第4話

 澪は岩にもたれて、海面を見上げていた。爪の先ほどの白い太陽を背にして、大きな影が三つ見える。ふかではなく友人達の姿だ。小魚の群と一緒に泳いでいる。遠くからだと戯れているように見えるが、実際は食事のために追いかけているのだ。

「……いいなあ」

 呟いた口から小さな泡がこぼれて浮き上がる。あの泡を追いかけていけたら――。

 だが、澪はしばらく泡を目で追ったものの、また岩にもたれかかって、尾鰭を一振りしただけだった。行ってみたいけど、息継ぎではないから行ってはいけない。澪に許されているのは、この深さまで。

 澪よりも幼い人魚でさえ、食事のために魚を追って海面近くまで泳いでいくことがある。幼い頃は、もっと浅いところへ行きたいとだだをこねた。

「澪」

 声に振り返る。澪がもたれている岩の後ろは、更に深いところへ続く緩やかな斜面になっている。その斜面に沿って、波弥斗が短い髪を揺らしながら泳いで上ってくる。

「こんなところで、何をしてるんだ」

 波弥斗は、澪がいる岩のてっぺんに腕を乗せた。澪は別にと言って視線を逸らす。

 陸地に挟まれているいる天ヶ内海は、海藻がよく育ち魚の数も豊富だ。その恩恵にあずかっているのは人魚も人間も同様である。

 姿形は半分だけ同じ。密かに聞いた話だと、人間とは言葉も通じるという。

 けれど、両者の隔たりは大きい。人間は供物を捧げても、人魚に積極的に近付いてこようとしない。

 だからこそ、舟を慎重に避ければ海面に近付いて息継ぎできるし、海面近くで食事もできるのだが。

「……わたしももっと上へ行きたい」

「息継ぎか?」

「食事よ。彼女達と一緒に」

 小魚の群は消えていたが、友人達はまだ上にとどまっている。捕まえた魚を食べているのだろう。

「澪はだめだよ。分かっているだろう」

 今は舟は見あたらないし、人間は人魚に近付いてこない。それでも、澪には許されないのだ。零れたため息は泡になり、目の前を通り過ぎた。

 澪も多江も、海で死んだ人間の生まれ変わりだという。それも、ただ溺れ死んだ人間ではない。

 天ヶ内海沿岸に住む人間達は、若い娘に白い衣を着せて海に沈めることがある。天ヶ内人魚の長の妻にと、差し出しているらしい。

 人魚が妻をよこせと人間に要求したことは一度もないが、不漁や嵐が続いたりすると、人間は若い娘を海に沈めた。娘を差し出す代わりに大漁にしてくれ、と願っているそうだ。

 十七年前、白く豪奢な衣を着た娘が夫婦岩の近くから沈められた。それが、生まれ変わる前の澪だという。十五年前には違う場所で、けれど同じように娘が沈められ、後に多江が生まれた。

 人間の娘を差し出されても、人魚にはどうしようもない。人間の大漁不漁は関わりがないことだし、人魚に嵐を鎮める力などない。

 ただ、人間は生きていけない海に無理矢理沈められた娘達を哀れに思い、彼女達の生まれ変わりである人魚を、せめて幸せにしてやろうとするのだ。

 だから、澪は、波弥斗の許嫁なのだ。また恐ろしい目に遭わされるかもしれないから、息継ぎ以外では海面に近付いてはいけないのだ。

 だけど本当に、人間は恐ろしいのだろうか。洲央村の人間達は、毎年欠かさず供物を捧げている。銛も網も着物もかんざしも、人魚には作れないから、喜んで受け取っている。なのに、人間を恐ろしいというのもおかしな話だと、澪は思う。

