第3話

 もう何度目になるか分からないあくびをかみ殺す。後片づけで体を動かしていれば目が覚めると思ったが、いっかな眠気は去ってくれない。むしろ、動いているから眠らずにすんでいるという状態だった。

 口を開けてあくびをしていたら、夜更かしは程々にしておきなよ、と何人かの女に言われ、凪海はそのたびに赤面した。凪海がなぜ眠いのか、彼女達は承知しているのだ。

 凪海と耕太の仲は村中が知るところだった。それにもかかわらず凪海にちょっかいを出してくるのは、平蔵くらいである。

 昼前に片付けは終わり、集まった女達は、昼餉の支度のために帰っていく。

 片付けの間、タキは見当たらなかったが、これはいつものことだ。村長と、昨日の祭事や今後のことを話し合っているのだ。片付けが終わった頃、話も終わったのか広間に現れ、帰るよと凪海に声をかけてきた。

「今年も豊漁になるかな」

「さて。海神様次第だね」

 昨日たくさんの供物を捧げたばかりなのに、タキの言葉は素っ気ない。

「みんなの織物や、耕太の飾り細工も良かったのに……」

 耕太の飾り細工は、今年はまた一段とすばらしい出来栄えだった。あれだけでも、海神やその遣いである人魚は喜んでくれるだろう。

「――暖かくなったら、お前と耕太の祝言を上げようと、さっき昭蔵と話をしたよ」

「え」

 思いもかけない言葉に、凪海は目を丸くしてタキを見た。

「お前達は年頃だし、二人で暮らせる方がいいだろう?」

 さっきは素っ気ない顔をしていたタキが、今は微笑を浮かべていた。しばらくは何も言えずその顔を見つめるだけだったが、やがて、タキが言ったことをしっかりと理解する。

「――うん!」

 返事する声は自然と明るく高くなる。自分でも分かるほど、凪海の顔はにやけていた。


    ●


 耕太との婚儀が執り行われるのは、春になってから。

 先日、タキと共に耕太の家に赴き、耕太の父に、二人の婚儀を執り行う旨を伝えた。耕太にはあの後すぐに伝えに行ったので、驚いたのは彼の父親と継母だけだった。とはいえ、驚いたのは婚儀をするという事実にであって、凪海と耕太の仲はもちろん彼らも承知していたので、反対はされなかった。

「むしろ、喜んでるよ――食い扶持が一人減るから」

 凪海の体に緩く腕を回した耕太は、嬉しさの中に、いくらかの自嘲を混ぜた顔をしていた。

「そんなことないよ」

「分かってる。もちろん、純粋に喜んでもいるよ。でも、うちは家族が多いから」

 耕太には年の離れた弟妹が五人いる。彼の実母は十年前に病で亡くなり、その二年後、耕太の父はずいぶん年若い後妻を迎えた。それから、耕太には五人もの弟妹ができたのだ。

 村長を除いて、洲央村は皆が似たり寄ったりのわびしい暮らしぶりだ。どの家も子供は多く、いつもおなかを空かせている。耕太の家もそれは同じで、弟妹が増えるたび、耕太は畑に漁にと忙しく働いていた。

 一番上の弟が、ようやく七つになったばかり。家族の大事な働き手である耕太がいなくなるのは、食い扶持が一人減るよりも大変に思えたが、親父が頑張るさ、と耕太は笑った。

 その笑顔の下に隠されている彼の心情を思うと、凪海の胸は締め付けられる。たまらず、耕太にしっかりと抱きついた。

「凪海?」

 耕太の継母は、彼のたった七つ年上だ。夫よりも年の近い義理の息子に、まるで姉のような年頃の新しい母に、お互いが戸惑っていた。それでも馴染もうとそれぞれ努力し、ぎこちないながらも家族の距離が少しずつ縮まってきた頃、新しい家族が増えて、父と継母の愛情はそちらに注がれることとなった。縮まりかけていた距離はそれから変わらず、家族が増えるたび、むしろ広がっていって、家にいながら居場所がないと感じるまでになったのだ。

