第2話

 色味はやや薄いが、空は晴れていた。ちぎった薄衣のような雲が山の端にかかっている。その山の頂は白かった。

 海風が頬をかすめる。潮の匂いをはらむ風は冷たいが、明け方に吹くような、肌を切りつける厳しさはなりを潜めている。

 ここ天ヶ内海あまがうちかいは、浜辺からでもおとがいを上げねば見渡せない山々を背にしているが、海辺に雪が積もるのはまれだ。緑を帯びた天ヶ内海を望むこの地は、比較的温暖なのだ。少し北に、あるいは内陸に行けばとたんに寒くなるが、暖かな天ヶ内海のおかげで、雪で難儀することは滅多にない。

 年が明けたばかりの今日は、南から吹く風のおかげもあった、冬と思えぬ暖かさだった。天ヶ内海は温暖とはいえ、長時間舟に乗っていれば、やはり冷える。凪海なみは漁師ではないから普段海上に出ることは滅多にない。儀式で長時間船上にいなければならない今日が寒くないのは、ありがたかった。

 波も穏やかで、舳先にいるタキは危なげない様子で立っている。タキは齢六十近いが足腰はしっかりとしている人なので、もう少し舟が揺れていても不安はない。

 タキの後ろに控える凪海は、固い船底の上に正座していた。まっすぐに前を見る凪海の目には、タキの小さな背中と、その向こうにある夫婦岩が映っていた。

 海から角のように突き出た二つの大きな岩は、片方が少し背が低く、向かい合って立つ人間のように見えることから、夫婦岩めおといわと呼ばれている。背の高いのが男岩、背が低い方が女岩で、二つの岩の間は、舟が一艘通り抜けられるくらいで、注連縄が張られている。新春を迎えるため、十日ほど前に掛け替えられたばかりだ。

 凪海達の乗る舟は、夫婦岩から少し離れたところにあった。夫婦岩の近くは流れが速く変わりやすいので、停泊するのに向かないのだ。他の舟も、凪海達と同じように夫婦岩から距離を取っている。舟と舟の間もそれなりに離れているが、祝詞をあげるタキの声は届いているだろう。長年、洲央村すおうむらの巫女を勤めるタキの声は明朗でよく通るのだ。

 祝詞が終わり、タキが深々と頭を下げる。凪海は慎重に立ち上がり、両手に持った鈴を、数度鳴らした。それに合わせ、凪海の背後に控えている耕太が、小鼓を叩く。清らかな鈴の音と軽やかで鋭い小鼓の音が溶け合って、波間に広がっていく。

 音が止むと、タキが朗々と告げた。

「我らが捧げ物を、どうぞお受け取りください」

 それを合図に、周囲の舟で控えていた村人達が、載せてきた供物を海中へ投じた。

 去年の秋に収穫された米や野菜は俵に詰めて重石をつけて、新品の銛はそのまま、刃物は他に、日常で使う様々な物もそのまま海中へ捧げる。村の女達が織った布で作った衣装も、重石をつけて捧げられた。耕太も、小鼓を脇へ置いて、彼がこの日のために作ったかんざしや飾り細工を、そっと海へ落とす。

 これが、洲央村で、遠い昔から続いている新春の儀式だ。天ヶ内海を納める海神と、海神の使いである人魚に、去年一年の感謝と、今年一年の安全と豊漁を祈願するのである。

 立ったまま、様々な品物が次々と海へ捧げられるのを見守りながら、凪海は海中へそっと視線を移す。

 天ヶ内海は栄養が豊富な海なので、ちょっと沖に出るだけですぐに底は見えなくなる。沖合ともなると海は深い緑色だ。そこに、魚ではない、大きな影がいくつも横切るのが、見えた気がした。


    ●


 広間はにぎやかすぎて、隣の者と話すにも大声を上げねばならないほどだ。そのせいで、にぎやかさがいや増している。

 昼、海上で厳かに儀式に参加していた男達は、今はすっかりできあがっていた。儀式の打ち上げと、新年祝いを兼ねて、村長の館で開かれている今夜の宴は、ほとんど村中の男達が集まっているので、一年で一番の盛り上がりを見せる。台所で宴の肴や酒を次々用意しなければならない女達は、一年で一番忙しい。去年は大漁で豊作だったので、村長が宴に出す料理や酒をはずんでくれたから尚更だ。

 宴が始まった時は整然と座っていた男達が、今は好き勝手な場所であぐらをかいているので、料理や酒を運ぶ凪海は、その合間を踊るように移動しなければならない。おかげで、文字通り目が回りそうだ。

