第12話
いつもの場所へ着いた耕太は、櫂をこぐ手を止めた。空は晴れていて、風はほとんどない。べた凪で、小さな波が舟と戯れる音は、海が囁いているようだった。
澪と会えるだろうか。いつでも会いたいと思っているが、今日は切実に会いたかった。
源藤様の若君が洲央村にやって来るのは七日後。今日会えなくともまだ余裕はあるが、少しでも早く澪に危険を伝えたかった。
澪を待つ間、耕太は揺れる舟の上で細工物を作ることにしていた。耕太の作ったかんざしや櫛を、澪が持っていると知ったからだ。細やかで陸の様子を伝える文様は、若い人魚の娘達にも評判がいいと聞き、嬉しかった。
べた凪でも細かい作業をしようと思うと、やはり揺れは気になる。ここでやるのは、削りだしなどの大ざっぱな作業で、それが終われば網や籠の修繕をして、のんびりと待っていた。
澪に絡まったら危ないので、待つ間、釣り糸は垂らさないし網も投げない。太陽が南を過ぎたら、今日はもう現れないと諦めて、釣りを始めるか、家へ帰って畑の世話をしていた。
昨日は志乃の家を訪ね、それから平蔵を訪ねたので、畑の世話をほとんどできていない。今朝水やりをした時、雑草が増えているのが気になった。数日中に抜かなければ畑が荒れ果ててしまう。
しなければならないあれこれを頭の中に並べていたら、不意に舟が大きく揺れた。
「耕太」
振り向くと、いたずらっぽい笑みを浮かべた澪が、縁から顔を覗かせていた。
「澪」
手を差し伸べると、澪はすっかり慣れた動きで舟の上に上がった。渡した手ぬぐいで澪が体を拭く間、念のため周囲を見回す。もとよりこのあたりまで来る舟はほとんどいない。見かけてもその影は遠く、人魚が乗っているとは思われない。
「今度は何を作っているの?」
体を拭き終えた澪は、濡れた髪を絞りながら耕太の手元を覗きこむ。耕太は彼女の肩に衣を掛けてやった。澪のために用意するようになったのだ。最初のうちは、慣れないのか肌触りが悪いからなのか、澪は衣をしきりに気にしていたが、今では自ら腕を袖に通して帯を結ぶようになっていた。
「澪。聞いてくれ。大事な話があるんだ」
耕太は細工物を脇に置き、澪の肩を掴んだ。澪が目を丸くして耕太を見つめる。
「もうすぐ、この海で人魚狩りがある。人魚を見たいという源藤様の若君が、洲央村の漁師達に協力させて、人魚を捕まえにくるんだ」
澪は更に目を丸くして、唇を震わせていた。
「七日後、若君が来る。だが、洲央村に長居はできない。若君が帰るまでの間、捕まらないよう、影さえ見せないように気を付ければいい。それを、仲間に伝えてくれ」
「……わたしが生まれる前にも人魚狩りがあって、一人の人魚が捕まって殺されたって、聞いたことがあるわ」
澪が眉尻を下げ、今にも泣き出しそうな顔になる。彼女は生まれ変わる前、目の前でそれを見ていたのだ。
「その話を聞くと、いつも、胸が痛くなって、悲しくなるの」
もしかしたらわずかながら、覚えているのかもしれない。あの後の凪海の落ち込みようを思い出し、耕太も胸が痛くなる。
「知っている誰かが同じ目に遭えば、きっともっと辛くて悲しくなる。でも……」
澪は俯いて黙ってしまう。
「澪? どうし――」
言いかけて、耕太ははっとした。
人魚狩りのことを澪が仲間に伝えれば、どうやってそれを知ったのか、仲間に訊かれるに違いない。耕太という人間から聞いたと答えなければ、きっと信じてもらえないだろう。
だが、正直にそう答えれば、澪が耕太と会っていたのがばれてしまう。怒った波弥斗が、耕太と会うことを二度と許してはくれないだろう。
「人魚は人間の舟に近付かないから、今まで通りでも……」
「でも、わたし達は息継ぎのために日に数度、必ず海面に顔を出すわ」
知っている。だから耕太は、澪に出会うまで何度か人魚を捕らえることができたのだ。耕太が一人でできたのだ。漁師達が総出でかかれば、人魚を捕まえてしまうだろう。
「――わたしが耕太と会っていると知ったら、波弥斗は絶対に怒るわ。きっと、わたしを四六時中見張るようになる」
「澪……」
「でも、だからといって、みんなに知らせないわけにはいかないよね。わたしはもう人魚狩りで誰かを失いたくない……」
澪のまなじりから、涙が一粒、筋を作って流れ落ちた。
