第15話
「耕太の舟に乗るのは初めてだ」
舳先側に座る平蔵が振り返る。彼の向こうに昇っている太陽があるので、逆光となってその表情はよく見えない。
「そういえば、そうだったな」
年始の豊漁祈願祭では同じ舟に乗るが、あれは耕太の舟ではなく、村でいちばん大きな舟を持っている網元のものだ。
「――いつも一人で、こんな沖まで来るのか」
「ああ」
小さな島影に隠れ、洲央村の浜も、他の舟も見えない。
「何かあった時、危なくはないのか」
「――その時はその時だ」
「そうか」
昔のように、網子に戻ったらどうだと言われるかと思ったが、平蔵はそれきり何も言わなかった。
いつものあたりに着くと、耕太は櫂を動かす手を止めた。
「ここか?」
「ああ。待っていれば、そのうち向こうから現れる」
まだ朝とはいえ、ここまで舟を漕いでくると汗をかく。手ぬぐいで額や首元を拭いながら、海を覗きこんだ。緑色の中に、それらしき影は見えない。
ささやかな風と波の音を、ただ無言で聞く時間が流れる。耕太は網の手入れをしながら、平蔵は腕組みをして待っていた。
波ではなく、舟が傾ぐ。驚いた平蔵は組んでいた腕をほどいて縁を掴むが、耕太は網を置いて振り返った。この揺れ方は、澪だ。
覗きこむと、澪と、今日も付いてきている波弥斗がいた。
「現れたのか?」
平蔵が、舳先から移動してくる。海面から顔を出す二人の人魚が見えたであろうところで、ぴたりと止まった。
「――彼は洲央村の長の平蔵だ」
耕太は平蔵を見やりつつ、澪達に紹介する。
「平蔵。澪と、長の跡取りの波弥斗だ。連絡役をしてくれている」
「耕太……お前……」
上手くなったという腹芸をする余裕はないらしい。
「……あの、初めまして」
澪が遠慮がちに口を開き、波弥斗は無言で会釈をする。平蔵の驚きように戸惑っているようだった。二人はたぶん、人魚を見て驚いている、と思っているのだろう。
平蔵は何かを言おうとしてか、口を動かすが、言葉は出てこない。動揺しているのは明らかだった。けれど、我に返るのは早かった。
「――初めまして。洲央村の長を務めている平蔵だ。源藤様の若様を追い返すために、君達に協力したくて、耕太につれてきてもらった」
二人の人魚に満面の笑みを向ける。協力が得られると分かった澪の表情がぱっと明るくなる。
「長の跡取りということは、君は名代としてここへ?」
「――俺は澪の護衛としてここにいる。長同士での話し合いが必要なら、親父はここへ来てもいいと言っている」
波弥斗は、平蔵に対してもつっけんどんな態度だった。もしかしたら、人間嫌いなのかもしれない。
「ならば、君の父上を呼んできてもらえるか。残された時間はさほど多くない」
「分かった。澪、行くぞ」
「でも」
「連絡役は澪だ。それに、澪を一人で残して行けるか」
「うん……」
二人でそんなやりとりをした後、しばらく待て、と言い残して海中へ消えた。
「耕太。どういうことだ。何故黙っていた」
二人の人魚がいなくなってからすぐに、平蔵が口を開く。澪達に向けていた笑みは消え、眉間にしわを寄せていた。
「人魚に会っても絶対に驚くな、と俺は言っておいたはずだが」
「澪といったか。あの顔を見て、驚かないと思ったのか!? どういうことだ。どうして凪海と瓜二つなんだ! 偶然というには似すぎている」
「……澪は、凪海の生まれ変わりだ。海で死んだ人間は、人魚に生まれ変わることがあるそうだ」
「凪海……なのか?」
「生まれ変わりだ。凪海だった時の記憶はない。お前の顔を見ても、何も言わなかっただろう」
それまでずっと立っていた平蔵は、力が抜けたように腰を下ろした。
「……黙っていた理由は?」
「会う前に言えば、協力しないと言い出すかもしれないと思ったからだ」
耕太の答えに、平蔵は呆れたような顔をして息を吐いた。
「今更そんなことを言うか」
「そうだな。悪かったよ、黙っていて」
耕太は苦笑する。
「海で死んだ人間は人魚に生まれ変わることがあるなら、もしかしてあかねも……」
平蔵が目を細め、海を見つめる。
『お役目持ち』として比多井村へ移っただあかねは、不幸にも、その役目を果たすことになってしまった。凪海が生け贄とされた二年後、やはり不漁が続いたために生け贄として海に沈められたのだった。その知らせを聞いた時、平蔵はずいぶんと長い間落ち込んでいたという。
「もう一人、人間の生まれ変わりの人魚がいるらしい。年回りを聞くと、あかねが死んだ後生まれたというから、あるいはその人魚が……」
「会ったのか?」
「いや、会っていない。澪から少し話を聞いただけだ」
「そうか」
「――会って、みたいのか?」
