ、もう一度耕太と会おうと思わないはずだ。

「澪が人間になれば、母親に次いで許嫁にも捨てられた、と波弥斗は嘆くでしょうね」

「……捨てた本人が、それを言うのか?」

「わたしには、波弥斗を心配する資格なんてないわ」

 志乃は首を横に振る。

「人魚は人間になれる。でもね、耕太。前にも教えたけれど、足を得る代わりに何かを失うことになるの」

「必ず?」

「そうよ。わたしの場合、目だった。光を失い、二度と松吉の顔を見られなくなった。どこを失うのかは、分からない。わたしはたまたま光を失ったけれど……」

 志乃が耕太に顔を向ける。光を無くしているはずの目で見据えられた気がした。

「どこかを失うと分かっていて、それを澪に勧められる? 澪が人間になりたいと望んだ時、諸手を上げて賛成できる?」

 志乃は、澪に波弥斗を捨てさせないためにそう言っているのではない。それは、彼女の表情を見れば分かる。

 人間になる代償は、決して軽くはない。それを知りながら、人間になってほしいと澪に望むのは、耕太の身勝手ではないだろうか。

「……よく考えてね、耕太。あなたのためにも、澪のためにも」

「あ、ああ……」

 そう答えるのが、耕太には精一杯だった。


    ●


 目覚めると、明るくなりつつある中を横切る魚の影が見えた。人魚や他の大きな魚を気にする様子もなく泳ぐ魚は、食べるには手頃な大きさだが、距離が少々ある。それに、起き抜けでは素早く動けない。ぼうっと眺めていると、ほどなくどこかへ去っていった。

 海面を見上げた。今日も晴れているようだ。人間達は――耕太は、もう海に出ているだろうか。

 彼の日に焼けた顔を思い出すと、無性に切なくなって胸が苦しくなる。しかし同時に、やたらと嬉しくて顔が自然と綻んでいく。

 今まで一度も、こんな気持ちを抱いたことはなかった。もう一度会いたい、今すぐに会いたいと、誰かに対して思うことは一度も。

「澪。おはよう」

 先に起き出して息継ぎに行っていた母が戻ってきた。

「おはよう、母さん」

「澪。息継ぎが済んだら、すぐに戻ってきなさい」

 入れ替わりに澪が泳ぎ出そうとすると、母が少々眉間にしわを寄せて言った。

「波弥斗さんにも言われたでしょう」

 澪が反論する前に、ぴしゃりと言われる。

 昨日、耕太と別れて慌ててねぐらに戻ったが、途中で澪を探しに来た波弥斗と遭遇してしまった。腕が届く距離でようやく相手の顔が見えるくらい、あたりはすっかり暗くなっていた。澪の腕をしっかりと掴む波弥斗に、どうしてこんなに暗くなる前にねぐらに戻っていないのか、どこで何をしていたのか、険しい顔でまくし立てられたのだった。

 ごまかしたり嘘を付いたりすれば更に詰め寄られると思い、澪は黙りを決め込んだ。澪の腕を引っ張りねぐらに向かう間、波弥斗は何度も尋ねてきたが最後にはとうとう諦めた。

 しかし、息継ぎの時以外ねぐらを離れるな、様子を見に来ると強く言われ、澪は渋々頷くしかなかった。その頃には、よく目を凝らさなければ海底が見えないほど暗くなっていた。そんな中で泳ぐのは危ないので、波弥斗には少しでも早くねぐらに戻ってもらわねばならなかったのだ。

 耕太はいつも一人で、いろいろな場所に舟で行くそうだ。澪を探していたのだと思うと、それだけで嬉しくなる。

 漁をするだけの人間達はあまり近寄らない場所も知っていて、とある小さな島の影で、もう一度会おうということになった。ただ、日時を決める余裕はなかった。ねぐらに戻らなければならなかった澪に、必ず待っているから、と笑ってくれたのだ何より心強い。

 すぐには会えなくても、もう一度、必ず会える。澪の心にあった空白を埋めてくれるのは耕太なのだと、もうすっかり確信していた。

 澪から離れていく泡に追いつき追い越し追い越されながら、鼻歌混じりに海面に向かう。海面から顔を出すと、新鮮な空気を吸い込んだ。耕太も陸のどこかで、あるいは海の上で、同じ空気を吸っている。人魚と人間という違いはあれども、同じところもあるのだ。

