第13話

 泡を残して去っていく澪の姿が海の中に溶けて見えなくなると、波弥斗は勢いよく振り返った。

「俺は今すぐにでも、澪と夫婦になりたい。澪はもう十六だ。早いという歳じゃない」

「波弥斗。いきなりどうした。もうすぐ人魚狩りがあるんだ。今はそれどころじゃない」

「どうして澪を咎めないんだよ。隠れて人間に会っていたのに」

「それは確かに褒められたことではないが、人魚狩りがある、という知らせはそれ以上に我々にとって重要なことだ。澪のしたことは相殺だな」

「この先も許すのか、人間に会うのを。澪は、そいつの元へ行ってしまうかもしれないのに――母さんみたいに!」

 澪は、洲央村の人間、としか言っていない。しかし波弥斗は、それが男だと確信していた。波弥斗の母も、彼が生まれる前からそうだったというではないか。仲間に隠れて人間の男と会い続け、とうとう波弥斗を捨ててその男の元へ行ってしまった。このままでは、澪も波弥斗の元から逃げていく。

「母さんに捨てられて、親父は悔しくなかったのかよ。母さんを奪った人間を恨んでないのか」

 肩を怒らせる波弥斗に対して、その父は感情を揺さぶられた様子もなく、平坦な表情で、銛を手に取った。

「これは、その人間から与えられたものだ。波弥斗、お前も喜んで使っているだろう」

「それは――利用してるだけだ、奴らが勝手にくれたものを。放っておいたら海底に溜まるばかりで邪魔になるし……」

 波弥斗の語気はどんどん弱くなり、最後の方は海流に飲まれるように消えていった。

「人間との距離をはかりながら、人魚をまとめ、導いていくのが天ヶ内人魚の長の務めだ。わたし一人の感情で、人間をただ遠ざけるわけにもいかない。彼らの供物は人魚では作れないものばかり。そして、人魚達はそれを利用して生きていくことを、もう長いこと続けている。銛がなければ、海老の固い殻を割るのに苦労する。櫛やかんざしを、女達は喜んで使っている。それを、人魚一人が人間の元へ去ったからといって、取り上げるわけにはいかない」

「でも……」

「洲央村をはじめ、同じ天ヶ内海で生きる人間達は、基本的に人魚を害しない。害するのは、彼らを治める源藤様だ」

「でも、『あの人間』は人魚を捕まえ続けてきたじゃないか。そういう奴らは他にもいるかも――」

 はっとして、波弥斗は言葉を飲み込んだ。

『あの人間』は、人魚を捕まえるが、その後に必ず解放した。捕らえられた人魚に詳しく聞いたところ、『あの人間』は三十路を過ぎた男で、人間から生まれ変わった人魚を探しているという。

 人間から生まれ変わった人魚は、澪と多江しか今はいない。そして、『あの人間』が現れるのは洲央村の沖合だ。探しているのはきっと澪だと、波弥斗はずいぶん前から思っていた。十七年前ならば、『あの人間』は、当時海に沈められた娘と同じ年頃だ。生まれ変わりの人魚を探しているということは、その娘によほどの思い入れがあるのだ。家族だったのか、恋人だったのか――。

「澪は、『あの人間』と会っていたんだ。きっとそうに違いない」

 恋人だったのだ、きっと。

「波弥斗。それは今はどうでもいい。それよりも、お前はもっと跡継ぎという自覚を持て。お前は自分の感情にとらわれすぎる」

「放っておけば、澪は『あの人間』のところへ行ってしまうかもしれないのに!?」

「……それが澪の望みなら、仕方あるまい」

「親父?」

 初めて、長は表情を曇らせ、肩を落とした。

「海で死んだ人間を哀れみ、長の一族に加わるのがいちばん幸せであろうと、人間の生まれ変わりの人魚が女ならば妻に、男ならば息子にしてきたが、それは間違いだったのかもしれないな。現に、お前の母はここにいるのが幸せではないと思って、行ってしまったんだろう」

「……そんなの、親父が母さんを幸せにできなかったから、そう思うだけだろう。俺は違う。俺は澪を幸せにしてみせる」

 しかし、父は怒って反論するでもなく、どこか哀れみさえ漂わせた目で息子を見ただけだった。

「今はとにかく、人魚狩りにどう対処するかが最優先だ。わたしもお前も、仲間の人魚を守らなければならないのだからな」

 二本の銛を持って、父はひらりと身を翻した。


    ●


 澪に連れられてきた佐々は、長や波弥斗、居並ぶ男達を前に、不満そうな表情を隠そうともしなかった。

「佐々。忙しいところすまないな」

「最近は夜になると腰が痛むのに、年寄りをこんな長い距離泳がせるなんてね。用があるなら、お前さん達がうちへ来たらいいのさ」

 佐々は手頃な岩を見つけると、そこにもたれ掛かった。澪が呼びに行った時も、ここへ来る間も愚痴をこぼしていたが、行くのが嫌だとは言わなかった。

「それで、人魚狩りがあるんだってね? あらましは澪に聞いたよ」

「佐々はどう対処したらいいと考えている?」

「人間の舟を徹底的に避ける。他にあるかい」

「佐々どのの言う通りだ。源藤様の跡取りとやらが諦めるまで、舟を避けたらいい。今までもそうしてきた」

「しかし、その跡取りだけ帰って、洲央村の連中が人魚狩りを続けるかもしれない。そうなると厄介だ」

 何か厄介な問題が起きて、長一人では手に余ると判断した時、呼ばれるのが今この場にいる面々だった。天ヶ内人魚の最年長である佐々、長の叔父である人魚、そして佐々の次に年長の人魚と、波弥斗だ。澪は、事の発端を知らせたので今回はここにいる。