彼女だけ守るなら、仲間に伝えなくていい、と言えばいい。だが、危険を知っていて伝えないまま仲間の誰かが犠牲となれば、澪は黙っていた己を恨み、後悔し、悲しむだろう。
そんな思いをさせたくもない。
「仲間に伝えてくれ、澪。危険を知っていれば犠牲は出ない」
洲央村の漁師達も、再び人魚に手をかけずに済む。
耕太は澪と、もう二度と会えなくなるかもしれない。
それでも、人魚狩りが失敗すれば、天ヶ内海のどこかで澪が無事に生きているのを知りながら、耕太も生きていける。
「耕太……!」
抱きしめた澪が、耕太の胸元で声を絞り出す。これが最後かもしれないと思うと、いつまでも腕を緩めることができなかった。
●
長のねぐらは、夫婦岩に一番近い場所にある。流れが穏やかで、近くには海草がたくさん生えている場所もある。夫婦岩周辺には人間がよくやって来るが、魚も多く、人間に気を付けていれば、魚だけでなく貝や海老にもあり付ける。
そんないい場所をねぐらにできるのは、天ヶ内海の人魚をまとめる長とその家族の特権だ。もっとも、家族と言っても、宇潮と波弥斗だけだが。
「澪!」
「これは珍しいお客だな」
澪の姿を見つけるや、波弥斗は手にしていた銛を放り出してこちらへ泳いでくる。
宇潮は、波弥斗が投げ出した銛を捕まえるため、もたれていた岩から体を起こした。二人は銛の手入れをしていたようだ。二本とも、おそらく今年の供物だろう。金属でできている部分は、海の中にあると錆びてもろくなる。こまめな手入れが欠かせず、それなのに長持ちしない代物だ。魚や貝、海老を捕る時にも食べる時にも使えて便利なので、銛など金属を使った道具は、皆ほしがる。
「澪の方から来てくれて嬉しいよ」
波弥斗は澪を抱きしめそうな勢いだったが、澪はそんな彼の手をさりげなく避けて、長に顔を向ける。
「長に、大事な話があって来たんです」
澪の表情と口調から、ただ事ではないと長はすぐに察してくれた。銛を岩の隙間に立てかける。
自分に会いに来たわけではないと知って落胆した表情を浮かべた波弥斗は首を傾げる。
跡取りである彼にとっても大事であり、そもそも天ヶ内海の人魚全員にとって、重要な話だ。
「もうすぐ天ヶ内海で人魚狩りがあるんです。洲央村を治める源藤様という人間の跡継ぎが、人魚を見てみたいから、捕まえにくるそうです」
波弥斗が目を丸くする。長は息子のように驚きはしなかったが、眉間にしわを寄せた。
「澪。それは本当か? 嘘や冗談だとしたら、達が悪いぞ」
「本当です。信じてください! 六日後には人魚狩りが始まってしまう」
まさか嘘と言われるとは思わず、澪は声を高くする。
長も波弥斗も、すぐに信じてくれると思ったいた――自分の発言には力があるとうぬぼれていたのだと、澪は図らずも気付かされる。
「本当だとして、それをどうやって知った? 人間から聞かなければ、知りようもないことだが?」
澪は長の背後にある二本の銛を見やった。人間の供物を受け取りながら交流するのは禁じていることに、少なからず矛盾を感じるが、今それを言っても仕方がない。
「――洲央村の人間から聞きました。その人間は、洲央村の長の相談役もやっていて、信頼できます」
「澪! お前、人間と会っていたのか! いつから、どこで!?」
怒り混じりの大声を上げたのは、波弥斗だった。彼が怒ることは予想していたので、澪はあえて波弥斗には顔を向けず、長をじっと見ていた。
「洲央村は、源藤様とかいう人間の領地だと聞いている。その源藤様は、十七年前にも人魚狩りをしたが、またかやろうというのか」
長の口から、大小たくさんの泡が出てくる。目を閉じて頭を振る。怒っているのではなく、考えているようだった。
「澪。悪いが、佐々を呼んできてくれ。人魚狩りについてどう対処するか、話し合わなければ。そこで、詳しい話を聞かせてもらう」
「分かりました」
澪はすぐに行こうとしたが、波弥斗に腕を掴まれた。
「待てよ、澪。人間と会っていたって、どういうことだ」
「波弥斗……」
腕を掴む波弥斗はまなじりをつり上げている。掴まれたところが痛い。
「波弥斗。澪を行かせてやれ。見苦しいまねをするんじゃない」
長に厳しく言われ、波弥斗は渋々手を離した。だが諦めた顔はしていない。澪は大きく尾を振り、逃げるようにしてその場を後にした。
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