 見渡す海はうっすら緑色で、空はどこまでも青い。昨日と今日でその風景はほとんど変わっていないはずだが、澪にはすっかり違っている。海も空も雲も波も、そのどれもが輝いて見える。目に映るすべてのものは、こんなにも鮮やかだっただろうか。

 トンビが遙か高いところを旋回している。気持ちだけなら澪もあそこまで飛び上がっている。

 耳元でちゃぷちゃぷという波の音で、我に返った。早く戻らなければ。波弥斗のことだ、ねぐらにそろそろやって来るに違いない。

 澪は慌てて海中に戻った。いつもならもっと静かに海面を去るが、急いでいたので大きなしぶきを上げてしまった。尾鰭が多少海面から出た気もするが、目に見える範囲に舟はいなかった。

「澪。おはよう」

 ねぐらが見えてきたところで、波弥斗に出くわした。ぎりぎり間に合って、ほっと胸をなで下ろす。

「おはよう」

「息継ぎから戻ってきたところか?」

「ええ、そうよ」

 来るだろうとは思っていたが、本当にやって来た波弥斗を見て、澪は内心で呆れた。心配性で過保護なのにもほどがある。彼だって、息継ぎをしなければいけないし、食事だって取らなければいけないのに。

――いや、澪が波弥斗の言いつけをちゃんと守っているか、見に来たのだ。

 澪を心配しているからだと思っていたが、果たして本当にそうだろうか。澪が必要以上に海面に近付いていない、という安心を得たいのは波弥斗だ。波弥斗は彼自身のために、澪にあれこれ言うのではないのだろうか。

 ついさっきまで明るく青い空を見上げていたから、ねぐらがある深さがいっそうどんよりとして見える。波弥斗に、海面には必要以上に近付くな、しばらくはねぐらの周囲だけにいろと、改めて念押しされたらなおさらだ。

 顔を上げれば、海面に近付くほどに明るくなっているのが分かる。遠くに、海面へ向かう人魚の姿があった。影は小さいが、魚とも鱶とも海豚とも泳ぎ方が違うので、人魚だと分かる。あの位置だと、澪の友人かその家族だろう。

 おそらく息継ぎのためだろうが、明るい方向へ向かって泳ぐ姿が、無性に羨ましかった。

「澪? 何かあるのか?」

 波弥斗が彼女と同じ方向に顔を向け、視線の行く先を探る。彼もまた同胞の姿を認めたのだろう。なんだ、とどこか安心したような声をこぼす。

「息継ぎ以外で、海面に近付くなよ。今は特に危険なんだ」

「分かってるわよ。そう何度も言わないで」

 昨日も言われたばかりで、今日も朝から同じことを繰り返し聞かされ、耳にタコができそうだ。つい棘を含んだ声になる。

 波弥斗がわずかに眉根をつり上げた。

「俺は、澪のことが心配だから言ってるんだ」

「……分かってる」

 ため息を吐きたかったが泡でばれる。ここが海の中でなく陸であれば、きっとこっそりため息を吐けただろう。

 澪は許嫁だからという理由はあるだろうが、心配しすぎだ。息継ぎはどうしたってしなければいけないし、魚を追いかけていたら海面に近付いてしまうことだってある。それはどの人魚も同じで、将来は天ヶ内人魚をまとめ上げる立場になるのだから、波弥斗は澪以外の人魚の心配もするべきではないだろうか。

 そういえば、耕太は波弥斗の名前も、彼がどういう立場の人魚なのかも知っていた。人魚から聞いたわけではないと言っていたが、では、誰から、どこで、それを知ったのだろう。澪の知らないところで人魚と人間の密かな交流があるのだろうか。澪が『凪海』であった時は、それを知っていたのだろうか。耕太が知っているということを、凪海は知っていたのだろうか。

 凪海だった時は知っていた、凪海は知っていた、耕太のこと。もっと知りたい。もう一度、知りたい。会って、話をして、澪のことも知ってほしい。

 耕太のことを考えるだけで胸が熱くなる。こんなにも「何か」をしたいと強く思うのは、ほとんど生まれて初めてだった。

 これまでの澪は、尾鰭はあっても岩に根をおろした海草のように、波に任せてたゆたっていただけだ。

 澪は『幸せを約束された娘』だ。だけど、その幸せは他人から与えられるものでも、他人に決めつけられるものでもない。澪の幸せは澪自身が決める。

 海の中に、澪の求めるものはない。

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