第14話

 翌日は曇り空だった。人魚狩りの前ではあるが、舟の姿は見えないと分かっていても、海面が近付くにつれ胸の鼓動は大きくなった。いつもならゆっくりと時間をかけて、海の味がほんのわずかにする空気を吸い込むのだが、この日は慌ててかき込むように吸い込んで、すぐにねぐらに戻った。

 長の指示で、みんなにはまだ人魚狩りのことを知らせていない。澪の母にもだ。洲央村の人間の協力を得られるかどうか決まった後で知らせた方が混乱は少ないだろう、という判断だった。

「澪」

 ねぐらに戻って落ち着きなくそわそわとしていたら、波弥斗がやってきた。

 耕太はたぶん、今日もいつものところにいるだろう。そこに波弥斗を連れていくのは、色々と後ろめたい。耕太と逢い引きしていた場所がばれてしまう。波弥斗に何と言われるか、耕太に何と言うか。また、波弥斗を連れてきた澪を見て、耕太がどう思うか――。

 気がかりなことはいくらでもあって、きりがなかった。

 いってらっしゃいという母に見送られ、澪は波弥斗と共に耕太の元へ向かった。途中、波弥斗にあれこれ訊かれるのではないかと思っていたが、波弥斗は殆ど無言だった。澪も必要最低限のことしか口にしなかったので、水を切る音が聞こえるばかりだった。

「澪、まだなのか」

 無言で澪の後を泳いでいた波弥斗が、しびれを切らした。

「……もう、すぐそこよ」

 澪は泳ぎを緩め、顔を上げた。二人は海底近くをずっと泳いできたので、海面は遠い。曇っているのでいつもよりくすんでいるそこに、小さな舟が見えた。

 波弥斗は、果たしてあの船底の形を覚えているだろうか。

 舟に近付くにつれ、波弥斗が緊張しているのが分かった。盗み見た表情は強ばっている。

 もうすぐ耕太に会えるけれど、心躍らないと言えば嘘になるけれど、やはり、複雑な気持ちにならざるを得ない。

「澪――?」

 舟の縁を掴んでわずかに体重をかけるだけで、耕太は澪に気付く。振り返った彼は、満面の笑みを浮かべていた。

 しかし、その笑みがすぐさま怪訝なものに変わる。耕太の目は、澪の隣に浮かび上がった波弥斗の注がれていた。波弥斗もまた、射抜くような目で耕太を見上げている。

 二人の間が一瞬にして剣呑な雰囲気になるのを感じて、耕太に会えた喜びはあっという間に消し飛んでしまった。

「耕太。彼は、天ヶ内人魚の長の跡取りの波弥斗」

 二人の男が何か言い出す前に、澪が口火を切った。

「波弥斗。彼は洲央村の耕太。人魚狩りを知らせてくれた人間よ」

 澪はなるべく平坦な声で、二人を紹介した。

「やあ、初めまして」

「……どうも」

 何故波弥斗がここにいるのか、状況を把握できていないなりにも、耕太は落ち着いた声だった。波弥斗も、ややぶっきらぼうながら挨拶を口にしたので、澪は内心でほっとした。

「あのね、耕太。人魚狩りのことを長に伝えたわ。それで、わたしが洲央村の人間と協力して源藤様を追い返せないかって提案したの」

「澪……」

「長は、わたしの提案に乗ってくれた。洲央村の人間も人魚狩りはしたくないんでしょう? 一緒に協力して、源藤様を追い返そう。耕太、そのために、洲央村の長に渡りをつけてほしいの」

 ようやく事情を飲み込んだ耕太が頷く。

「話は分かった。平蔵――洲央村の長も、人魚狩りはしたくないから、協力してくれると思う。話をしてみよう」

「……本当に、協力するのか? 十七年前にも人魚狩りをしたのに」

「波弥斗!」

 しかめっ面で低い声を発した波弥斗に、澪はひやりとした。

「するよ。俺達は毎年海神と人魚に供物を捧げている。君達はそれを受け取ってくれているんだろう?」

 年の功だろうか。耕太は、波弥斗に睨まれていても涼しい顔をしていた。

「澪。洲央村の長に話をする。返事はすぐにもらえると思うから、明日また、ここへ来てくれるか?」

「ええ」

「……ところで、澪と二人で話がしたいと言ったら?」

「だめだ」

「少しだけでも?」

「俺は澪の護衛として付いてきている」

「澪に危害なんて加えない」

「それでもだめだ。澪、帰るぞ。話は終わったんだ」

 耕太と二人きりで話をしたかったが、波弥斗はとても許してくれそうにない。澪は仕方なく頷き、耕太を見た。何も言わなくても耕太は分かってくれたようで、また明日、と笑ってくれた。澪も思わず微笑み返す。隣で波弥斗が不機嫌な顔をしているのには気付かないふりをした。


