第3話
「澪」
遠くから伝わってきた低い声と、水をかき分ける力強い音。聞き覚えのある音に、澪はゆっくりと振り返った。
「……波弥斗」
「やっぱりここにいたのか」
「みんなに会っていただけよ」
「それにしても帰りが遅い――多江じゃないか、久しぶりだな」
近くまで寄ってきてようやく多江がいることに気づいたらしい。多江は挨拶らしき言葉を口にして会釈する。
「澪の母さんも心配してた。そろそろ帰ろう」
「まだみんな帰ってないし、早いと思うけど」
友人達はまだまだ解散する気配はないし、帰りが遅いと心配される時間ではない。波弥斗は過保護がすぎる。
「食事もしないといけないだろう」
「それにしても早いわよ」
澪は肩をすくめて、同意を求めるように多江を見た。澪の意図を察した多江は、しかし困り顔であ。無理もないし悪かったな、と澪はすぐに反省した。
「あれ? そのかんざし――」
「多江にあげたの。昨日、貰っていなかったし。似合うでしょう?」
多江の事情は波弥斗も当然知っている。当人を前にして、波弥斗も嫌とは言えまい。
「あ、ああ。似合ってるよ。それより多江も、佐々が心配してるんじゃないのか」
「大丈夫です。わたし、もう帰るから……」
波弥斗は澪を早く帰すためにそう言ったのだろうが、彼がそんなことを言わなければ、多江はまだ帰るとは言わなかっただろう。波弥斗が現れなければ、多江をみんなのところにつれて行けたかもしれないのに。澪を気にかける分のいくらかでも、多江に振り分けたらいいのに。彼女だって、澪と同じなのだ。だけど波弥斗は澪しか見ていない。もっと視野を広げたらいいのに、と澪はいつも思う。
「ほら、多江も帰ると言っているから、澪も」
「……分かったわよ。でも、一人で帰れるから」
ねぐらまでついてきそうな波弥斗に、澪は先手を打つ。
「いや、でも」
「途中まで多江と一緒に帰るし、子供じゃないんだから、一人でも大丈夫よ。母さんも波弥斗も、いつまでたっても人を子供扱いして」
しかも、多江の目の前で。澪が過剰なほど大切にされているのを多江が目の当たりにしたら、彼女がきっと気にしてしまう。
「子供扱いされるのが嫌なのに、俺と夫婦になるのは早いと言うのか?」
「そ……それとこれは、別問題でしょ」
墓穴を掘ってしまった。だが、幸い波弥斗はそれ以上追求してこなかったので、多江の手を引いてそそくさとその場を後にした。
「澪ねえ様……波弥斗にい様と、夫婦になるの?」
波弥斗の姿が見えなくなるほど泳いだ頃、多江が控えめな声で尋ねてきた。
澪はぎょっとして振り返る。
「ならないわよ」
思いの外大きな声に、多江が目を丸くする。澪自身もとっさに出た言葉に驚いていた。
澪は生まれた時から、波弥斗の妻になると決まっていた。澪が望んだわけではない。決めたのは波弥斗と澪の親だ。
物心ついた時には波弥斗の許嫁だと教えられていたし、三つ年上の波弥斗も長に言われてすっかりその気で、言われたことの意味をよく分かっていない澪に接していた。
まだ物事をよく分かっていなかった頃には、波弥斗や周囲に言われるがまま、そうなのだろうと受け止めていた。だけど成長し、友人達が恋の話をするようになると、疑問と違和感が湧いてくるようになった。
なぜ、澪が波弥斗の許嫁なのか。どうして、誰も澪の気持ちを確かめないのか。
波弥斗のことは嫌いではない。けれど、だからといって夫婦になりたいかと訊かれたら、そうだとは答えられない。子孫を残すためにいずれ誰かと夫婦になって子供を産まねばならないだろう。だけど、その相手として波弥斗は想定できなかった。
「……ならないわよ、少なくとも、すぐには」
他に心を寄せている人魚がいるわけではない。だけど、波弥斗の許嫁という立場は自分の中ではしっくりこない。周囲が決めた流れに乗るのではなく、逆らって泳ぎたかった。どこに行き着くか分からなくても。
