第4話

 凪海が岩影からのぞくと、もう一度、自分を呼ぶ声が聞こえた。磯に向かって、少女が一人、駆けてくる。

「ねえ様、やっぱりそこにいた!」

 手を振る少女に、凪海も手を振り返す。

「あかね、どうしたの」

「この前の供物や宴の残り物、松吉さんのところに届けろって、タキ様が」

 あかねは一抱えある風呂敷包みを持っていた。

 供物用にこしらえたものは一度タキの元に集められ、仕上がりを確かめる。そうして出来栄えに少々難があると、供物の中から外されるのだ。外されたものは、後日、村の貧しい者達に分け与えられる。宴の残り物も、同様だ。日持ちしないものは翌日には配られるから、あかねが持っているのは、餅などの日持ちするものだろう。

 松吉は、村の外れ、山の裾から広がる森のすぐそばに住んでいる。元は村の中にある集落にいたが、数年前、所帯を持つのと同時に外れに越したのだ。

「ねえ、ねえ様。さっきは、人魚と会っていたの?」

 並んで歩き始めてすぐ、あかねは興味津々という様子で言った。

 彼女は凪海を「ねえ様」と呼ぶが、もちろん血の繋がりはない。住処が近いため、祭事の準備をよく手伝ってくれる。あかねは凪海の四つ年下で、弟妹しかいないから、凪海を姉のように慕い、そして彼女が『お役目持ち』であることから、ねえ様と呼ぶのだった。凪海もまた、そう呼んでくれるあかねを妹のように思っていた。

「貝取りをしてただけよ」

 凪海にとってのもう一人の姉妹・波瑠の存在は、村人には秘密だ。もっとも、凪海がたびたび磯に一人で向かうのを見かけている村人は多くいるので、何かしらある、と思われているだろうと承知はしている。

 波瑠は、人間と会うのは本来は駄目なのだと言っていたし、村人は、人魚を海神の遣いだとしつつも、いるかのような下半身を持つ人魚を、不気味な存在と見ていて、遭遇するのを恐れ、避けている節がある。だから、凪海は、波瑠と――人魚とは会っていないことにしていた。

 あかねは「ふうん」と言いながらも、凪海の言葉を全面的に信じているわけでもなさそうな口調だったが、それきり聞いてこなかった。

「ねえ様、耕太にいさんと夫婦になるって、本当?」

 耕太の家も、凪海達の家に近い。ゆえに、耕太も祭事の手伝いをよくしてくれていて、あかねにとっては耕太は兄のようなものだった。

「……耳が早いわね」

「本当なの!?」

「声が大きい。まだ決まったばかりで、村長に報告にも行ってないんだから」

「いつ? いつ祝言を上げるの?」

「暖かくなってから」

「じゃあ、今から花嫁衣装の用意をするんだ――『お役目持ち』でも、夫婦になれるんだね」

 あかねは興奮気味だったが、最後の一言を言う時は、ひそめるようにしていた。

「駄目っていう決まりはないみたいよ。そもそも、祝言を上げたらどうかって言い出したのは婆様だし。婆様だって旦那さんがいたんだし」

「そっかあ……ねえ様、おめでとう」

「ありがとう」

 話しているうちに集落は遠ざかり、森が近付いてくる。行き交う人が少ないため、道はどんどん細くなり、並んで歩けなくなった頃、松吉の家にたどり着いた。

 以前は仲間達と漁をしていたが、今はわずかな田畑を耕して暮らしている。村人とほとんど交流することもなく、ほぼ自給自足で、妻の志乃は盲目だ。たまに訪れる凪海達の目から見ても、その生活状況は厳しい。ただ、松吉と志乃は、いつ会っても幸せそうだ。

 洲央村は特別貧しくはないが、豊かでもない。村長の館は立派だが、それ以外の家はどこも似たり寄ったり。松吉の家は、それら他の村人の家より、粗末な造りだった。新しく家を建てる時や修繕する時、ふつうは近隣の住民が手伝うものだが、松吉のこの家はほとんど身内だけで建てたという。その後の修繕は、ほぼ松吉一人でやっているらしい。

 家の周囲の草は刈られていて、物干し場や小さな畑が広がっている。家の戸は昼間はすべて開け放たれていて、ささやかな縁側に女が一人、座って針仕事をしていた。松吉の妻の志乃だ。