    ●


 しぶきを残して海の下へ消えた影を、耕太はしばらく見つめていた。もうすっかり見えなくなってから、櫂を握り、勢いよくこぎ出す。

 舟はいつもよりも速く、浜へ向かって進んでいた。

 澪の手前、物わかりのいい態度でいたが、内心ではおもしろくなかった。

 なるほど、あれが波弥斗か。面差しが志乃と似ている。ただ、彼女があんなに険しい表情をしているのを耕太は見たことはないが。

 澪が言っていた通りの男だと思った。澪への独占欲と、耕太への敵愾心を隠そうともしない。

 洲央村と協力をしたいという話をする場であり、波弥斗は人魚の長の跡取りだと聞いているのに、あの態度はいただけなかった。

 あんな若造に澪を任せるわけにはいかない。

 そう思うほど、櫂を漕ぐ腕に力が入り、舟の速さが増す。

 だが、と耕太は気持ちを切り替えた。

 澪の提案だというが、人魚の長が人間と協力したい、と言い出すとは思わなかった。波弥斗の父親は話の分かる相手なのかもしれない。

 これは好機だ。人間と人魚が手を取り合って協力すれば、源藤様の若様命令を守りつつ、天ヶ内海の人魚を守ることがきっとできる。平蔵が、この提案を断るはずがない。

 浜にたどり着いて舟を引き上げると、耕太は一目散に村長の館を目指した。

「平蔵はいるか」

 今日は正面から、館に乗り込む。大声で呼ばわると、すぐに使用人が現れた。怪訝そうな顔をする女に、急ぎの用件とだけ言って、平蔵への取り次ぎを頼む。さほど待たずに、客間の一つに通された。

「源藤様といいお前といい、前触れもなく現れるな」

 平蔵がやって来たのは、それからすぐだった。

「源藤様の遣いが今日も来ているのか?」

「今日は来ていない。だが、年貢の話の時以外は、たいがい前触れもなくやって来るし、そういう時はこの前みたいに厄介な話を持ってくる」

 思い返せば、平蔵も若い頃は、凪海にちょっかいを出したり、村長の仕事はろくに手伝わずに遊んでいたりと、好き勝手にしていた。彼の振る舞いには、村の年寄りだけでなく、若い衆でも顔をしかめることがあったのに、今では立派な村長だ。あの人魚の若者も、いつか長という自らの立場に目覚めるのかもしれない。

「何がおかしい? 急ぎの用件があると言うから、もうすぐ昼餉なのにここへ来たんだぞ」

「いや、なんでもない」

 どうも表情が緩んでいたらしい。耕太も若い頃であれば、好いた娘にちょっかいを出す男を見たら気が気でなく、嫉妬で怒っていたものだが、今は長続きしない。

 表情を引き締め、背筋を伸ばす。耕太の雰囲気の変化を見て、平蔵も顔を引き締めた。

「――知らせれば逃げ回ってくれるからそれでいいと思っていたが、まさか協力を求められるとは……」

 耕太の話を聞き終えた平蔵は、驚きを隠せない様子で、顎をさすった。

「しかも、源藤様の若様を追い返すだって?」

 平蔵が真偽を問うように耕太を見るので、大きく頷いた。平蔵が声を上げて笑う。

「おもしろい。俺はそんなこと、思い付きもしなかった――歳を取ったから、いや、歳のせいじゃないな。洲央村の長という家に生まれた俺には、源藤様を追い返すなんて考えられない」

 なおも笑う平蔵に、耕太はいささか不安を覚えた。彼はこの話を断らないと思っていたが、違っただろうか。

「なんだ耕太、その顔は。心配するな。その話、是非とも乗ろうじゃないか」

「平蔵」

「人魚狩りをすると、その後ろくな事が起きない。十七年前、俺は思い知ったぞ。耕太、お前もだろう。お前だけじゃない、十七年前を知る者は誰だってそうだ」

 平蔵はなおも笑っていたが、表情は微妙に変わっていた。不敵な笑みを浮かべている。好き放題にしていた、若かりし頃のような。

 あの頃は、平蔵のそんな顔を見ると不安を抱いていた。だが、今は違う。

「人魚と手を組んで、若様を追い返す」

 今は、どこか頼もしくさえあった。

「それで、どこへ行けば人魚の長に会えるんだ?」

「すぐに会えるかは分からない。俺達が協力するという答えを伝えてからだろう」

 澪の話では人魚の長も協力を求めているということだった。まずは澪に会い、話を通してから長と直接会うか、澪を通して話をするかになるのではないか、と耕太は踏んでいた。

「すぐに会わないと間に合わないだろう。五日後には若様がお越しになるんだぞ。その前にどうするか決めてしまわないと」

 今すぐにでも出かけそうな平蔵に勢いに、耕太が逆に圧されてしまう。

「耕太。今から人魚に返事を伝えに行くというなら、俺も連れて行け。海とこことを往復するのはまだるっこしい」

 彼の言うことはもっともだ。残された時間は限られている。

「……連れて行くのは構わない。だが、人魚に会っても、絶対に驚くなよ」

 澪のことを話そうかとも思ったが、やめた。今ここで、彼女が凪海の生まれ変わりだと話せば、凪海の死に負い目と責任を感じているであろう平蔵は、会わないと言い出すかもしれない。

「ああ、任せておけ。親父の跡を継いでから、俺は腹芸が上手くなったんだ。それに――人魚を見るのは初めてじゃないからな」

 おそらく平蔵は、幽霊を見ても驚かない、くらいに思っているだろう。

 いや、何も知らない平蔵にとっては、まるで幽霊に会ったような気分になるのかもしれない。

「明日、また人魚と会う約束をしている。明日の朝、迎えに来るから出掛ける準備をしておいてくれ」

「分かった。頼むぞ」

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