第6話

 澪は海底に近いところを泳いでいた。

 多江達のねぐらがある場所と同じように、流れが速く、一日の間に何度も海流の向きが変わる一帯だ。海流のせいもあるが、多江達のねぐらがある場所よりも陸に近いので、この近辺をねぐらにする人魚はいない。

 だが、このあたりの魚は味がいいので、普段は食事場所としてにぎわっている。今は、渡夜の一件があったばかりで閑散としていた。

 舟を操る人間にとっては難所のはずだが、このあたりの魚の味を知っているようで、船影をよく見かけるのだ。それ故、渡夜の件がなくとも、澪にとっては禁じられた海域の一つだった。

 こんなところにいるのが、特に波弥斗にばれたら、ひどく怒られるだろう。でも今は、他に人魚の姿はない。好都合だった。

 今日も数隻が来ている。しかし、澪が探し求める舟の形ではなかった。

 渡夜の話を聞いてから毎日、海面を見上げていた。澪がそうするのはいつものことだが、渡夜の話を聞いてからは、漫然と泳ぐことはなくなった。

『あの人間』が人間の生まれ変わりの人魚を捜している理由を、知りたかった。できれば直接尋ねたい。

 人間は危険な生き物だ、決して近付くなと強く言われながら、そして実際に渡夜が捕まるところを見てもなお、澪は海面への――『あの人間』への関心が尽きなかった。

 自分が人間の生まれ変わりとされるから興味があるのか、単なる好奇心なのか。『あの人間』に会えばはっきりするのではないか。そう思うのだ。

「あの舟……」

 海面が赤に染まり、海中はすでに暗い。今日も見つからなかったとあきらめかけた時、見覚えのある舟の影を見つけた。小さな櫂で水をかき、舟は陸を目指していた。

 ねぐらに向かいかけていた尾鰭をよじった。

 澪は全身を大きくしならせ、舟を追いかけた。海面に向かう姿は、見通しのよい場所では遠くからでも見えるものだ。しかし、暗くなりつつ海の中では、離れたところに人魚がいたとしても、それが澪だと分からないだろう。

 海面が近くなるほどに、全身で感じる海水の圧が弱くなり、体が軽くなる。澪はますます勢いづいて泳いだ。

 海面がすぐそこになり、速度を緩めた。忙しなく動く櫂を避けて船尾側に回り込み、海面からそっと頭を出す。

 新鮮な空気を何度か吸い込む。

 これほど舟に近付いたのは、生まれて初めてだった。小さいと思っていたが、近くで見ると意外に大きい。舟に波がぶつかる音、櫂が水をかき分ける音が絶え間なく聞こえる。

 数人は乗れそうに見えるが、乗っているのは櫂を掴む人間一人だけのようだった。舟の縁に隠れて上半身しか見えない。人魚とさほど変わらない後ろ姿だ。人魚と違って布をまとっていて、ちっとも濡れていない。

 白髪の混じる黒髪は短い。布は海の深みのような藍色。供物の着物に比べると、なんだかずいぶん固くごわごわとしていそうで、素朴に見えた。供物の着物は特別なもので、これが人間の普段の着物ということなのだろう。

 肩幅のがっしりとした男は、前方を見据えて櫂をこぎ続けている。澪の存在にはまだ気付いていない。ここからでは、澪にも男の顔は見えなかった。

 彼が『あの人間』だ。きっとそうに違いない。海の底から見上げた舟の形は、渡夜が捕まった時と同じだ。そして、その男の後ろ姿を見て、彼が捜しているのは澪だという確信が、何故かあった。彼が捜しているのは多江ではない。

