あぶくは願う
永坂暖日
陸の章
第1話
耐え難い痛みだった。食いしばった歯の隙間から自分のものと思えない、獣のような呻き声が漏れる。
砂に爪を立てて手を握りしめるが、引いていく波と共に、指の隙間から砂はこぼれていった。波打ち際の砂浜は、ごく浅い水の底に沈み、すぐにまた姿を現す。けれど、これからどんどん潮は満ちていく。痛みにのたうち回っていたら、やがて波に飲み込まれてしまい、海の底へまっしぐらだ。
いやだ。もうあそこへは、戻らない。戻りたくない。
痛みをこらえ、腕を伸ばして砂を掴む。押し寄せる波の力を借りて、前へ進む。波打ち際の端はすぐそこだ。
あと少し。乾いた砂のあそこまで――急に、辺りが暗くなる。
さっきまで夕方を過ぎた薄闇に包まれてはいたが、こうもいきなり暗くなるのはおかしい。それとも、痛みをこらえ前に進むのに必死になっているうち、暗くなってしまったのだろうか。それにしては、見上げても、星も月も見えない。
自分の指先さえ見えないのに気付き、ぞっとした。
「
恐怖に震え出す直前、泣きたくなるほど聞きたかった声がした。声は遠い。しかし、なおも志乃と叫ぶ声は、どんどん近付いてくる。湿った砂を蹴散らし、時に波に足下を洗われ、そして、間近で名前を呼ばれる。
「志乃……だよな?」
「
すぐそこで声がするのに、気配を感じるのに、志乃の前に広がるのは暗闇だけ。
「松吉、松吉……!」
伸ばした手を捕まれたかと思うと、ぐっと抱き寄せられた。志乃も両手で、松吉の体を抱きしめる。ごわつく衣を通して、松吉の温もりを感じて、涙がこぼれる。
「志乃、おまえ、足が……」
「松吉、わたし、これであんたと一緒になれるよ」
志乃の足を波が洗う。その感覚はこそばゆく、あれほど激しかった痛みはいつの間にか消えていて、志乃は泣きながら、笑った。
「一緒に暮らそう、
「――ああ、もちろん」
一際強く、松吉が志乃を抱きしめる。息ができないほどだったけれど、その苦しみさえも甘く、この上ない幸福感が志乃の身も心も満たしていく。
これからはずっと松吉と一緒にいられる。そう思うと、目が見えないのは些末なことだった。
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