第15話

 魚がたくさん取れる日もあるが、少ない日の方が多くなっていく。漁師達が浮かない表情で浜に戻ってくる度、海神の怒りを口にする者は増え、声を潜めるのをやめていく。どうすればいいのかと嘆き、これ以上の怒りを買うのは嫌だと恐れる者も現れ始めていた。

 凪海が、タキと共に村長の館に向かったのは、そんな頃だった。寒さが緩む日もあり、冬が去りつつあるのを感じる季節になっていた。

「婆様。今日はどういう用件なの?」

 村長の館に行くから付いてこいと言われたものの、用向きは聞かされていない。館にあがり、部屋に通されて昭蔵を待つ間に再度尋ねてみたが、タキは「大事な用だ」と言うだけで、詳しいことを教えてくれなかった。

 この時期に執り行う祭祀はないし、源藤様からまた使者が来たわけでもあるまい。結局見当が付かないまま、昭蔵が現れた。

「不漁が続いているのは、凪海も知っているな」

 当たり障りのない世間話を一通り終えた後、昭蔵は本題を切り出した。

「はい。これほど不漁が続くのは、初めてだと網元や漁師達が言っていました」

 凪海もほとんど記憶にない。さすがの耕太も、焦りを感じ始めている。

「網元達も困り果てて相談に訪れるが、海が荒れているわけでもないのに何故魚が取れないのか、理由は分からん。海流のせいではないかと言う者もいるが……海神の怒りに触れてしまったためだ、と言う者も多い」

「……そのようですね」

 何故海神の怒りに触れたのか、思い出すだけで胸が刺されたように痛む。昭蔵とタキが、網元達を先導したのだ。収まり、収めていた怒りが再燃しそうになるのを、凪海は懸命に抑えた。昭蔵もタキも、あの一件について凪海に謝罪したことはない。

「あいにく、源藤様の命であったとはいえ、我々は海神の怒りを買うようなことをしてしまった。それを詫び、怒りを鎮めてもらわねばならない」

 昭蔵はなにやら回りくどい言い方をしているが、要は、凪海とタキに、海神の怒りを鎮めるための儀式をしろということか。なるほど、それで凪海もここに連れてこられたのは分かる。だが、タキがあえて伏せるようなこととは思えなかった。あの一件があるから、黙っていたのだろうか。

 海神を怒らせたのは昭蔵達だが、それを鎮めなければいけない、というのは理解できる。皆、困っているのだ。このままでいいとは、さすがに凪海も思っていない。

「凪海、海神の怒りを鎮めることができるのは『お役目持ち』のおまえだけだ」

「わたし……だけ、ですか?」

 思わずタキを見る。凪海は彼女の跡継ぎではあるが、祭祀を執り行う中心は未だタキだ。作法等は教わっているものの、海神の怒りを鎮める儀式については聞いたことがない。

「海神に特別な供物を捧げることで、怒りを鎮めてもらうのだ。それは、『お役目持ち』にしかできない」

「どんな供物を捧げるんですか」

「花嫁という名の供物だ」

「え……?」

「『お役目持ち』自身が供物となり、海神の怒りを鎮めるのだ。凪海、おまえにしかできない」

 昭蔵の言っている意味が、すんなりと頭に入ってこない。彼は一体何を言っているのだ。凪海が花嫁? 耕太のではなく、海神の?

「そ……んな、まさか。だって、わたしは、もうすぐ耕太と、夫婦に」

「申し訳ないが、耕太ではなく、海神の妻となってくれ。洲央村のために」

「嘘でしょう……? だって、どうやって海神に嫁ぐの」

 助けを求めるようにタキを見る。返ってきたのは、冷淡な声だった。

「海神がおわす場所は海だ。そこに『お役目持ち』を捧げるのさ」

「い、生け贄、ということ……?」

「生け贄ではない。海神の花嫁だ」

 同じではないか。つまり、凪海は海に沈められるのだ。

 立ち上がろうとした凪海の裾を、タキがしっかりと掴む。体勢を崩した凪海は床に倒れ込んだ。

「嫌よ、生け贄なんて!」

「生け贄ではない、と言っているだろう。嫁ぐ相手が海神になるだけだ」

 昭蔵が、暴れる凪海を押さえつける。

「いや、絶対にいや!」

 騒ぎを聞きつけたのかそういう手筈になっていたのか、下働きの男達が数人、部屋に入ってきた。昭蔵に代わって、彼らが凪海を押さえつける。両腕を体の後ろに無理矢理回され、手首を縄で縛られる。声を上げようとする口には、猿ぐつわをはめられた。

