第5話

 当分の間、息継ぎ以外では海面に近付かないように、と宇潮はすべての人魚に言い渡した。食事のために魚を追う時も、海面に近付きすぎないように注意し、舟の影を見つけたらすぐに離れるように、とも言われた。不満の声を上げる人魚もいたが、他の仲間にたしなめられていた。

『あの人間』に誰かが捕まった後は、いつも長が注意を促す。けれどしばらくすれば、皆また海面に近付いていく。息継ぎはしなければいけないし、昼間でも薄暗い海底近くを這うように泳ぐのはすぐに嫌気がさすからだ。

 明るい海面に向かって力強く泳ぎ、射し込む光の帯に沿ってまた潜る。時にいるかと競争して遊び、疲れたらちぎれた海藻のように海の中の流れに身をゆだねる――天ヶ内の人魚は、そうやって海の中を自由気ままに生きるものなのだ。

 もっとも、澪と多江には、皆と同じような自由は許されていないのだが。

 澪は、海藻の間をすり抜け、時折仰向けになって、半ば海流に身を任せて泳いでいた。

 昨日の今日なので、海底から離れたところを泳ぐ人魚の姿はなかった。漁に出てきた舟が見えるから、昨日の一件がなくとも、海面に近づく人魚はいない。

 澪はその舟から離れる方向へ、仰向けになって泳ぐ。

 昨日の舟よりも二回りも三回りも大きい。『あの人間』も乗っているのだろうか。それとも、昨日のあの小さな舟に乗って人魚を捜しているのだろうか。『あの人間』は、どうせ逃がすのに、なぜ人魚を捕まえるのだろう。

『あの人間』の目的をここでいくら考えても答えなど出ない。答えは『あの人間』が持っている。

 仰向けに泳ぐのをやめ、澪は体をぐんと大きくしならせて速度を上げた。

 澪の求める答えは海の中にはないだろう。

 だけど、手がかりはあるかもしれない。


    ●


 渡夜の家族が使うねぐらを訪ねると、少女はそのすぐ近くにいた。遠く離れるのも嫌なのだろう。あるいは、今は姿が見えないが、両親に遠くへ行くなと言いつけられたのかもしれない。

「こんにちは、渡夜」

「澪ねえ様……!」

 声をかけると、渡夜が跳ねるように寄って来た。その小さな頭を、澪は優しく撫でる。

「澪ねえ様、ごめんなさい」

 渡夜の表情は曇っていた。

「どうしたの、いきなり」

「昨日、『あの人間』に捕まった時、澪ねえ様と多江ねえ様のことを喋ってしまったの。だから、ねえ様達は絶対に海面に近付いちゃ、だめ!」

「『あの人間』が、わたしや多江のことを訊いたの?」

 渡夜を訪ねたのは見舞いのつもりだったが、昨日のことを訊くためでもあった。渡夜は怖い思いをしたばかりで気が引けたが、『あの人間』が人魚を捕まえる理由の手がかりがほしかったのだ。まさか、渡夜から言い出すとは思わなかった。

「おまえは人間の生まれ変わりかって訊かれたの。違うって答えたら、そういう人魚を知らないかって、すごく怖い顔で言うの。だから、澪ねえ様と多江ねえ様のことを……ごめんなさい!」

 渡夜は今にも泣き出しそうな声と顔だった。知りたかったことを尋ねるまでもなく教えてくれたのはありがたい。けれど、渡夜は本当に怖い思いをして、それなのに罪悪感を感じているので、胸が痛くなる。