「耕太――うんと幸せになろうね」

「そんなの、当たり前だろう」

 緩く回されていた腕が、しっかりと凪海を抱きしめる。少し息苦しくなって彼の胸から顔を離して見上げると、なんのかげりもない笑顔がそこにあった。


    ●


 乾いているところより、波に洗われているところの方が、砂がしまって歩きやすい。

 寄せる波を軽やかな足取りで避け、凪海は磯に向かっていた。

 沖を見れば、漁に出ている舟が何艘も見える。あの舟のどれかに耕太も乗っているはずだ。

 浜辺に人の姿はなかった。貝が採れる時期ではないし、浜辺で子供達が遊ぶにはまだまだ寒い。

 岩場に打ち寄せる波が白く砕ける。凪海は慣れた足取りで、ごつごつとした岩の上を渡っていく。大きな岩の影に回り込むと、そこに小さな潮だまりができていた。岩に隠れされて浜からは見えないそこに、先客がいた。

波瑠はる

「やっと来たわね、凪海。ずっと待ってたのよ」

 潮だまりの入り口近くの岩にもたれていた波瑠が、体を起こす。

「いつもは祈願祭の翌日には来てくれるのに」

 会うなり彼女は愚痴を口にするが、口元には笑みが浮かんでいた。

「ごめん。昨日一昨日と色々あって」

 波瑠の元へ急ごうとして、片足を潮だまりの中に突っ込んでしまった。その冷たさに声を上げると、波瑠が声を上げて笑った。

 そんな波瑠を、凪海は恨めしそうな目で見る。

「波瑠も本当は寒いんじゃないの? 夏より海は冷たくなってるんだし」

「まあね。でも、わたし達は人間より寒さに強いし、海の下の方は、案外夏と変わらないの」

 波瑠の体の上半分は、凪海達人間と何ら変わらない。しかし、へその辺りから肌の質感と色が変わっていく。股はなく脚もなく、あるのはいるかのような尾鰭である。人魚とはいうけれど鱗はなく、青みを帯びた灰色の肌の質感も、腰から下の体の線も尾鰭の形も、いるかのそれに似ている。

 海から上がったばかりの長い黒髪はしとどに濡れて何もまとっていない上半身に張り付き、へそから下は青灰の尾。そのせいで、凪海と同じ人の体の部分はよりいっそう白く見えた。冬の海で体が冷えてしまっているようにも見えるけれど、唇の色は温かそうな赤だ。

「でも、今年の衣も、評判が良かったわよ。もらった娘はとても喜んでた」

 豊漁祈願祭では女達がこしらえた着物も捧げられるが、人魚は衣をまとわない。なぜ着ないのかと波瑠に尋ねたら、泳ぐ時に体にまとわりついて邪魔になるし、陸で暮らす人間と違って、風から身を守る必要もない。だから普段は着ないけれど、着飾りたい時はあるらしく、捧げられた衣は、それ以外の供物も含めて、人魚の長が振り分けているそうだ。

「――飾り細工は? 評判は、どう?」

 波瑠の髪には何の飾りもささっていない。もし彼女に与えられていたら、今日、髪を結ってこないはずがないから、他の娘のものになったのだろう。

「もらった娘は、その日から毎日髪に挿して見せびらかしてるわよ」

 聞けば、それはまだ幼い娘で、年上の娘達が衣や髪飾りを与えられ、それを身につけて楽しげにしているのを毎年うらやましく見ていたが、今年初めて飾り細工を与えられて、嬉しさのあまり海上に飛び出しそうなほどだったという。

