第16話

 座敷牢の戸が、数日ぶりに開く。女達が、真っ白な衣を抱えて入ってくる。花嫁衣装を作ったので、衣装合わせをするという。

 凪海はおとなしく彼女らに従った。

「よくお似合いですよ」

 裾や袖を直し、二度目の衣装合わせをした時、女の一人がそう言った。

 もう少し暖かくなれば、耕太と夫婦になるはずだった。思い出すと辛いから、忘れていた。忘れたふりをしていた。

 耕太に嫁ぐための衣装なら、どんなに良かっただろう。

 鏡はないので、凪海には自分の姿が見えない。だけど、ひどく悲しい顔をしているであろうことは、鏡を見なくとも分かった。似合うと褒めた女も、気まずそうな顔をしてそれきり何も言わなかった。

 衣装合わせをした日の午後、昭蔵とタキがそろって座敷牢を訪れて、『婚礼の日』は明後日だと告げた。


    ●


 明日の昼、『婚礼』の儀式が執り行われる。豊漁祈願祭の時のように夫婦岩の近くまで舟で行き、供物と同じように捧げられるのだそうだ。

 最後となる夕餉は、今までで一番豪華だった。不漁はまだ続いているというのに、刺身や尾頭付きの鯛が、膳に載っていた。

 座敷牢に入れられた日よりも味は感じた。けれど、これが最後の夕餉かと思うと、諦めたはずなのに涙が流れ、もったいないとは思ったがすべてを食べきることはできなかった。

 魚が取れますように、皆が飢えませんように――敷いた布団に力なく横たわり、祈りを口にしてみても、今は空虚な音にしかならない。

 明かり取りの窓からのぞく夜空と小さな星を、見るともなしに見ていると、戸を叩く音が聞こえた。

 見張りが身じろぎした時にうっかり手が当たった、という音ではない。こんな時間に、誰かが訪ねてきたようだ。

 どうせ、昭蔵かタキだろう。返事をしなくとも、向こうは用があるから勝手に入ってくる。凪海は寝返りを打って戸に背を向けた。

「凪海。起きてるか」

 聞こえるはずのない声に、凪海は飛び起きた。

「――耕太?」

 会いたいと思うあまり、幻聴が聞こえたのか自分の耳を疑った。だけど幻聴でも、耕太の声が聞けるのなら構わない。

「ああ、俺だ」

「耕太……!」

 凪海は戸に駆け寄った。この向こうに耕太がいる。もう二度と、声を聞きことさえできないと思っていた。数日ぶりに聞く耕太の声は、体中に染み渡るようだった。戸に額を当てて、凪海は泣いた。足下に滴がいくつも落ちる。

 すると、突然戸が開いた。急に支えるものがなくなってつんのめるが、

「おっと」

 すぐに抱き留められる。顔を上げると、見たくて仕方なかった顔が、そこにあった。

「どうして、ここに?」

 凪海は耕太の裾をしっかりと掴み、食い入るようにその顔を見つめる。まさか、また逃げるために来たのだろうか。でも、耕太が村長の館に簡単に入れるはずがない。

「平蔵が、村長に頼み込んでくれたんだ」

 耕太が背後を見やる。そこには平蔵と、見張りの男が二人、立っていた。

「会えないままじゃあ、気の毒だからな。監視付きなのは、勘弁してくれ」

「平蔵様……」

 声が詰まり、言葉にならなかった。そんな凪海を、耕太が抱きしめる。

「凪海――!」

 彼の気持ちは痛いほど分かる。凪海も、耕太をしっかりと抱きしめた。

 このままでいられたら、明日などこなければ。明日が来るのなら、抱き合ったまま消えてしまいたかった。

「平蔵様。これ以上は」

 見張りの男が、平蔵に耳打ちするのが聞こえた。凪海と耕太に許された時間は、ごくわずからしい。

「耕太、凪海。悪いが、時間だ……」

 遠慮がちな声に、耕太の腕がゆっくりとほどける。その姿を最後まで見逃すまいと、凪海と耕太はしっかりと見つめ合う。

「耕太、幸せになってね」

 凪海は涙を拭い、精一杯笑って見せた。

「凪海……」

 耕太の顔が歪む。これがきっと最後なのに、そんな顔で別れるのはあまりに寂しい。

「お願いよ、耕太。いつもみたいに笑って。ずっと覚えておくから」

 見張りの男が、泣き出しそうな耕太の肩をつかんで、凪海から引き離す。もう一人の男が、凪海を座敷牢の中へ押し戻す。離れていく耕太は、一瞬笑みを浮かべようとしたが、すぐにぐしゃぐしゃに歪んでしまった。