「凪海? あかねもいる?」

 志乃が顔を上げる。しかし、こちらに向いているのは顔ではなく、耳だった。盲目の志乃は、耳がいい。わずかな足音で、それが誰のものか言い当てられる。

「こんにちは」

 凪海とあかねは揃って挨拶した。

「こんにちは。あけましておめでとう。今年もよろしくね」

 ここを訪ねるのは今年最初だ。年が明けてもう何日も経っていて、色々な人に年賀の挨拶をして、それもし尽くしたとすっかり思っていたから、年始の挨拶を失念していた。二人して、慌てて今年もよろしくと返す。

「松吉は森に行ってるの。夕方まで帰らないと思うわ」

 海に出ない代わりに、森で猟をしているのだ。松吉と志乃が村の外れに住み、漁師だった彼が今は猟師のような暮らしをしているのは、志乃と夫婦になったためだった。

 三年前、松吉は、平蔵の姉である美代みよを妻にと勧められた。美代は昔から松吉に思いを寄せており、彼と夫婦になりたいと父に頼み込んでのことだったが、松吉は断った。

 松吉と恋仲になっている娘はなく、持参金もはずむというその申し出をまさか断られると思っていなかった美代は、恥をかかされたと泣き、怒った。昭蔵は美代をなだめ、断った松吉を責めはしなかったが、それからほどなく、松吉は網元から解雇された。

 洲央村には数人の網元がいて、村人はそのいずれかの元で漁師をしている。網元同士が協力することも頻繁なので、洲央村の漁師は、全員で協力し合って漁をしているも同然だった。ゆえに、網元に元にいられなくなれば個人で漁をするしかなくなり、そうなれば収入は格段に不安定となる。

 いきなりの解雇に、松吉は当然ながら理由を訊いた。しかし、網元は言葉を濁し、もう網子として置いておけないのだ、と言うだけだった。

 そればかりでなく、松吉が物々交換をしようとすると、断られることが続いた。松吉だけでなく、彼の両親や兄弟も同じように断られ、一家の暮らしはあっという間に困窮してしまった。見かねた凪海が松吉の家に物資を持って行こうとしたが、タキに止められた。

 昭蔵が、松吉とその家族と関わるな、と密かに命じた、と。美代との婚儀を断った、その報復だった。

 美代の片思いだったのを、凪海は知っていた。松吉が美代に興味がないのも、端から見て明らかだった。それなのになんて勝手だと怒り、凪海はこっそり、松吉の家に物資を届け、タキもそれを黙認した。

 そんなある日、松吉は浜に流れ着いた志乃を助け、彼女と夫婦になると言い出した。志乃は、凪海と同じく、家族とはぐれて遭難し、流れ着いたらしかった。盲目で、事故の影響なのか家族の記憶はなく、どこの村で生まれ育ったのかも分からないと言う。

 突然現れた、どこの誰かも分からない娘と夫婦になれば、美代と昭蔵の怒りはさらにひどくなるかも知れないと、松吉の両親は反対した。けれど松吉の意志は変わらず、家族と離れて村の外れに住むことで、少しでも美代達の怒りを避けようとした。

 それからほどなく、美代は山の向こうの村へ嫁いでいった。それで昭蔵の怒りもだいぶ収まったのか、松吉一家に対する冷遇は徐々になくなっていったが、その頃には、松吉はほとんど村の中へ足を運ぶことがなくなっていた。村人も、松吉の存在はなかったもののように扱っていて、彼の家族と、凪海達が時折足を運ぶだけとなっている。

 洲央村の者は、子供の頃から海に親しんでいるから、海で魚を捕るのは手慣れたものだ。けれど、森で獣を捕るのには不慣れな者が多い。猟師をしている者もいるが、それはほんの数人で、松吉は彼らに頼み込んで教えを請いながら、何とか生活していた。

「志乃さん。残り物で悪いけど、持ってきたの」

 縁側に座る志乃の脇に、持ってきた包みを置く。志乃は手探りでそれを見つけ、膝に載せた。

「いつもありがとう。とても助かるわ」

「ううん。これくらいしかできないから」

 それから、何が入っているのか一つ一つ教えていく。衣もあるが、食べ物の方が多い。志乃のお腹には子が宿っていて、桜が咲く頃に生まれる予定なのだ。そんな志乃にたくさん食べてもらうため、タキはこのところ食べ物を多めに包んでいる。