澪は特別だからと、波弥斗をはじめ良くしてくれる人達に申し訳なくて、深く考えないようにしていた。
「澪ねえ様は波弥斗にい様の妻に、なりたくないの……?」
だが、同じ特別であるはずの多江に訊かれ、澪は自覚せざるを得なかった。
すぐでなくとも、波弥斗の妻になりたくない。
「波弥斗にい様は、ねえ様と夫婦になりたいと思っているのに?」
澪の沈黙を、多江は肯定と受け取ったようだ。
泳ぐのをやめた二人は、ゆっくりと海流に流されていた。澪が多江の手を離したせいもあって、いつの間にか手の届かない距離になっている。だけど声はまだまだ十分に届くし、顔を上げれば表情も見て取れる。
「――長の妻になるのは幸せなこと。そして、わたしも多江も『幸せを約束された娘』。だったら、波弥斗の妻になるのはわたしじゃなくてもいい」
澪は海底のイソギンチャクに落としていた視線を上げる。
「多江は、波弥斗が好きなんでしょう」
「そんなこと……」
「波弥斗が見えるところにいると、いつも目で追っているじゃない」
今度は、多江が視線を海底に落とした。
「……でも、波弥斗にい様はねえ様のことが……」
「波弥斗は跡継ぎとしての責任感から、『幸せを約束された娘』を妻にしないといけないと思っているだけよ。たまたまわたしが先に生まれたから波弥斗の許嫁になったけど、わたしがいなかったら、多江がそうなってたわ」
澪は尾を振り、少しずつ開いていた距離を一気に詰める。
「でも多江は波弥斗の許嫁になれなかった代わりに、相手を好きに選べる。そうでしょう?」
宇潮の子は波弥斗だけだ。『幸せを約束された娘』が同じ世代で二人以上現れるのは滅多にないので、二人目以降は伴侶を好きに選べる、ということになったらしい。望む相手なら誰とでも夫婦になれる。だから――。
「多江が、波弥斗を選べばいいのよ」
「え」
驚いた多江の口から、大きな泡がこぼれる。
「多江が選んだなら、相手は嫌と言えない決まりでしょう。それに、波弥斗は『幸せを約束された娘』を妻にすることに変わりはない……みんな、丸く収まる」
「でも……でも、波弥斗にい様は」
多江はおろおろと、心底困った顔をしていた。彼女は、波弥斗の気持ちを無視できないのだ。
「冗談よ、冗談」
「え?」
「ちょっと思い付いたから、言ってみただけ」
「ええ、そんな……びっくりした」
多江が胸をなで下ろし、苦笑いを浮かべる。澪も表情を緩め、ごめんと言いながら笑っていたが、やがて溶けるように笑みを消した。
「ねえ様?」
「……多江、わたし達、本当に『人間の生まれ変わり』なのかな。人魚に生まれる前は、海で死んだ哀れな人間だったって、多江は信じてる?」
澪と多江が特別で、幸せになるべきとされる理由。それは、二人とも、海で死んだ人間の生まれ変わりだからだ。
海の中で生きる術を持たない人間は、海に落ちればほどなく死んでしまう。そうして海で死んだ人間は、人魚に生まれ変わることがある。もう苦しまなくていいように、気紛れにだが、海がそうしてくれるのだという。
「自分が人間だったなんて、信じられないよ。ねえ様は、信じてるの?」
澪は答えず、遙か高いところにある海面を見上げた。舟の陰はどこにも見えない。近くに人間はいないようだ。
人間だったという自覚はない。澪は人魚だ。海面からこんなに深いところでも、平気で生きていける。
だけど、海の上が、夫婦岩から見える洲央村が、気になって仕方がない それは、人間だった時の記憶がそうさせるのかもしれなかった。
「――もしかしたらって、思う時がある」
本当に、澪は人間の生まれ変わりなのかもしれない。
そうでなければ、どうしてこんなにも海の外のことが気になるのだろう。
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