第38話 俺が甲子園に連れていくから

 午前10時。常陽学院と聖陵学舎の試合が始まったその時間、美雪は夏美と共に病室のテレビの前にいた。


 厳しい戦いが待っている。けれど、いくつかの条件がクリアできれば必ずチャンスはある。美雪はそう信じて疑わなかったが、時間が経つにつれ希望は少しずつそぎ落とされていく。


 そして5回表、残酷で非情な現実がテレビの前の彼女にも突きつけられる。

 恵一が打球を右足にうけたのをきっかけに、常陽学院は2点を失いさらにピンチを迎えていた。


「本気になった松沢が相手なら、こっちが取れるのは2点。よほど運がよくても4点が限界だろうな」

 それが、数日前に美雪を見舞いにおとずれた唯の言葉だった。この時点でスコアは4対0。これ以上の失点は絶対に許されない。


 しかし、聖陵学舎の一番新田のタイムリースリーベースにより、常陽学院はさらに3点を失ってしまう。

「まだまだ、試合はわからないよね!」

 夏美が、無理に笑顔を作って声をかけたが、美雪はすでに覚悟を決めていた。


「お姉ちゃん……。わたしを神泉スタジアムに連れていって――」

「美雪……」

「――お願い」

 美雪の瞳には、この戦いを最後まで見届けようという強い決意が、涙とともにうかんでいた。


 絞りだすように願いを口にした妹。それを見つめる姉の胸中にも、様々な想いが交錯こうさくする。しかし、彼女の決断は早かった。

「わかった! 行くよ。美雪!」

 この願いだけは絶対にかなえてあげなきゃいけない。この先、美雪の身になにが起きようと……。


「ありがとう」

 感謝の言葉を口にした美雪は急いで着替えようとしたが、それを夏美が止める。

「着替えたら脱走がばれちゃうでしょ!」

「そうだけど、パジャマのままじゃ……」

 とまどう美雪に、夏美は笑顔を見せる。

「大丈夫。すぐにわかるから!」


 病院の裏口に夏美の運転する軽自動車が現れ、周囲を確認しながら美雪がすばやく乗りこむ。

「後ろに紙袋があるでしょ? 制服が入ってるから着替えちゃいなさい。外から見られないように気をつけなね」

「えっ、制服?」

 美雪は目を白黒させながら、後部座席の紙袋を確認する。たしかにそこには常陽学院の夏服がそろえられていた。


「お姉ちゃん。どうして……」

「わかんない。けど、家をでる前に、なんとなくね」

 美雪に優しく笑いかけながら、夏美はアクセルを踏みこんだ。



 神泉スタジアムにむかう車内、美雪はスマホで試合をチェックしていたが、状況は悪化する一方だった。

 そんななか、それまで順調だった車の流れが急につまり始める。


「おかしいな……」

 小さく呟きながら夏美がスマホを手に取る。渋滞の原因は、この先で起きた交通事故だった。このままだと間に合わない。彼女は素早く地図アプリで検索をかけた。


「美雪。一か八か裏道でいこう思うけど、どうする?」

「それでお願い。お姉ちゃんの運転に任せるよ」

「わかった。任せとけ!」

 夏美はハンドルを大きく切って、横道に車をすべりこませた。


 二人が神泉スタジアムの入り口に到着したのは、ちょうど六回表の聖陵学舎の猛攻が終わった直後だった。


「わたしは駐車場に車を停めてそっちにむかうから、美雪は先にいって!」

「わかった! ありがとう!」

 美雪は車から降りて走りだした。久しぶりの全力疾走に体のあちこちから悲鳴が上がる。

 しかし、そのすべてを無視して、彼女は最寄りのレフトスタンドの入場ゲートを走り抜け観客席への階段を駆け上がった。


 その先で美雪を待っていたのは、残酷で非情な光景だった。



「あと一人! あと一人!」

 球場中から歓声が上がるなか虎徹が尻餅をつく。審判からタイムがかかり、バッターボックスをはなれた彼は一人うずくまっていた。


「あと一球! あと一球!」

 あと一人からあと一球。歓声は容赦ようしゃなく切りかわり、さらに大きくスタジアムにこだまする。


 わたしのせいだ。わたしのせいで、虎徹君はこんなひどい目に――。


 美雪の瞳から涙があふれだした。しかし、同時に湧き上がった熱い感情が、彼女の心と体を突き動かす。


 ――そうだ。わたしのせいだ。だからわたしは、わたしだけは、最後まであきらめずに声を届けるんだ!