 料理も酒も次々運ばれてくるので休む暇がない。目の前には盆に載った食べ物があるのに、運ぶのに忙しくて、凪海の腹はずっと空腹を訴えている。

 けれど、凪海よりずっと年上のタキも、同じようにずっと忙しく動き回っている。凪海が先に弱音を吐いて休むわけにはいかないし、宴の接待も、昼間の儀式と同じく巫女の勤めの一つだった。

「凪海、新しい酒をくれ」

 酒が足りないのはどこかと頭を巡らせていたら、平蔵と目が合った。彼は大きく手を振り、満面の笑みでこっちだと叫ぶ。

「お待たせしました」

 平蔵の脇に盆を置いて、差し出されたお猪口に熱燗を注ぐ。

「徳利はここへ置いていきます。熱いから、気を付けてくださいね」

 そう言って立ち上がろうとすると、平蔵がお猪口を持っていない方の手で、凪海の袖を掴んだ。

「少しは付き合ってくれよ、凪海」

「申し訳ありません、平蔵さん。忙しいので、わたしはこれで――」

 逃げようとするが、袖を掴む手は緩まない。周りの男達は冷やかすばかりで、助けてくれる気配はなかった。

「凪海、これから二人で抜け出さないか。俺の部屋に、とっておきの菓子があるんだ」

 必要以上に顔を近付ける平蔵から、凪海は精一杯に顔を放して、忙しいので、と繰り返した。

「凪海、新しい料理が来たから運んでおくれ」

 頬ずりでもされるのではないか、というほど平蔵の顔が近付いていた時、喧噪の中でもよく通る声が遠くから届いた。タキだ。

「はい、すぐ行きます」

 タキに呼ばれては、平蔵も凪海を引き留めておくわけにはいかなかった。渋々ながらようやく解放する。凪海は駆け足気味に、料理の盆を持っているタキの元へ向かった。

「村長のところに持って行っておくれ。それを運んだら、後はわたしと女達でやるから、おまえは帰っていいよ」

 凪海に盆を渡しながら、タキは凪海にだけ届く声で言った。

「はい、ありがとうございます」

 タキの言葉に、凪海の声は自然と大きく明るくなる。そんな凪海を見てタキがわずかに顔をしかめたので、慌てて表情を引き締めた。

 本当なら、宴の締めまで凪海もタキと同じく、この場にいなければならない。けれどタキは、一昨年も去年も、凪海をこっそりと帰してくれた。どうせ男達は酔っぱらっているから、凪海が最後までいないことになど気付いていない。

 村長の昭蔵は、広間の上座で、年輩の男達と静かに飲んでいた。息子の平蔵と違って、素面かと思うような顔だった。

「新しいお料理です」

 盆を昭蔵の前に置いて立ち去ろうとしたら、凪海、と呼び止められた。

「うちの馬鹿息子がすまなかったな。あれには、私からよく言っておく」

 声も、素面の時と変わらない様子だった。昭蔵が手にしているお猪口に入っているのは、水なのだろうか。

 長の言葉に、否定もお礼も言えず戸惑う凪海の頭に、そんな益体もない考えがよぎる。

「今日はご苦労だった」

「――いえ。わたしの『お役目』ですから」

 昭蔵の視線が料理に移ったので、凪海は今度こそ、長の元から辞した。

 広間の出口に向かいながら、さりげなく周囲を見回す。この位置だと平蔵は凪海に背を向けて座っているが、ずっとこちらを見ていたのか、目が合った。先ほどの不快感を思い出し、凪海はすぐに視線を逸らした。視界の隅で、昭蔵が立ち上がるの。平蔵の元へ向かっているようだった。

 昭蔵は、早速平蔵に注意しに行くのだろうか。

 行動が早くてありがたいと思いながらも、その後は見届けなかった。広間には、凪海が探している人はいないようだった。

 広間を抜け出すと、台所の脇を通って裏口へ向かう。台所では女達がまだ忙しそうにしているので気が引けたが、凪海に気付いた数人は、お疲れ様、と言ってすぐに自分の仕事へ戻っていったので、先に帰る罪悪感は少なくて済んだ。

 草鞋を突っかけて裏口を出ると、凪海はほとんど走るように、村長の館を後にした。

 新春の夜は寒くて、吐く息が白く濁る。裸足だから足下も寒い。羽織っている綿入れは長年使っているせいでだいぶ厚みがなくなり、羽織らないよりはましという程度だ。けれど、寒いと震える暇があれば、少しでも速く家に帰りたかった。