「こういう時のための『お役目持ち』なんだ、凪海」

 すっかり縛り上げられた凪海を見下ろす昭蔵は、いかにも仕方がないという顔をしていた。凪海の声はくぐもったうめき声にしかならず、こぼれる涙も猿ぐつわに吸い込まれる。

「……凪海。今まで通り、『お役目持ち』として務めを果たすがいい」

 一足先に背を向けて、タキは行ってしまった。

 男達に半ば抱えられるようにして、凪海は館の一室へ移動させられた。六畳ほどの板の間で、出入り口はふすまではなく、しっかりとした板戸だった。

 拘束を解かれた凪海は、部屋の中に無理矢理押し込まれる。すぐに戸に飛びついたが、錠が下りる音を聞いただけだった。

「出して! お願い、戸を開けて!」

 両手で何度も叩き、声の限りに訴えたが、何一つ応答はなかった。やがて、凪海はその場に座り込んですすり泣いた。

 部屋は漆喰の壁で囲まれ、天井近くに、明かり取りの小さな窓が切られているだけだ。そんな小さな窓でも、格子がはまっている。館の中をすべて知っているわけではないが、こんな座敷牢があるとは思わなかった。

 薄いながら布団があり、火鉢も用意されている。ずいぶん前から火が入れられていたようで、寒くないのは幸いだった。

 食事は、戸の下に設けられた小さな戸から差し入れられた。さすがは村長の館と言うべきか、品数が多く立派な膳である。どうせ生け贄にされるのだから食事をとったところでと思ったが、空腹に耐えられず、泣きながら口に運んだ。こんな状況でなければ、舌鼓を打って食べただろう。

 ひんやりとした漆喰の壁にもたれ、小さな窓を見上げる。外はすっかり夜になっていた。

 今夜はまだしも、数日も経たないうちに、耕太が凪海がいないことに気付くはずだ。タキは彼に何と言うのだろうか。『お役目持ち』として海神に嫁ぐのだと、隠さず告げるのか。村の皆にだって、いずれ言わねばならないはずだ。凪海が驚いたように、皆も驚くだろう。それとも、知らないのは凪海だけで、皆、『お役目持ち』の本当の務めを知っていたのだろうか。知っていたから、今まで『お役目持ち』の凪海を大切にしてくれたのだろうか。

「……」

 一度は止まっていた涙が、再びこぼれてくる。

『お役目持ち』が何故、身寄りのない十五歳未満の子供なのか。

 海が不漁となれば、生け贄として捧げるからだ。不作や、山で不猟の時は、きっとまた別のところに捧げられるのだろう。

 あかねは、あの様子からすると、『お役目持ち』が生け贄になるかもしれないことを知らない。知っていれば、洲央村にいたいとか、凪海がいなければとか、言わないだろう。

 では、村人も『お役目持ち』の本当の役目は知らないのだ。知っていてもごく一部の者だけか、堅く口を閉ざして言わないだけだ。そうでなければ、『お役目持ち』の者が己の役割を知って、逃げてしまうから。

「婚礼の日は十日後だ。それまではここで、豊漁を祈っておくんだよ」

 夕餉が運ばれてきた時、タキもいた。タキの顔は見えなかったが、やせ細った足下は見えた。

 生け贄にされるのでなければ、いくらでも祈っていた。今は、そんな気も起きない。

 波瑠は確かに人魚だったが、海神の遣いではない。人間がそう思っているだけで違うのだ、と笑いながら言っていた。人間が陸で生きているように、人魚は海で生きているだけ。日本の足がない代わりに尾鰭があるだけ。荒れた海を鎮めるとか、魚を呼び寄せるとか、そんな不思議な力は何もないのだ、と当の人魚が言っていた。海神は見たこともない、とも。

 それでも人間が人魚を海神の遣いだと思いたいのは、人間にはない尾鰭を持ち、海を自在に泳ぎ回るからだ。凪海は人間で、洲央村で漁師達を間近に見ながら生きてきたから、人魚を神の使いと信じたい人々の気持ちは分かる。天候や自然の力に左右されるから、何かに縋らずにはいられない。

 人魚は海神の遣いではなく、海神もいない。

 言ったところで、凪海は生け贄にされるだろう。凪海の言葉の真偽は問題ではないのだ。

 膝を抱え、頭を埋める。人魚狩り以来良くないことが続いていて、その極めつけが、この状況だ。止まった涙は、何度でもすぐに溢れてくる。

 嫌だ。死にたくない。もう一度海に沈むなんて。もう波瑠はいないから、きっと誰も助けてくれない。同じ死ぬにしても、せめて耕太の妻になりたい。

「耕太……」

 会いたい。今すぐに会いたい。声を聞きたい。名前を呼んでほしい。あの両腕で強く抱きしめてほしかった。

 でも、こんなところに閉じこめるくらいなのだから、会わせてもらえるとは思えない。

 もう会えないのかと思うと、胸をかきむしりたくなるほど切なかった。

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