 涙をぬぐった美雪は、観客席の通路を全速力で駆けおりた。そして、レフトスタンドの最前列で背筋をのばし、一人うずくまる虎徹をしっかりと見つめた。


 美雪は叫んだ。声の限り、虎徹の名前を叫んだ。何度も何度も叫んだ。



「どうしてここに――」

 その光景を、虎徹はすぐには信じられなかった。

 しかし、幻聴でも幻覚でもない。彼の聴覚は美雪の声を視覚はその姿を、たしかにとらえていた。

 虎徹の心のなかを、彼女と過ごした日々が走馬灯のように駆けめぐる。

 彼は、レフトスタンドで声を上げる美雪を見つめながら、あの日の誓いをもう一度口にした。


「――俺が甲子園に連れていくから」


 フットガードを固定した虎徹は、バットを強く握りしめて立ち上がる。

 観衆の雑音は、もはや彼の耳には入っていない。聞こえているのは、美雪の声だけだった。


 虎徹は静かにバッターボックスへとむかい、松沢と対峙たいじする。そんな彼が思いだしたのは、いつかの唯の言葉だった。

「これは、あいつが本気で投げた試合のデータなんだ。見てみろ。最後の一球は、全部ど真ん中のストレートだろ?」

 虎徹は狙い球を一つにしぼって、全神経を集中させた。


 虎徹の視線の先で、マウンド上の松沢がゆっくりと振りかぶる。左足が上がり、肩越しに背番号1が姿を見せる。右足に力がためこまれ、足先を始点にして全身が連動する。左足が力強く踏みだされ、ためこまれた力が右腕へと駆け上がる。


 羽ばたくような投球フォームから放たれた剛速球は、ホームベースまでの18.44mを切り裂きながら、ストライクゾーンの中心へと一直線に進んだ。


 虎徹は松沢の一挙手一投足をすべてその目でとらえていた。そして、その右腕から放たれたボールの軌道は、彼のイメージと寸分すんぶんたがわなかった。

 美雪の声だけがひびく世界で、虎徹はボールのえがく直線に合わせて無心でバットを振り抜いた。


 次の瞬間、虎徹の両手から全身に、未知の感覚が走り抜ける。手応えはあったのにそれがボールをすり抜けてしまったような不思議な感覚。鋭く研ぎ澄まされた刃で白球を真っ二つにしたなら、あるいはこんな余韻よいんがのこるのかもしれない。


 しかし、そんな感覚すら置き去りにして虎徹は全力で疾走する。


 俺がボールよりも早く一塁にたどりつけば、この試合は終わらない。絶対に終わらせない!

 ありったけの力で足を上げ腕を振り、ボールの行方を追う一瞬すらも惜しんで、彼はただひたすら前に進んだ。


 目の前の奇妙な光景に虎徹が気づいたのは、その直後のことだった。聖陵学舎のファースト木口は、送球を待つかまえも見せずに空を見上げたまま固まっていた。

 つられて虎徹もボールの行方を追う。


 その視線の先で、地球の重力も残酷で非情な現実もすべて振り払って、白球は青空に美しいアーチをえがいていた。


 常陽学院のベンチから、共に戦ってきたチームメイト全員が身を乗りだして空を見上げる。スタジアムのすべての視線が、虎徹の打球に集まる。


 その終着点には、美雪がいた。


 鈴木虎徹の放った一撃は、坂井美雪のすぐ横で大きくバウンドして、そのままレフトスタンドに飛びこんでいった。


 一瞬の静寂の後、神泉スタジアムは地鳴りのような大歓声に包まれる。さらに、バックスクリーンにこの日最速の160kmが表示されると、球場のボルテージは最高潮に達した。


 この日一番の喧騒けんそうの中心で、虎徹は一塁を踏み静かに二塁へとむかっていく。レフトスタンドの最前列には、止まらない涙を何度もぬぐいながら、声にならない声を上げる美雪の姿があった。


 二人の視線が交わる。


 虎徹は大きくうなずいて、美雪にむかって力強く右腕を突き上げた。

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