「凪海」

 館は塀に囲まれていて、ささやかながら門がある。その脇から、ぬっと人影が現れた。

 暗くても、その輪郭を見間違えることはない。

「耕太!」

 草鞋が脱げてしまいそうなほど走って、凪海は耕太の胸の中に飛び込んだ。

 ――耕太と一緒にいれば、寒いと震える暇はない。


    ●


 宴の終わり、昭蔵の音頭で一本締めをした。大きな音を立てて両手を打ち合わせた者もいるが、どうにか両手を合わせた程度という者もちらほらいた。そんな酔っぱらいは、仲間の肩を借りて、村長の館を後にする。

「耕太がいなかったな」

 村人を見送るため、昭蔵とタキと共に、平蔵も玄関に立っていた。

 最後に玄関を出たのは、ほとんど酔った様子のない老年の男――耕太の父親だった。息子は、それに付き添っていない。大勢でごった返していた頃から平蔵は玄関にいたが、耕太の姿は見かけなかった。宴の途中で姿が見えなくなったのには気付いていたが、厠にでも行っていると思っていた。

「――平蔵。凪海はあきらめろ」

「次の村長と次の巫女が夫婦になる。悪い話じゃないだろ、親父」

 それから、親子の斜め後ろに控えるように立っているタキを振り返る。

「巫女は結婚したらいけないというしきたりもないし」

 タキにも夫がいた。平蔵が生まれる前に死んだので会ったことはないが、他の村人と同じように夫婦になり暮らしていた、と聞いている。

「凪海は『お役目持ち』だ。『お役目持ち』の娘は、おまえの嫁にはできん」

「それに、凪海はもう相手を選んでいる。凪海が選んだ男が、凪海の夫になれる」

 昭蔵の声は厳しかったが、村長を援護するタキの言葉は、さらに厳しかった。

「耕太のことか? 一時の気の迷いってことだってあるだろ。それに、俺なら耕太と違って、凪海に毎日ちゃんと食わせてやれる」

「平蔵。仮に凪海がお前を選んだとしても、『お役目持ち』はお前の嫁にはできん。『お役目持ち』は夫を自由に選べるが、村長の家に嫁ぐことだけは、許されていない」

「なんだよ、それ。初耳だ」

「なら、よく覚えておけ。そして、あきらめろ。他の娘なら考えてやる。お前も、そろそろ嫁を貰わねばならない歳だからな」

 だから凪海がいいと平蔵は思っているのだが、昭蔵も、凪海の養い親であるタキも許してくれそうにない。

 話は終わりとばかりに、昭蔵は家の中へ入ってしまうし、タキもそれに続く。タキの家は別にちゃんとあるのだが、宴の後は村長の館に泊まるだ。ただ、凪海の姿はない。宴の始まりから、忙しそうに広間を動き回っていたのに、彼女もまた、いつの間にか姿を消していた。

 凪海が『お役目持ち』でなければ、次の村長が望んだのだから、と彼女を嫁にすることができただろうか。

 村長といっても、ちっぽけな漁村をまとめるのが役目というだけで、村内にそれほど多くの土地を持っているわけではない。この辺り一帯をまとめ上げる領主・源藤家がいて、村長は、領主からその役目を与えられているだけなのだ。領主くらいの権力があれば、『お役目持ち』の娘でも妻にできたかもしれない。

 もっとも、『お役目持ち』がどんな役目を持っているのか、平蔵はよく知らない。

 タキの跡取り、という程度の意味だと思うのだが、「凪海は『お役目持ち』だ」と皆そう言うだけで、正確なところは誰もよく分かっていないのかもしれなかった。


    ●


 豊漁祈願祭の夜、耕太と二人きりで過ごすのは今年で二度目だ。

 幼い頃はタキと共に村長の館に泊まっていたが、数年前から凪海は一人で家に帰っていた。

 タキが村長の館に泊まるのは、労いとして招待されるからだ。翌朝は、さすが村長の館と目を見張るような朝食でもてなされる。朝から満腹になった後は、再び集まってきた村の女達と共に宴の後片付けをする。

 昼間の祭事と夜の接待役を終えると、へとへとになる。それでも幼い頃は、自分の家よりも暖かな部屋で眠り、たっぷりと食べられるのが嬉しかった。けれど、遠慮や気遣いを覚えるようになると、疲れているのに気を遣わなければならない状況に置かれるのが億劫になった。立場上、招待を受けるべきとは分かっているが、帰ってもいいというタキや村長の言葉に甘えさせてもらっている。

 去年からは尚更だ。

 タキは明日の昼まで帰ってこない。凪海とタキが二人で暮らす家は、村の巫女とはいえわびしい佇まいで、風が吹けばそこかしこがかたかたと音を立て、外の空気が忍び込む。長年使っている布団は薄くて固く、冷え込む朝方、寒さで目を覚ますのはしょっちゅうだ。

 それでも、薄い布団に二人で潜り込んで抱き合えば、互いの体温で寒さは遠のくのだ。

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