 せめて自分は、耕太の姿が見えなくなるまでは笑っていよう。うまくできていたかは分からないけれど。

「耕太……!」

 凪海は閉じられた戸に縋り、ひたすら泣き続けた。


    ●


 朝から忙しなかった。

 朝餉が終わるとすぐに女達がやってきて、お湯で体を清められた。すっきりした気持ちになる間もなく花嫁衣装を着せられ、髪を結われ、顔には化粧を施された。衣装合わせの時にも思ったが、花嫁衣装は幾重にも重ね着をするので、重くて動きづらい。

 すっかり準備が整ってから座敷牢から連れ出され、周囲を女達に取り囲まれたが、そんなに見張らなくとも、この衣装では走って逃げるのは無理だろう。

 連れて行かれた先は、広間だった。昭蔵と平蔵、それにタキがいた。三人とも、晴れやかな場で着る衣装をまとっている。

「……よく似合ってるよ、凪海」

 タキが目を細めて、凪海を見る。

「海神様もきっとお喜びになる」

 昭蔵はそう言ったが、どこまで本気で言っているのだろうか。平蔵は、申し訳なさそうな顔で凪海から目を逸らした。

 久しぶりに出た外は、さらに春に近付いていた。空はどこまでも青く晴れ渡っている。

 昭蔵が先頭に立って、海岸へ向かう。

 館の外には村人が集まって道の両脇に並び、花嫁行列を見送っていた。参列者の中には知った顔も多いが、凪海が視線を向けると、誰もが目を逸らした。晴れやかな顔をしている者は一人もいない。集まった人々は皆、凪海がこれからどうなるのか知っているのだ。

 浜に着くと、人の手を借りて舟に乗り込んだ。豊漁祈願祭の時も乗った舟だが、漕ぎ手の中に耕太の姿はない。見送りの列にも彼の姿はなかった。凪海に近付いてはならないと言われているのだろう。

 昨日の最後の逢瀬を、凪海ははっきりと覚えている。耕太の腕の力も、彼のにおいも、笑みも涙も、決して忘れはしない。

 穏やかな波の中、舟は夫婦岩を目指して進む。舳先に立つタキは、前を見据えたまま振り向かない。今までは、彼女のすぐ後ろで控えていた凪海は、舟の中程に、鎮座するように座っていた。凪海とタキの間には、「嫁入り道具」や豪勢な料理があった。

 夫婦岩の近くで舟が止まる。タキが述べる口上は、もはや単なる音の羅列としてしか、認識できなかった。

 今日の海のように穏やかな気持ちでいようと思っていた。途中まではうまくできていた。だが、舟に乗り、夫婦岩に近付くにつれ、荒れた海のように動悸が激しくなり、めまいを感じるようになった。

 ――怖い。

 凪海は幼い時、海で溺れて死にかけた。だが、海に近付くのも泳ぐのも苦ではなかった。溺れた時のことをほとんど覚えていなかったから、できたのだろう。舟に乗るのだって怖くはなかった。

 それなのに、今は怖くてたまらない。かすかに頬を撫でる風はまだ冷たさをはらんでいるのに、冷や汗が止まらない。

 遠い昔、舟から投げ出され、海で溺れた。今でもその時のことは思い出せないが、体は覚えているのだ。着物を着たまま海でもがいたことを。

「凪海」

 タキがこちらに向き直っていた。口上が終わったのだ。漕ぎ手の男達がにじり寄り、凪海の手首を縛る。腰と足に縄を打たれる。縄の先をたどると、漬け物石のような大きな石がくくりつけられていた。

 怖い。怖い。怖くてたまらない。

 叫び出す前に、猿ぐつわを噛ませられた。暴れようにも、花嫁衣装は重く、縄で縛られていて自由が利かない。それでも体をねじり、この状態から逃れようとしたが、男達に抱え上げられた。

 タキと目が合った。彼女は、しっかりと凪海を見ていた。顔をしかめているのは、眩しいせいだけだろうか。今にも泣き出しそうな顔にも見える。

「さらばだ」

 それを合図に、男達は凪海を舟の外へと押し出した。

 石をくくりつけられているから、あっという間に沈んでいく。海面が遠ざかる。

 海は冷たかった。けれど、水の冷たさなど取るに足らない。

 豪奢で幾重もある衣は、海に落ちた瞬間から凪海の体にまとわりつき、水を吸ってますます重くなった。陸であっても動きづらい花嫁衣装はもはや枷でしかない。その上、手足は縛られ、重石も付けられている。こんな有様でいくらもがいても、大量の泡だけが凪海を残して海面へ向かっていくばかりだ。

 息はすぐに苦しくなった。喉は空気を求め、海水が容赦なく肺に押し寄せた。

 海面はどんどん遠ざかり、押し寄せる海水は凪海を押し潰さんとする。涙を流しているはずだが、それはすべて海に溶けてしまい分からない。

 苦しい苦しい苦しい。怖い怖い怖い怖い。助けて助けて助けて。耕太。耕太助けて――!

 凪海の動きはやがて鈍くなり、小さな泡を吐ききると、それきり動かなくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る