第2話
天ヶ内海は複雑な海岸線を形成する陸地に挟まれ、外海と繋がる部分は対岸が見えるほど狭い。干潮差が大きく、そのため海流は強く、複雑だ。天ヶ内人魚は、強い海流を避けるため、一家数人が収まる程度の岩礁の隙間をねぐらとしている。
そこは寝るだけの場所ではなく、与えられた供物をしまっておく場所でもあった。小さな隙間に、大事なものをしまっておくのだ。あまりに大事にしすぎると、フジツボや海藻などが貼り付いてしまうが。
もっとも、海中で長持ちする物は少ない。銛や包丁のような金属類でさえ、時を追うごとに切れ味は失われ、ボロボロになっていく。代を重ねて使える物はほとんどなかった。
だからこそ、毎年の供物は貴重だ。いずれも、人魚達では作れないものだから。
「ちょっと出掛けてくる」
ねぐらの近くに生えている海藻と貝を腹に収めた澪は、昨日もらった供物を眺めていた母に言った。
「どこへ行くの?」
途端に、母は供物から澪に視線を移す。
「別に、そのあたりを泳いでくるだけ。誰かと会えたら、おしゃべりできるし」
「遠くへ行ってはだめよ」
まるで小さな子供を心配するような表情だ。
「……分かってる」
「それから、息継ぎする時は陸からうんと離れたところで。舟の影が見えるところでは、絶対にだめよ」
「出掛ける度に言われなくても、分かってるわ」
いくつになっても、母は澪を幼子扱いする。だいたい、このねぐらからまっすぐに海面に上がっても、海岸はずっと遠いところにある。この上を舟が通ることは滅多にない。そういう場所を、澪の一家はねぐらとしているのだ。
「澪、あなたは大事な身なのよ」
「……分かってるわ。気を付けるから、大丈夫。そんなに心配しないで、母さん」
澪は全身を大きくしならせ、ねぐらを飛び出した。
ゆっくりと海面へ向かう。朝を迎えても、深いところにあるねぐらはぼんやりと暗い。息継ぎのため、朝一番に海面に出てようやく、夜が終わり朝が来た気分になれる。
海面が近付くにつれ、澪は泳ぐ速さをゆるめた。見える範囲に舟がいないのを確かめる。
人間から供物を捧げられるが、人間と人魚が直接交わることはない。彼らは供物を捧げてはくれるが、時に人魚に害をなす危険な存在なのだ、と教えられていた。
人間の姿すら遠くからでも見たことのない澪は、それが本当なのか分からない。ただ、澪が生まれる少し前、人間に捕まり殺された人魚がいたらしい。
澪は、ゆっくりと海面から顔を出した。青い空が目に飛び込んでくる。濡れた顔を風が撫でていく。
息継ぎのため、海面に浮上するのは一日に数度。澪は息継ぎをするのが好きだった。海の中に、あのむらのない青はない。真っ白な雲もない。遠くに見える陸に目を転じれば、でこぼことした山並みが見える。そこには、海の中にある海藻とは違う緑や赤が見える。海の中にはない、木が茂っているのだ。その断片や葉は、時々陸から流れてくる。それらを見て、陸でどんな風に生えているのかいつも想像していた。海岸近くにも木が生えているようだから、いつか、近くに行って見てみたい。
だけど、それは叶わぬ夢だ。
人間に殺された人魚は、陸に近付きすぎたために捕まったという。昔は、気を付けていれば、陸に近付いても咎められなかったそうだが、今では禁じられている。特に、毎年供物を捧げる人間達が住む村――洲央村と、そこから出た舟には絶対に近付くな、と言われていた。
夫婦岩から一番近い海岸が、洲央村なのだそうだ。澪から見える海岸線は長く、夫婦岩も遠くに見えている。そこから更に遠くにある海岸は、よく分からない。
だが、その方角を見ると、なぜか胸が苦しくなる。夫婦岩を通り越し、洲央村の海岸へ近付いてみたい、という衝動がこみ上げてくる。
ここから見える陸には、他の村もあるという。だけど澪が気になるのは、夫婦岩のそばから供物を捧げる人間達の村だけだった。
遠くにある舟の影が、波間から見えた。ここからでは遠すぎて人の形は分からないが、人間達が漁に出てきたのだ。
数度、大きく息を吸い込むと、澪は静かに海面の下へ潜った。