 澪は腕を伸ばして縁を掴んだ。舟がわずかに傾ぐ。異変に気付いた男が振り返った。

 髪に白髪が混じっているからもっと年寄りかと思っていたが、意外と若い。とはいえ、澪よりはずっと年上だ。三十路を越えていくらか経ているといったところだ。

 瞠目する男と目が合った。男は、人魚を見た、という驚きとは違う、あるいはそれ以上の何かに驚いているように見えた。

「凪海……」

 男が口にしたのは、もちろん澪の名前ではない。男に見覚えなどない。人間を見るのも言葉を交わすのも、これが初めてなのだから。

「――あなたは、誰」

 それなのに、澪は胸が締め付けられたように痛くて苦しかった。目頭が熱くなり、海の中では決して目にすることはない、涙をこぼしていた。

「……お前は、凪海じゃないのか?」

 澪は首を横に振った。そんな名前は知らない。だけど、胸の奥がざわつき、どうしようもない懐かしさがこみ上げてくる。

「わたしの名前は澪。あなたは?」

「――俺は耕太だ。洲央村の、耕太」

「耕太……」

 かみしめるように男の名前を呟く。耕太。胸の奥のざわめきはますます大きくなり、涙が止まらなかった。

 それを手のひらで拭い、耕太を見上げる。

「この前、小さな人魚を捕まえたのはあなたなの?」

「……人間の生まれ変わりの人魚が二人いると聞いたよ。澪と、多江。――お前は、その澪か?」

 耕太はもう驚いた顔はしていなかった。怖い顔でもない。渡夜や、今までにも他の人魚を捕まえてきた人間だと分かっているのに、怖い恐ろしいという感情が澪の中には少しも湧いてこなかった。

「わたしは、人間の生まれ変わりだと言われて育ったわ。夫婦岩のそばで、花嫁衣装を着て沈められた若い娘だったって」

 一瞬だけ、耕太が険しく悲しい表情を見せた。

「……それが凪海なの? わたしはその人の生まれ変わりなの? あなたは、わたしを捜していたの?」

「――澪は、凪海と瓜二つだよ」

 耕太の表情が弛む。

「本当に、人魚に生まれ変わったんだな……」

 微笑んでいるけれど、耕太の表情は悲しそうにも見えた。

「凪海は生け贄にされたんだ。そういう娘は人魚に生まれ変わって、人魚の長の妻になると聞いた。澪も、そうなのか?」

「長の跡継ぎの、許嫁なの」

 言って、ひどく後ろめたい気持ちになった。耕太は澪を捜していてくれたのに、澪はそんなことも知らず、波弥斗の許嫁として過ごしてきたのだ。

 そうか、と耕太が呟く。その姿を見ているだけで胸が痛い。

「澪は今、幸せか?」

「……分からない。でも、不幸ではないわ」

 澪にひどいことをする人魚はいない。『幸せを約束された娘』だから大事にしてくれる。波弥斗も、行き過ぎなほどいつでも澪を気にかけてくれる。

 海の中にいれば、それはきっとずっと続くのだろう。穏やかで変わらない日々。それは決して不幸な暮らしではない。

 だけど、幸せとは言い切れなかった。

 不足はない。けれど、心のどこかが常に満たされていないのだ、と澪は気が付いた。

「長の跡継ぎの許嫁は、幸せとは言えない、か。波弥斗が澪にひどいことをするのか?」

「波弥斗はひどいことなんて――どうして、波弥斗の名前を知っているの?」

 澪は目を丸くした。

「他の人魚から聞いたの?」

 渡夜から聞き出したように。渡夜以外の人魚も、耕太に捕まってから解放されるまでの間に何があったのか、誰も何も言わない。

「いいや。人魚から聞いた訳じゃない。でも、今の長の跡継ぎの名は波弥斗で、人間の生まれ変わりの娘が波弥斗の妻になる、という話は前から知ってた」

 人魚と人間の交流はない。供物を一方的に捧げられ、受け取るだけだ。けれど、その関係はずっと昔から続いているという。ならば、生け贄にされた人間の娘が生まれ変わって、長かその跡継ぎの妻になる、というのもいつの間にか知られていたのかもしれない。

「……波弥斗はひどいことなんてしない。でも、生まれた時から波弥斗の許嫁だと言われて、わたしの気持ちは誰も聞いてくれない」

「波弥斗が嫌いなのか」

「嫌いじゃない。でも、波弥斗のことは友達――仲間としか思えない。誰と夫婦になるか、わたしは……」

 生まれた時――いや、凪海という人間の娘が人魚に捧げられた時から、澪は波弥斗の許嫁と決まっていた。誰もがそれを疑わない。波弥斗自身も。

 だけど澪は、どうしてなのかと考え続けていた。だって、誰と夫婦になるかは、自分で決めたいではないか。他の人魚は、自分達で決めるのに。

「――澪。俺と来るか?」

 いつの間にか、拭ったはずの涙がまた流れていた。その涙に、耕太が指先で触れる。温かかった。

「凪海は俺の恋人だった。だが、身寄りがいないという理由で生け贄にされたんだ」

 ああ、と澪は声にならない声をこぼした。

 今、自分が何を望んでいたのか、望んでいるのか、はっきりと分かった。

 凪海だった時のことは覚えていない。思い出せない。だけど、これだけははっきりと覚えている。思い出していた。

 わたしは、耕太と一緒にいたいのだ。

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