「わたしも見せてもらった。また腕を上げたんじゃない? とても繊細な細工だったわ」

 供物の飾り細工は、すべて耕太の手によるものだ。まるで自分が褒められたように嬉しくて、凪海は満面の笑みを浮かべる。

「耕太もきっと喜ぶよ。今度つれてくるから、直接褒めてよ」

「そうしたいところだけど、本当は、こうして凪海と会うのもいけないことだから、難しいわね」

 波瑠が、今日初めて、困った顔で笑う。

 海神と人魚に供物を捧げるが、人間が人魚と顔を合わせて話すことは、本来であれば、ない。まず、人魚が人間の前に姿を現さない。

 それなのに波瑠が凪海に会いに来てくれるのは、凪海が、波瑠に助けられた子供だからだった。

 今から十年以上前、嵐が近付いていた時化た海で、凪海は小舟から投げ出され、溺れた。

 どうしてそんな天候で海に出ていたのか、幼かった凪海は覚えていない。ただ、両親につれられ舟に乗って海原にこぎ出したのはなんとなく覚えている。

 しかし、小舟は大きな波に翻弄され、ひっくり返った。粗末な衣でも水を吸うと重く、幼い子供が荒れる海中から海面を目指すなどとうてい無理だった。大漁の海水を飲み、あっという間に息苦しくなった時、誰かに抱えられて、ものすごい勢いで海の中を移動して、空気のあるところに連れて行かれた。

 荒れる海をものともせず、凪海を抱えて洲央村の浜まで泳いだのが、波瑠だった。

 彼女が助けることができたのは凪海だけで、両親はだめだったと謝られた。しかし、その時の凪海はまだ本当に幼くて、死というものがよく分かっていなかった。凪海を抱きかかえた波瑠の腕は温かく、安心したのを覚えている。

 その後、凪海は洲央村で保護された。両親は、天ヶ内海を挟んで対岸にある村から出航したらしい。当時、対岸を治めていた領主から逃れてくる者は後を絶たなかったというから、凪海の両親もおそらくそうだろうと思われた。なにぶん凪海が幼かったため、住んでいた村の名も両親の名もはっきりとせず、自分の名も年さえも覚束なかった。それで、タキによって凪海と名付けられ、彼女に引き取られたのである。

 そうして、凪海は『お役目持ち』になった。身寄りがなく、タキの元で跡取りとして育てられる娘を『お役目持ち』というのだ。

 もっとも、凪海が波瑠に助けられたことや、『お役目持ち』と呼ばれる理由を知ったのは、ずっと後のことだ。小さい頃に海で溺れ、誰かに助けられたのと、腕の温かさを何となく覚えているのみ。磯で一人で貝取りをしていて、波間から現れた波瑠に声をかけられた時には、驚いて転んでしまい足をすりむいて、波瑠にひどく謝られた。

 落ち着いた後、波瑠から経緯を聞いて、彼女が自分の命の恩人だと知ってから、時々こうして会っている。

 彼女にとって、凪海は妹か娘みたいな存在らしい。

 それは凪海にとっても同じだった。育ての親のタキは、母というよりは祖母という歳だ。波瑠は母のようでもあり、年の離れた姉のようでもあった。タキには言えないことでも、波瑠には相談できた。

 幼いうちから洲央村で育っているけれど、『お役目持ち』という肩書きが村人との間で見えない壁となっている、と感じることがある。その壁は高くもなければ厚くもないが、ふつうに育った村娘と『お役目持ち』の凪海は違う、少しだけ特別なのだ、と村人がどこかで意識しているから、凪海も意識しないではいられなかった。

 洲央村生まれではない、海からやって来た『お役目持ち』の娘という異端の存在だから、同じく人にとって異端の存在である人魚の波瑠に、親近感を抱くのかもしれなかった。

「それで、昨日一昨日と、何があったの?」

 波瑠が首を傾げる。その目は、きっと何かおもしろい話があるに違いないという期待に満ちていた。その期待に、凪海はしっかりと応えられる自信がある。

「暖かくなったら、耕太と祝言を上げるの」

 波瑠が目を丸くし、それから歓声を上げて凪海に飛びついた。

「おめでとう、凪海」

「ありがとう、波瑠。でも、冷たいよ」

 飛び跳ねた拍子に水がかかり、しとどに濡れた波瑠に抱きつかれたものだから、着物が海水を吸う。けれど凪海を抱きしめる腕は、記憶にあるのと同じで温かかった。

「今度、お祝いを持ってこないとね」

「いいよ、そんな。気持ちだけで嬉しい」

 その時、遠くから凪海を呼ぶ声が聞こえてきた。

「残念、お迎えが来たみたいね。凪海、またね」

 凪海から体を離した波瑠は、あっという間に海へ身を踊らせる。一度、尾鰭で海面を叩き、その姿が波間に消えた。

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