 海面に近いところをまだ泳いでいる友人達を、また見上げる。

 澪は人間だったという。では自分も、人魚にとって恐ろしい存在だったのだろうか。

「そろそろ戻らないと、人間に見つかってしまう」

 澪の視線を追いかけるように顔をあげた波弥斗が、眉間にしわを寄せた。

 食事を終えた友人達は、尾を揺らして追いかけっこを始めていた。差し込む太陽の光が、時折遮られる。

 食後にのんびりしているだけだからいいじゃない、と澪が言おうとした時、彼女達の動きが急に乱れ、慌ただしくなった。

 一斉に太陽に背を向け、深い方へ向かって大きく尾を振る。しかし、小さな影が一つ、友人達とは逆方向――海面に向かっていた。小さな人魚は何かに絡め取られ、そこから逃れようとしてばたばたと暴れていた。

 それを見た波弥斗が勢いよく飛び出した。

「波弥斗!」

「澪はそこにいろ!」

 全身を大きくしならせ、波弥斗は海面に向かってぐんぐん泳いでいく。彼と、潜ってくる友人達と途中ですれ違った頃には、小さな人魚の影は見えなくなっていた。その代わり、いつの間に現れたのか、舟の影があった。

 逃げてきた友人達は澪のそばまで来ると、不安そうな顔で海面を見上げた。

「どうしよう、澪。渡夜とよが捕まっちゃった」

「いきなり網が投げ込まれたの」

「人魚を捕まえるための網よ。編み目が大きかったもの」

 友人達は一様に顔を青くする。

「きっと『あの人間』よ」

 人間は魚を捕まえるために舟に乗り、海に出てくる。人魚を捕まえようとしない――ただ一人を除いて。それが、『あの人間』だ。

 今までに何人も『あの人間』に捕まっている。『あの人間』の乗る舟は他の舟よりも小さく、他の舟が来ないような場所にも来るので、油断した人魚が捕まってしまうのだ。

 しかし、捕らえられた人魚はいずれもすぐに解放されていた。『あの人間』は、人魚を捕まえるだけなのだ。陸に連れて行くわけではない。

 他の人間と違って何故人魚を捕まえるのか、捕まえながら何故解放するのか。『あの人間』に捕まった人魚は何があったのか言おうとしないので、その目的は分からなかった。

 波弥斗は『あの人間』が乗る舟の真下にいた。人間は魚を捕る時に銛を使うこともある。『あの人間』が人魚を捕まえるのに銛も使うという話は聞かないが、持っている可能性はあるだろう。

 だけど、小さいとはいえ舟の真下にいれば、銛で刺される心配は減りそうだ。

 舟は、波弥斗の倍ほどの長さがあった。その舟に、彼は体当たりをする。尾鰭で船底を叩き、手で押して上に下に、右に左に、大きく揺らす。

 澪も逃げてきた友人達も、固唾を呑んで見守った。

「あっ!」

 海面近くに、一度は消えてしまった小さな影が現れた。舟から飛び出すように現れたその影は、泡に包まれ、必死に尾鰭を振って深いところを目指す。

 波弥斗も舟から離れ、逃げる渡夜の後を追いかけた。力強く泳ぐ波弥斗は渡夜に追いつくと、寄り添って泳ぎ始めた。

 その頃には、澪達も安堵の表情に包まれていた。

 澪達がいるところまで波弥斗と渡夜がたどり着くと、二人を取り囲み、渡夜を抱きしめて無事を喜んだ。

「さすがは天ヶ内人魚の次の長ね」

「波弥斗さんがいなかったら、どうなっていたかわからなかったわ」

「俺は大したことはしてないよ。誰もけがをしなくてよかった」

「こんなことを言ってはなんだけど、波弥斗さんの勇敢なところを見て、澪は惚れ直したんじゃない?」

 すっかり安心しきった一人が澪の肩を小突き、友人達がわっと盛り上がる。

 そんなことはないだろと言いつつ、波弥斗はまんざらでもない顔だ。

 しかし澪は、ただ曖昧な笑みを浮かべただけだった。

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