ぐんと尾を振り、更に深いところへ潜る。流れ星の尾のように、澪が泳いだ後に泡が流れていく。背中の中程よりも長い髪は、おだんごにまとめて昨日のかんざしで留めてあった。まとめた髪の間からも、時折泡がこぼれる。
天ヶ内海の海底は、陸地から離れるほど岩礁が多く、ごつごつとしている。けれどたまに、開けたように平らな場所もあって、陸から流れてきた砂や、長い時をかけて砕けた岩のかけら、珊瑚の死骸が粉となったものがたまっている。
「澪!」
そんな場所の一つに、澪と同じ年頃の娘達が集まっていた。先に来ていた娘達が手を振る。澪は大きく尾を振った。
ほとんどの娘は毎朝ここに集っているが、澪は時々だ。毎朝の息継ぎの後、長らくねぐらを留守にしていると、母か、波弥斗が心配して探しにくるのだ。
昨日、櫛やかんざしをもらった娘はそれぞれ髪を結って頭に飾っていた。遅れてやってきた娘の中には、着物をまとっている者もいた。今年のものだけでなく、去年や、それよりも前にもらったもの、すべてを身に飾ってきた欲張りな娘もいて、皆呆れながらも、笑いあった。
「それで、澪のは?」
「髪に挿してあるそのかんざしが今年のでしょ」
「見せて見せて」
「わたしも近くで見たい」
海底近くにいた娘達が一斉に澪の背後の回り込むものだから、たまっていた砂が舞い上がり、あたりが白く霞む。
「わあ、綺麗」
「去年のも良かったけど、今年のも素敵ね」
「波弥斗さん、見る目があるわね」
娘達は口々に、かんざしの出来映えと、波弥斗をほめそやした。いいなうらやましい、と口にする者もいるけれど、彼女達に妬みや嫉みはない。澪がこれほどのものを毎年もらうのは当然だと誰もが思い、それを疑わないからだ。
友人達と集い、おしゃべりに興じるのは楽しい。けれど、この時ばかりはいたたまれなかった。
友人達ですら澪が特別な待遇を受けるのを当然と思っている。彼女が後ろめたさや罪悪感を抱えているなど、想像もしていないだろう。
どうして誰も疑わないのだろう。
澪は、友人達とどこも変わらない、ふつうの人魚だ。特別美しいわけでもなければ、何か不思議な力があるわけでもない。ただ一つを除いて――。
ただ一つ。そのたった一つのことだけが、澪と友人達の決定的な違いだった。だけど、その唯一のことにしても、特別扱いされる理由としては弱いと思っているし、そもそも真偽のほども疑わしい。
「あれ、
友人の一人が声を上げて。遠くを指さした。皆、彼女の指先が示す方向に顔を向ける。
広場から離れたところに、背丈の倍ほどある岩があって、その陰から大きな尾鰭が覗いていた。人魚の尾鰭だ。
人魚の下半身はいるか達と同じような質感で、人によって微妙に濃さや色味が違うが、灰青色をしている。あの淡い色味の尾鰭は、確かに多江のそれだ。
「あんなところに隠れてないで、こっちに来ればいいのに」
「多江、こっちにおいでなさいよー!」
ところが、多江の尾鰭は岩の陰に完全に隠れてしまった。
「わたし、ちょっと見てくる」
顔を見合わせる友人達の輪から、澪は抜け出した。この距離なら、多江が逃げたとしても追いつける。
でも、多江は岩の陰でじっとしているはずだ。急いで動けば、多少泡が出てくるが、それは見えなかった。
「多江」
岩にたどり着いてのぞき込むと、予想通り多江がいた。
「澪ねえ様……」
岩のてっぺん近くからのぞき込んでいる澪を、多江はばつが悪そうな顔で見上げた。
「隠れていないで、みんなのところに来たらいいのに」
「……わたしは、たまたま通りかかっただけで、もうねぐらに帰るから……」
岩にもたれる多江は、澪から視線を外してうつむいた。多江の髪は肩に届くか届かないかという長さで、まとめてもないから、彼女の顔の周りをふわふわと漂って表情を隠している。
澪は岩のてっぺんから、多江の隣にするりと移動した。
「今年も、夫婦岩のところに来なかった――いえ、来れなかったのね」
多江がかすかに頷くのを、澪は見逃さなかった。緩やかな海流に身を任せたのではない。彼女は確かに、澪の言葉に肯定を示したのだ。
