第17話
真っ白な衣をまとった小さな人影が、海へ落とされる。
その瞬間、耕太は声の限りに叫んで、砂浜に拳を叩きつけた。砂に埋まりそうなほど額を押し付け、歯を食いしばる。だが、涙は止めどなく流れ、砂に吸い込まれていく。
どうして凪海が殺されなければならないのか。海神に彼女を捧げて、本当に魚が取れるようになるのか。取れたとして、凪海の犠牲をありがたがるのか。
何もできず、助けられなかったのが悔しくて仕方がない。村の巫女を助ける家でありながら、『お役目持ち』の真の役割を知らなかったのが情けない。知っていたら、こんなことになるよりもっと早く、凪海を連れて逃げていた。
どれくらい、浜で泣き崩れていただろうか。日が傾き始めていて、夫婦岩の周辺にも、沖にも、舟の姿はない。儀式が済むまで耕太を見張っていた男達の姿も、いつの間にか消えていた。
耕太は額に着いた砂を払い落としもせず、沖を見つめ、息を吐いた。
「凪海……」
彼女を飲み込んだ海に、もう二度と出る気になれない。仲間達と魚を取りにいける気がしない。彼らは皆、凪海を犠牲とすることに異を唱えなかったのだ。そんな漁師達が、魚が取れたと喜ぶ顔をしたら、殴ってしまうだろう。
もう海には出られない。
耕太はゆっくりと立ち上がった。
翌日、耕太は山へ――松吉の家へ向かった。昨日、父と義母はひどく気まずい顔をして、腫れ物のように耕太に接した。幼いながら何かを察した弟達も、いつもと違って耕太に近寄らなかった。
もとより、あの家族の中に耕太はとけ込めていなかった。家を出るにはいい機会だ。
朝早くに訪ねてきた耕太を、松吉は驚きながらも、迎え入れてくれた。
「朝早くにすみません。松吉さんに、頼みたいことがあって」
「いいから、とりあえず茶でも飲め。顔色が悪いぞ」
松吉に勧められ、囲炉裏のそばに腰を下ろす。
「凪海のことは……わたし達も聞いてるわ」
志乃の声色は暗かった。凪海はよくこの家に通っていて、志乃にとって一番親しい娘は凪海だった。
耕太は頷いて、それから、志乃にはそれでは分からないのだったと気付いて、はい、と答えた。
「俺は、もう海で生きていこうと思わない。これからは、山で生計を立てたい――松吉さん、俺に、猟のやり方を教えてください」
凪海がもういないのに、幸せになれるとは思えない。だが、死ぬわけにはいかなかった。凪海がそれを望んでいないのだから。
頭を下げる耕太の前に、松吉は湯飲みを置いた。
「――海に出なさい」
言ったのは、志乃だった。驚いて顔を上げると、志乃は大きく膨らんだ腹を撫でながら、耕太に顔を向けていた。
「凪海のことが忘れられないなら――もう一度会いたいなら、海に出続けるべきよ」
志乃の声は静かだったが、何かを確信している声音だった。
「どうして、ですか」
「海で死んだ人間は、人魚として海に甦ることがあるの。だから、海に出ていれば、いつか凪海の生まれ変わりの人魚に出会えるかもしれない」
「……志乃さんは、どうして、そんなことを?」
知っているのか。そんな話、耕太は聞いたことがない。それとも、『お役目持ち』の真の役割を知らなかったように、耕太がまだ知らされていない事実なのだろうか。
「――わたしが、そうだったから」
志乃は見えない目を細め、腹を愛おしげに撫でる。
『そうだった』ということは、志乃も何らかの理由で海で死に、人魚として甦ったということか。しかし、彼女は目は見えないが、ちゃんと二本の足がある。人魚には見えない。
「人魚は、人間になれるんだ」
松吉がきっぱりと言い、志乃が頷く。
「信じるか信じないかは、耕太次第だ。俺は、猟師としてはまだまだだが、教えるくらいはなんとかできる――どうする?」
二人は、耕太を慰めるために嘘をついているのかもしれない。しかし、嘘だとしたら、あまりにも出来の悪い、ひどい嘘だ。人魚に生まれ変わって、また人間になれるなど、信じがたい。
「……海に、出る」
信じがたいが、松吉と志乃を見いていると、嘘をついているようにも思えない。
もう一度、凪海に会える。その可能性がわずかでもあるのなら、海へ出るに決まっている。
松吉達の家を辞して、耕太は小走りに駆ける。
昨日まではくすんだ色に見えた天ヶ内海が、少しだけ輝きを取り戻したように見えた。
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