「いいのよ、渡夜。気にしないで。もし答えなかったら、何をされるか分からなかったんでしょう?」

「でも、ねえ様達の名前まで教えちゃった……ごめんなさい、ごめんなさい!」

「大丈夫よ。わたしも多江も、海面には近付かないから。息継ぎの時もよおく気を付けるしね」

「とっても気を付けてね。『あの人間』はきっと澪ねえ様か多江ねえ様を捜してるんだよ。見つかったら捕まって、二度と海に戻ってこられないかも」

「渡夜。このことは誰かに話した?」

「ううん、まだ誰にも。多江ねえ様にも、波弥斗にい様にも、父さんと母さんにも……」

 波弥斗や両親に話せば怒られると思っているのだろう。波弥斗が知れば、何故澪にそんなことを教えたのかと、渡夜を叱るに違いない。

「じゃあ、誰にも話さなくていいから」

「いいの?」

「ええ。多江にはわたしから言っておくわ。わたしと多江が知っていればいいことでしょう? ありがとう、渡夜。教えてくれて」

「うん……ねえ様、本当に本当に、気を付けてね」

 不安そうな表情を浮かべる渡夜に、再度お礼を言って、澪は渡夜のねぐらを後にした。

 遠い海面を見上げるが、舟の影はない。昼を過ぎた頃だから、もう陸へ戻ったのだろう。

『あの人間』も陸へ帰ったのだろうか。

 どうして、人間の生まれ変わりの人魚を捜しているのだろう。捜しているのは、澪なのだろうか、多江なのだろうか。見つけて、どうするつもりなのだろう。人間だった時の澪か、多江を知っている人なのだろうか。

 疑問はむしろ、深まるばかりだった。


    ●


 海の中は広くても、ねぐらに適した場所は案外少ない。隣のねぐらにいる人魚の顔が見えたら、それは近い方だ。海底の地形や海藻などのせいもあって、ふつうは隣のねぐらは見えない。それでも、ちょっと泳げばご近所さんに挨拶できる。

 多江とその養い親である佐々のねぐらは、ちょっと泳ぐだけでは足りない場所にあった。

 天ヶ内海には小さな島だたくさん点在していて、人間が住んでいない島も多い。佐々と多江は、そんな島の近くをねぐらとしていた。周辺には同じような島がいくつかあって、島と島の距離が近いため、海の流れは複雑で、比較的早い。ねぐらにはあまり向いていないが、複雑な海流と陸が近いおかげで豊かな一帯を形成していて、魚が多く味も良い。両岸から離れていて、海流の複雑さは人間にとっては難所のため、滅多に舟も来なかった。

 ただ、皆が住む場所からも離れているので、ねぐらにこもっていたら、他の人魚との交流はほとんど望めないような場所でもあった。

 多江達のねぐらは、他の人魚でも避けるような浅い場所にある。長や波弥斗に場所を移すように言われているが、多江はともかく、佐々はねぐらを移す気はないらしい。

 人間がほとんどやって来ない海域だからこそ、この深さでもねぐらにできるのだ。澪のねぐらに比べると、昼間はだいぶ明るい。わずかに砂がたまっている海底に横たわる多江は、全身が光に包まれていた。

「澪ねえ様」

 多江は手を突いて体を起こした。明るいので、驚いている多江の顔の陰影が濃い。

「お昼寝中だった? ごめんね、邪魔しちゃって」

「ううん、大丈夫。それより、どうしたの。ねえ様がこんなところに来るなんて、珍しい」

 再三移れと言っている場所だ。波弥斗が、そんなところに澪が近付くのを歓迎するはずがない。多江を訪ねるのだと言っても、決していい顔はしなかった。今日ももちろん、波弥斗には内緒の訪問である。彼は今頃、どこへ行ったか分からない澪を探し回っているだろう。明るいこの場所で多江とのんびり話をしていたいが、いずれはここへやってくるから、ゆっくりとはしていられない。

「渡夜が『あの人間』に捕まったという話は聞いた?」

「うん。昨日、波弥斗にい様がここに来て教えてくれた。渡夜はすぐ解放されたけど、しばらくは海面に近づくなって。ついでにねぐらを移せって言われたわ」

 明るい場所にいるせいか、表情がなおさら曇って見える。

「佐々ばあ様はねぐらを移せという話は無視してたけど、ばあ様も海面には近づくなって。いつもはそんなこと言わないのに――『あの人間』はそんなに危険なの?」

 多江もまた、極端に遠ざけられているために人間をまったくと言っていいほど知らない。そして、澪と同じように知らないからこそ、恐ろしいという皆の言葉を鵜呑みにするのではなく、本当なのかと疑問を抱いているのだ。これは、澪達が人間の生まれ変わりという証左なのだろうか。

「……渡夜はすぐに解放されたわ。怪我もしてない。ただ、人間の生まれ変わりの人魚はいないか、訊かれたんですって」

「え」

「『あの人間』は、わたしか多江を捜しているのかもしれないの」

「どうして……?」

 予想だにしなかったのだろう。多江は困惑した表情を浮かべる。

「分からない。もしかしたら、人間だった時のわたしか多江の知り合いなのかもしれないわね」

「でも、わたし、人間だったと言われても、ぴんとこない。そんなこと、覚えてもいないし」

「わたしも同じよ。でも、これからは『あの人間』はわたしか多江を捜すと思うわ。渡夜が、わたし達のことを話してしまったんですって。怒らないでね、あの子、怖くて仕方なく言ってしまっただけだから」