「――なら、人間と戦えばいい」

「物騒なことを言う跡取りだね」

「十七年前の人魚狩りで殺されたのは、佐々の娘なんだろう」

「あの子は人間に近付きすぎたのさ。やめておけと忠告したのに」

「佐々は悔しくなかったのかよ」

 波弥斗の怒声に、澪は肩を震わせた。あんなに怒っている波弥斗を見たことがない。

 かつての人魚狩りで捕まったのが、佐々の娘とは初耳だった。胸がまた苦しくなる。

 人魚狩りで仲間がまた犠牲になるのは嫌だ。けれど、波弥斗のように人間と戦いたいとは絶対に思えない。耕太と人魚が戦うなんて考えられない。

「十七年前と今回は、ちょっと違うんだろう? 澪が言うには、洲央村の人間達も本当はやりたくないというじゃないか」

「やりたくないのに人魚狩りをするのが人間なんだろう」

「もっと深いところへ行って頭を冷やしてきたらどうだい」

 佐々は、波弥斗とは話にならないとばかりに、宇潮と他の二人に向き直る。

「お前さん達は、跡取りみたいな物騒なことは言わないね?」

 三人の男が黙って頷くのを見て、波弥斗が苦々しい表情をする。

「戦わず、とにかく避ける」

「いつまで続くか分からんのは、ちと困るがな」

 古老の二人が顎髭をいじりながらそう言った。

 逃げるだけでは、たぶんだめだ。人間――いや、源藤様がもう二度と人魚に手を出さないようにしなければ、同じことがこの先もまた起きるだろう。

「――洲央村の人間と協力できないかしら」

 澪がぽつりと言うと、全員が彼女に顔を向けた。

 どういうことだと説明を求める表情に一瞬気後れするも、澪はぐっと肩に力を入れた。

「洲央村の人間と協力して、源藤様を追い返すの。人魚に手を出したら大変なことになるって思わせて。そうしたら、もう二度と人魚狩りをしようと思わないかもしれない」

「人間と協力!? そんなこと――」

 波弥斗がすぐさま反対の声を上げたが、長に黙れと言われ、不承不承引っ込む。

「洲央村の人間が我々に協力してくれるのか?」

「分かりません。でも、彼らが人魚狩りをしたくないのは間違いないです。こちらから呼びかければ、協力してくれるかもしれない」

 少なくとも、耕太は手を貸してくれるだろう。

「協力を得られたとして、どうやってに源藤様を追い返す?」

 そう聞いてきたのは、長の叔父だった。

「それは、思い付かないですけど。みんなで考えれば、何かいい考えが浮かぶかも……」

 澪が名案を持っていると期待していたのだろう。古老二人が小さくため息を吐く。一方、佐々はくつくつと笑っていた。

「おもしろい案じゃないかい。人間と協力して、一人の人間を追い返す。ふふ、長生きしてるが、聞いたことがないよ。おもしろい」

「佐々、おもしろがってる場合か! まじめに考えろよ」

「まじめに考えてるさ」

 波弥斗が声を荒らげるが、佐々は気にもせず笑っていた。

「――澪。洲央村の人間と渡りをつけられるか」

「親父!?」

 波弥斗が目を丸くして声を上げる。澪は何度も首を縦に振った。

「もっと詳しい状況を知りたい。人間が本当に人魚狩りをしたくないなら、手を貸してくれるだろう。澪が言うように、皆で考えれば名案が浮かぶかもしれない」

 それでいいか、と長は皆の顔を見回す。反対するのは波弥斗だけだったが、代案はあるのかと聞かれても答えられなかったので、黙ってしまった。

「まずは洲央村の人間と渡りをつける。洲央村にも長がいるだろうから、その人間と話ができると助かる。澪、頼めるか?」

「はい。もちろんです」

「よし。波弥斗、お前もついて行け」

「え」

 これには、澪と波弥斗が同時に声を上げた。

「万が一のことがあったら困るからな、波弥斗について行ってもらう。ただし、波弥斗。お前はわたしの跡取りで、天ヶ内人魚の代表として赴くのだ。くれぐれもそれを忘れるな」

「はい」

 さっきまでずっと不機嫌で不満そうな顔をしていた波弥斗だったが、神妙な顔で頷いた。

 もう耕太には会えないかもしれないと覚悟していたので、また会えるのは嬉しい。しかし、浮かれてはいられない。天ヶ内人魚にとって重大な役目を任されたのだ。その上、波弥斗も同行する。

 長に釘を差されたので、いきなり耕太に殴りかかったりはしないだろう。だけど、その後、波弥斗はきっと不機嫌になるであろうと想像にたやすく、それが憂鬱だった。

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