第14話

 ふすま越しに聞こえていた金切り声は、廊下の角を曲がって少し歩くと、聞こえなくなった。

 それでも、凪海の心は落ち着かない。

 あれほど憎悪に満ちた目で睨まれたのは初めてだった。自分を「ねえ様」と呼ぶあかねにあんな目を向けられた動揺は大きい。しかも、吐き捨てるようなあの台詞――。

「……あかねは動揺してるんだ」

 立ち止まり、平蔵が呟くように言った。独り言ではない口調だが、彼は凪海ではなく、数歩先の足元を見ていた。

「家族のことを聞いて、だけですか?」

 自分が知らないうちに家族が亡くなり、埋葬まで済ませたと聞いたら、平静ではいられないだろう。だが、それだけであかねにあんな目で睨まれ、あんなことを言われる訳がない。

「……あかねの身寄りは、同じ家で暮らす家族だけだった。引き取ってくれる親戚はいないし、あかねはまだ十四だ。十五になる前に身寄りをすべて亡くした子供は『お役目持ち』になるのが決まりだ。だから、あかねも『お役目持ち』になる」

 平蔵は顔を上げたが、複雑な表情をしていた。

「だけど、一つの村に『お役目持ち』は一人だけ。そういう決まりもあるから、あかねは洲央村を出ないといけない。だから、あんなことを――」

 凪海は何も言葉が出てこなかった。『お役目持ち』にそんな決まりがあったことさえ知らなかった。そして同時に、どうして自分が『お役目持ち』と呼ばれるのかも知った。タキの跡取り、という意味ではなかったのだ。

「あかねを引き取ってくれる村はもう決まってる。そこで、凪海みたいな役目を担うことになるんだと思う。大事に扱ってくれるそうだ。でも、俺がフグを持って行かなければ……」

「平蔵さんのせいじゃないですよ」

 今にも泣き出しそうな様子に、凪海は思わずそう声をかけた。きっと誰のせいでもない。誰のせいでもない、と思わないと、凪海自身、泣いてしまいそうだった。

「凪海の言う通りだ」

 廊下の角から、タキが現れた。

「誰のせいでもない。誰かのせいだと責めたところで、誰も救われやしないよ」

「でも、あかねが不憫だ。あかね一人くらい、館で面倒を見ても……」

「あかねのような子供が現れる度、引き取るのかい? それができるならいいが、あかねだけを引き取るなら、他の者が不公平だと言うだろう」

 タキの言葉に平蔵は言い返せなかった。

「かわいそうだが、仕方がない」

 タキは気の毒そうに言い、平蔵は黙り込んでしまった。

 凪海が、あかねの代わりに別の村へ行けば、丸く収まるのかもしれない。けれど、生まれた場所は違えども、十数年、凪海も洲央村で生きてきた。今更違う村へ行くのは凪海とて嫌だと思う。耕太と離ればなれになるのは耐え難い。

 そんな自分を、卑怯だと思った。あかねに、あんなことを言われても仕方がない。

 だけどどうしても、代わりに自分が、とは言えなかった。


    ●


 あれから、一度も顔を会わせることのないまま、あかねは比多井村へ送り出された。数日たてばあかねの気持ちが落ち着いて、少しは話ができるかもしれないと思ったけれど、会わない方がいいとタキに止められた。タキでさえ、様子を見に行けば睨まれ、荒い言葉を投げつけられたという。

 凪海から慰めの言葉をかけたところで、火に油を注ぐだけだ。せめて遠くからでも見送ろうと思ったが、それもタキに止められた。遠目でも凪海の姿を見てしまえば、あかねがまた激しく動揺するだろうから、と。

 姉と慕われ、妹のように思っていた。そんな少女との別れは、波瑠とは違う意味で、胸が苦しくなるものだった。

 タキ達が波瑠にしたことは、今でも許せない。彼女の死は、何の意味もなかったのだ。だけど、その後に起きたあかねの一家の死で、怒りは収まらざるを得なかった。

 幸治が怪我をしたのは凪海のせいだと、後になって聞かされたのだ。皆で凪海を囮にしたのだし、あの場面でじっとなどしていられなかった。そうは思うものの、それで幸治が怪我をして、そのために平蔵がフグを差し入れたのだから、凪海にまったく責任がなかったわけではないのだ。フグを持って行かなければ、と平蔵が悔いているように、あの時もっと上手に幸治の腕をすり抜けられたら、と思わずにはいられない。

 あかねも、同じように思っていることだろう。凪海が幸治を怪我させなければ、洲央村にいなければ――。

「どうした、凪海。浮かない顔して」

 漁を終えた耕太が、こちらに向かって歩いてくる。

 人魚狩りが中止となってから、志乃の家に通うのは三日に一度くらいになっていた。以前と同じように浜での仕事もしている。今日は浜で仕事をする日なので、舟が帰ってくるまで、浜でぼんやりと海を眺めていたのだ。

「今日は早いんだね」

 漫然と海を見ていただけなので、耕太達が戻ってきたのに気付かなかった。今頃皆忙しく働き始めているに違いない。ぼーっとしている場合ではないと、凪海は立ち上がって砂を払う。

「慌てなくていいよ。今日はもう人手が足りてると思う」

 耕太は笑い、立ち上がった凪海の隣に腰を下ろす。

「今日も、あまり取れなかったから」

「最近、取れる量が減ってるね……」

「……ああ。でも、まだ干物とか、蓄えはあるから」

 砂を払った凪海だが、再び腰を下ろす。

 耕太の帰りが早かったのは、魚が取れなかったからだ。この間までは十分な水揚げ量だったのに、ここしばらく、不漁が続いている。

 一年を通して漁をしているから、魚が取れる日もあれば、取れない日だってある。それは漁村に住む者であれば誰もが承知していることではあるが、今は時機が悪かった。

 人魚を殺したので、海神が怒っている――。

 表立って口にする者はまだいないが、人々はそう囁き合っている。遣いである人魚を殺されて怒った海神が、天ヶ内海の魚を取れないようにしたのだ、と。

 豊漁祈願祭で海神とその遣いに供物を捧げながら、洲央村は人魚に手をかけた。

 昭蔵達の命と税の減免を優先させたのは村人達自身だ。不漁が続いているのは偶然かもしれないが、海神の怒りを買ったのだとしても、それは自業自得というしかない。

 けれど、このまま不漁が続けば、蓄えがあってもいずれ苦しくなる。

 耕太の弟妹達や、これから生まれる志乃の子供、大人達のしたことに関わりのない子供達がひもじい思いをするのはかわいそうだ。

「きっと、またたくさん穫れるようになるよ」

「ああ、そうだな」

 凪海の無責任な言葉に笑って頷く耕太に、しなだれかかった。

 人魚狩りの命が下されてから、良くないことが続いている。これ以上はもう何も起きてほしくない。

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