昨日、夫婦岩の周辺には、天ヶ内海の中央付近で暮らしている人魚達のほとんどすべてが集まっていた。しかし、海面から降ってくる供物を集める人魚の中にも、供物が与えられるのを待つ行列の中にも、多江の姿はなかった。今年だけではない。去年も、一昨年も、その前も、その前も、ずっと前から、多江があの場に居合わせたことはない。
あそこにいなければ、供物は手にできない。多江は一度も、長の手から供物を与えられたことはなかった。彼女の養い親である佐々という年老いた人魚が、人間の供物を受け取るのを快く思っていないせいだった。
佐々は息継ぎの時以外、ほとんどねぐらで過ごすという。ならばねぐらを出れば多江は自由に何でもできるはずだが、引っ込み思案な性格のせいもあって、誘ってもなかなか乗ってこないし、自分から声をかけることはまずなかった。
「これ、あげる」
かんざしを抜いて、多江に差し出した。多江がかんざしを見て、澪を見る。魚のように目を丸くしているから、多江が何を言いたいのか、その顔を見れば分かる。
「今年の供物の中で、一番の出来なんですって」
「……でも、これはねえ様が、波弥斗にい様から……」
「わたしは毎年貰っているからいいの。これは多江が使って。佐々ばあ様のいないところで、になるけどね」
差し出されたかんざしを、多江は恐る恐る受け取る。完全に澪の手から離れたそれを、多江は最初は遠慮がちに、次第に食い入るように見ていた。
「きれい……」
たゆたう髪の隙間からのぞくうっとりとした横顔を、澪は目を細めて見守っていた。
多江は、澪の二つ年下。この一帯に住む人魚の中で、澪と同じ、特別とされるただ一人の人魚だ。いわば同じ境遇。なので、自然と親近感を抱いていた。妹みたいな存在だ。うぬぼれかもしれないが、たぶん多江も、澪と同じ親近感を抱き、姉のように思ってくれている。澪と多江は、それぞれの存在が特別とされる故に、互いにとっても特別だった。
「こんなにきれいなかんざしを、本当にわたしが貰ってもいいの……?」
うっとりとしていた多江は、正気を取り戻したように表情を曇らせる。かんざしに夢中になっているところをあまり長く眺められず、澪は密かにがっかりした。多江には、もっと素直に気兼ねなく喜んでほしいかったのに。
「いいのよ。それはもう、多江の物」
「でも、波弥斗にい様が澪ねえ様に贈ったものでしょう」
「貰った物をどうするかは、わたしの自由よ。それに、多江にあげたと知っても、波弥斗は怒らないわ」
「ほんとに……?」
「ほんとに。大丈夫よ。それより、佐々ばあ様には見つからないところに隠さないとね」
多江がこれ以上余計な気兼ねをしなくていいように、澪は努めて明るい声で言った。それでようやく、多江も受け取る決意を固めてくれたようだった。
澪が多江にお裾分けするのは、今回が初めてではない。供物に限らず、澪が過分に貰った物の一部を多江に分け与えていた。澪が受け取っていいのならば、多江だって受け取っていいはずだ。
澪が手にした分を多江に渡すことを、母は特に咎めたりしない。澪に贈った人魚達もそうだ。最近は、澪が多江に渡すのを見越しているのではないか、と思っている。
澪を通すなんてまどろっこしいことをせずに、直接多江に渡せばいいのに。
そう言ったこともあるが、誰もが言葉を濁す。佐々は、人間の供物を快く思っていないだけでなく、気むずかしい性格と怪しげな術を用いるせいで敬遠されている。そんな佐々が育てている多江を、澪と同じく特別な存在だとしても、避けているのだった。
遠慮する多江をなだめながら、彼女の髪をまとめて、あげたかんざしを挿した。
「似合うわよ、多江」
「……そうかな。自分じゃ見えないから、よくわかんないや」
多江は戸惑いながらも、はにかんだ笑みを浮かべる。
「大丈夫、わたしよりも似合ってるわ。あ、そうだ。鏡を貰った子がいたから、あっちに行って見せて貰いましょう」
広場では、友人達がまだ輪を作っている。貰った物の見せ合いっこはさすがに終わっているが、話に花が咲いているようだ。今行けば、多江もあの中に混ざれる。
ためらう多江の手を引いて、岩の陰から出ようとしたまさにその時だった。
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