「今年の豊漁祈願祭もたくさん供物を捧げたから、豊漁になるといいね。そうしたら、ここに持ってこれる物も増えるし」

 差し入れをするついでに、村の近況も伝えている。志乃は洲央村に身内も知人もいないので、話し相手は夫である松吉と凪海達くらいだ。

「そうなるといいわね」

「なるよ。だって、耕太にいさんの作った飾り細工、今年はいっそういい出来栄えだったじゃない」

 そして、あかねは大事なことを思い出したかのように、あ、と声を上げた。志乃が首を傾げる。

「どうしたの?」

「あのね、ねえ様、暖かくなったら耕太にいさんと祝言を上げるんですって」

「まあ、おめでとう」

「あかねったら。まだちゃんと決まってないんだってば」

「でも、ほぼ決まりなんでしょ。あとは村長に報告するだけだって」

「それは、そうだけど」

「おめでとう、凪海。何かお祝いの品を用意しないとね。松吉と相談するわ」

「いいよ、そんな気を遣わなくて」

「だめよ。凪海にも耕太にも、いつもお世話になっているんだから、こういう時くらい」

「いいなあ、ねえ様も志乃さんも、好いた相手と一緒になれて」

 不意に、あかねが心底うらやむ声をこぼす。

「あかね、もしかして好きな人がいるの?」

「その様子だと、村の誰か?」

 凪海と志乃はほぼ同時に声を上げた。

「……内緒」

 あかねはそんな凪海をちらりと見て、そっぽ向いてしまった。名前を挙げるのが恥ずかしいのか――凪海に言えない相手なのか。

「……まさか、耕太?」

「ないない。それはないよ。だって、耕太にいさん、ねえ様しか見てないじゃない」

 明るい声で否定され、かえって凪海の方が赤面してしまう。志乃も、そうね、と笑った。

 結局、凪海と志乃が何度尋ねてもあかねは想い人の名を教えてくれなかった。


 山は海のすぐ近くまで迫っているので、山の端に日がかかるのは、冬はことさら早い。志乃に別れを告げた頃はまだ日が射していたが、今はもう、山の向こうに隠れてしまった。こうなると、暗くなるまではあっという間だ。

「早く帰らないと、母さん達にしかられちゃう」

 振り返れば、山は見事な夕焼けを背景にして黒々とそびえている。集落のあちこちから、白い煙がうっすらと立ち上っていた。夕餉の支度はもう始まっている。

 急ごう、と二人が足早に道を進んで、辻を通り過ぎようとした時、おおい、と遠くから呼びかける声がした。

「凪海。ちょうどいいところで会ったな」

 村長の館の方から、手を挙げて平蔵がやって来る。

 平蔵と顔を合わせるのは、先日の宴の時以来だ。昭蔵がよく言い聞かせておくとは言ってくれたものの、この場にはあかねしかいない。また馴れ馴れしくされるのではないか、と凪海はわずかに身構えた。

「平蔵にい様、こんばんは」

「よう、あかね」

 平蔵はあかねの方を向いてにっと笑い、すぐに凪海に顔を向けた。

「タキ婆に、うちに来るよう伝えてくれ」

「え、今からですか?」

 平蔵は今は無駄話をするつもりがないらしく、安堵する。が、その言葉に首を傾げた。

 タキもそろそろ夕餉の支度を始めているはずだ。それを平蔵が分からないはずがない。

「ああ。できるだけ急ぐように言ってくれ。源藤げんどう様の遣いの方がいらしたんだ。今夜はうちに泊まる。これからささやかながら宴をするんだけど、親父が、タキ婆も呼べって」

 源藤家当主が住まう館は、ここから西に二日ほど歩いた大きな町にある。税を納める時期でもないのに遣いが来るのは珍しかった。

 特別な用件があって、それでタキも呼ばれたのに違いない。

「……わたしは?」

 凪海は『お役目持ち』だ。タキの跡継ぎということになっているから、もしかして、自分も同席しなければならないのだろうか。

「とりあえず、凪海はいいってよ。凪海が行きたいなら、来てもいいけど」

 平蔵は期待を込めた目と声で言う。

「……源藤様の遣いの方をお待たせしちゃいけないから、すぐに婆様に伝えるわ」

 それじゃ、と凪海は平蔵に背を向けた。

「ねえ様、待って。平蔵にい様、またね」

 足早にその場を離れる凪海を、あかねが慌てて追いかけてくる。

「ねえ様、平蔵にい様が嫌いなの?」

「……ちょっと苦手なだけ」

「ふうん。……そうだ、ねえ様。今夜はうちで夕餉にしない? 館には行かないんでしょ。一人だと寂しいんじゃない? あ、それとも、耕太にいさんのところに行っちゃう?」

「婆様はきっともう支度を始めてるから、それを食べるわよ」

「でも、二人分あるよね。じゃ、耕太にいさんを呼ぶんだ?」

「あかね。早く帰らないと、怒られるんじゃなかったの」

 凪海は呆れ混じりのため息をついた。遠くに見える天ヶ内海は、もう黒々としていた。

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