「うん、怒ったりしないよ。わたしはいつもこのあたりにしかいないし、ここには人間は来ないし。それより、澪ねえ様こそ気を付けて」

 自由気ままに動き回れないのは澪も多江も同じだが、多江に比べれば、澪の方が行動範囲が広い。

「分かってる。大丈夫よ。それより、この話は内緒ね。渡夜は、怒られると思って誰にも話していないから」

「うん」

 大きく頷く多江の動きに髪がついていかず、同じようなところにわだかまる。その向こうに、不意に影が現れた。

「跡継ぎの嫁御がこんなところにお出ましとは、珍しい」

 白髪が目立つ長い髪が、ゆらりと揺れる。

「佐々ばあ様……」

 音もなく背後の現れた養い親に驚いたのは、多江だ。

「まだ夫婦にはなっていません」

 少々唇を尖らせて、澪は佐々に言い返す。

「いずれ夫婦になるんだから同じことさ。それより、お前達。海面には決して近付くんじゃないよ」

 多江と澪の顔を交互に見る佐々の目つきは険しかった。

「渡夜が言っていたのはきっと本当さ。『あの人間』はお前達のどちらかを捜している」

「盗み聞きしていたんですか」

「聞こえたのさ。安心しな、他の誰にも言わないよ」

 佐々はとぼけた顔をするが、すぐにまた険しい目に戻った。

「そんなことより、分かったね?」

「海面に行かないと息継ぎできません。息継ぎしないと、死んでしまう」

「素早く済ませることだ。人間の舟がいないところでね」

 佐々は仲間を避けるように、皆から離れた場所をねぐらに選んでいる。それなのに、皆と同じようなことを言う。

 ただ、彼女は人間の供物を受け取るのも快く思っていない。単なる人間嫌いなのではないか、と澪は思っていた。

「……佐々ばあ様に訊きたいことがあります」

 佐々は、澪が知る中で一番の長生きだ。顔にも上半身にも、しわとして彼女が生きてきた年月が刻まれ、下半身には細かな傷が多く、尾鰭の端はすり切れている。

 澪が佐々に訊こうと思ったのは、彼女が単に一番の長生きだから、だけではない。

 佐々は、海の中から集めた材料で、様々な薬を作る。それを求めて、天ヶ内の人魚は密かにこのねぐらを訪ねてくるのだ。病や怪我を治す薬だけではない薬も、頼めば作ってくれるという。

 気むずかしく、交流を好まない性格から、皆がそれとなく佐々を避ける一方で、彼女の作る薬を求めていろいろな人魚が来るから、自然と、様々な話が耳に入ってくるはずだ。

「海のことなら、跡継ぎか長に訊けばよかろう。天ヶ内海のことはすべて長の耳に入る」

「『あの人間』はなぜ、わたしか多江を捜しているんですか」

「あたしだって知らないさ、そんなこと。でも、どうせろくでもない理由だろう」

 人間は恐ろしい生き物だからね、と佐々は付け足す。

「お前達は、人魚に生まれ変わってよかったのさ」

「……わたし達は、本当に人間の生まれ変わりなんですか」

「お前さんが生まれる一年ほど前、人間の娘が沈められた。花嫁衣装を着た娘がね。その後、最初に生まれた人魚がお前さんだ。多江が生まれる前も、同じことがあった」

 佐々はただでさえしわだらけの顔をしかめ、さらにしわを深くした。

「人間は海では生きていけない。それを人間自身がよく知っているくせに、若い娘を海に沈めるんだ。二人もね。鱶よりもよほど恐ろしい生き物だよ」

 だから、佐々は人間を嫌うのだろうか。

 そう思ったが、そんなことを訊けそうな雰囲気ではなかった。

「これ以上浅いところへ行けば、お前達を殺した人間に見つかりやすくなる。せっかく人間の世界とおさらばしたんだから、お前達は海面に近付いちゃいけないよ」

 それより、と佐々はヒオウギ貝を差し出した。

「来たついでだ。この薬を長に届けておくれ。昨日、跡継ぎが来たけど、言いたいことを言うだけ言ってさっさと帰ったから渡しそびれたんだ」

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