平蔵が、あかねを気にかけていたのは知っている。その一家の死に負い目を感じていたからだ。
「いや。会っても、俺がしてやれることは、たぶん何もない」
人間であれば、生活の支援なりなんなり、まだ何かできたかもしれない。だが、相手は人魚だ。
それに、もう一人の人魚があかねの生まれ変わりならば、平蔵とは会わない方がいいだろう。あかねは平蔵に好意を持っていたようだ。今でもその想いを持ち続けているかもしれないが、平蔵には妻子がいるのだ。
舟が不規則に揺れた。
澪達が戻ってきたのだ。澪と波弥斗、それに、耕太達よりいくらか年上の男が、海面から顔を出した。
「わたしが、天ヶ内人魚の長、宇潮だ」
「洲央村の長の平蔵だ。早速、詳しい事情を話したい」
頷く人魚の長に、平蔵は事の成り行きを語った。どこか不機嫌そうな表情をしている息子と違って、父親は感情を表に出さず、淡々とした様子で平蔵の話を聞いていた。
「五日後に人魚狩りが始まる。源藤様の若様は、四日後に俺の館にいらっしゃる予定だ」
「人魚狩りというが、ふだんお前達がやっている漁と違う方法でやるのか?」
「基本的には同じだと、網元は言っている。あとは、目を凝らして人魚らしき影を探すくらいだが、毎日海に出ている漁師達でも、人魚の影を見ることは滅多にないと聞いている」
「我々は、人間の舟を注意深く避けているからな。これほど近付いて、まして人間と言葉を交わすのは、これが初めてだ」
「俺もだよ」
人魚の長に言葉に、平蔵が肩をすくめて小さく笑う。
「まあ、あんた達人魚が普段通りにしていれば、そうそう捕まることはないと思う」
「そのようだな。だがそれでやり過ごせるのか。源藤様の若様とやらは諦めてくれるか?」
「正直なところ、分からない。源藤様の若様にはお会いしたことがないが、遣いの方の話では、かなりやる気らしい」
宇潮がため息を吐き、波弥斗の表情が険しくなる。耕太や平蔵達にとっても源藤様の若様のやる気は迷惑だが、人魚達にとっては迷惑どころの話ではないのだ。
「若様がずっと洲央村に滞在するのはさすがに無理だとは思うが、やる気次第ではしばらく居座ることもあり得る。だから、若様を追い返すというのは、なかなかの妙案だと俺は思ったのだが――具体的にはどうするつもりだ?」
「若様とやらを追い返すと言い出したのは澪だが……」
長が澪を見やると、澪は困った顔でその場にいる皆の顔を見回した。
「ずっと考えてたんだけど、ごめんなさい、まだ思い付かなくて」
申し訳なそうにうなだれるが、人魚の長も平蔵も、落胆も叱責もしなかった。
「俺も耕太から聞いて考えてみたが、まだいい案が浮かばない。耕太、お前はどうだ?」
「いや……」
耕太も考えを巡らせてみたが、様の言うことを聞きつつ追い返すというのは、なかなかの難題だった。宇潮も名案は浮かんでいないという。
三人集えば文殊の知恵。ここには人間と人魚、五人がいる。耕太も平蔵も腕組みをして、何とか知恵を絞り出そうとした。
「そうだ」
五人で波に揺られていると、平蔵が声を上げた。何かを思い付いたらしい。
「あんたら、海の中で生きられる人魚だろう。何か、海のものを操る力とか、ないのか?」
平蔵は期待のこもったまなざしで、三人の人魚を見回す。しかし、当の人魚達は、長までも、目を丸くしていた。
「そんな力はない。我々はイルカや魚達と同じように海の中で生きているだけだ」
「そうなのか? 俺達は、人魚は海神様の遣いだから不思議な力もあると思っていたんだが……」
「我々はただの人魚だ。海神様とやらは見たこともない。それとも、お前達人間には、陸のものを操る力があるのか?」
「いや、ないよ。……そうか、そうだな」
住むところと、姿形が半分違うだけで、人間も人魚も、ただそれだけの存在なのだ。こうして話をしていると、人間同士で話しているのと変わりない。それなのに、長年人魚を神の使いとして扱い、時に生け贄すら捧げていた人間の行いが、いかにも愚かしく思えた。
「――鱶は、呼べる」
再び訪れた沈黙を静かな声で破ったのは、波弥斗だった。
「波弥斗?」
澪が、意外そうな顔で彼を見る。
「鱶を呼べるって……海のものを操る力はないんじゃないのか?」
「おびき寄せるんだ。あいつらは血のにおいに敏感だ」
「波弥斗、待て。鱶をおびき寄せてどうするつもりだ」
波弥斗が今この場で、何かを思い付いたのだろうか。宇潮も怪訝な顔をしている。
「人魚が操っているように見せかけるんだ」
「見せかけて――それで、どうするんだ?」
平蔵の問いに、波弥斗は暗い笑みを浮かべた。
「若様とやらを襲わせる」
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