第7話 夢が壊れても

 夏休みに入ってから、虎徹は週に二日ほど美雪の家をおとずれていた。


 虎徹が野球の試合を解説し、美雪は勉強を教える。そのやり取りのなかで彼がおどろいたのは、美雪の教え方の上手うまさだった。

 彼女は、少し目をとおしただけで虎徹が理解していない点を把握はあくし、わかりやすい言葉で彼を正解へとみちびく。


 それに比べて、自分の野球解説がつたないことを虎徹はもうわけなく思ったが、そんな彼の話を美雪はいつも熱心に聞いていた。


 これまでの憂鬱ゆううつで無気力な高校生活からは考えられないような、楽しく充実じゅうじつした日々。虎徹は、まるで夢のような夏休みをすごしていた。


 しかし、ある日突然、それは壊れた。



 8月8日。この日は聖陵学舎の甲子園初戦が予定されており、その試合を解説して欲しいというのは、美雪からのリクエストだった。


 いつものように山の手一丁目のバス停でおりた虎徹は、静けさに包まれた路地を迷うことなく歩いていく。照りつける夏の日差しは強いが、今日もこの街の空気はおだやかだった。

 その一角で彼は立ち止まり、目の前のインターフォンを慣れた手つきで押した。


「いらっしゃい!」

 大きな門の横にあるくぐり戸がひらいて、坂井家の姉が明るく虎徹を迎える。はずだったが、今日は夏美が姿を現さない。


 力が弱かったかな? 彼は一度目よりも少し強めにインターフォンを押したが、やはり応答はない。さらにもう一度、少し間を置いてもう一度。しかし、潜り戸がひらくことはなかった。


「ダメか……」

 ひとりつぶやいた虎徹はあることに気づいた。もしかして、日時をまちがえたんじゃないか? 

 彼はすぐさまスマホを手に取ってカレンダーを確認したが、今日の日付ひづけは8月8日で合っていた。

 さらに虎徹は甲子園の日程にっていも調べたが、本日の第三試合の対戦カードには、聖陵学舎の四文字がはっきりと表示されている。

 彼が約束の日時をまちがえた可能性は、限りなくゼロに近かった。


 嫌な予感を振りはらうように、虎徹は通話アプリで美雪に電話をかけてみる。しかし、呼出音よびだしおんが鳴りひびくだけで彼女の声は聞こえない。もう一度かけなおすが反応は変わらなかった。

 彼は夏美にも電話をかけたが、こちらも応答はない。


「まさか……」

 虎徹は呆然ぼうぜんとその場にくしていた。どこか遠くで、救急車のサイレンが鳴りひびいていた。



 虎徹のスマホに夏美から着信があったのは、その日の夕方のことだった。彼はあわててベッドから起き上がり、いのるような気持ちで通話ボタンを押した。


「もしもし、鈴木君ですか?」

「は、はい。そうです」

「ごめんね。今日は迷惑かけたでしょ? おまけに連絡もこんなに遅くなって……」

 夏美の声にはいつもの明るさが欠片かけらもない。なにか悪いことが起きたのはまちがいなかった。


「い、いえ。気にしないでください。そ、それよりも、あの……。なにか、あったんですか?」

 悪い予感が声をふるわせる。


「うん。じつは美雪が発作ほっさを起こしちゃってね。いま病院なんだ」

 虎徹の背筋せすじが凍りつき、心臓は大きく波を打つ。


「大丈夫、なんですか?」

 大丈夫なわけがない。けれど、そう聞くしかない。


「うん。発作自体は軽くてね。でも、しばらく入院することになると思う」

 美雪の存在がこの世界から消えてしまう。そんな最悪の事態じたいを想像していた虎徹の全身から、急速に力が抜けていく。


「よかった……」

 思わず言葉にしてしまったが、虎徹はすぐに自分の不謹慎ふきんしんさに気づく。

「す、すみません! 全然よくないです」

 あわてて言葉を取り消した彼に、夏美は優しく声をかける。


「いいんだよ。わたしも、とりあえず安心したところだから」

 彼女の言葉は虎徹の心に重くひびいた。とりあえず安心できるまで、夏美さんはどれだけつらい時間をすごしたのだろう……。


「ごめん。まだちょっとドタバタしてるから、そろそろ失礼するね」

「はい。わかりました。落ち着いたら連絡ください。必ずお見舞みまいにいきます」

「うん。ありがとう。必ず連絡する」


 夏美との通話を終えてからしばらくの間、虎徹は安堵していた。

 しかし、美雪のことを考えれば考えるほど、心のなかを罪悪感ざいあくかん自己嫌悪感じこけんおかんが満たしていく。


 勉強を教えてもらっていたことが、負担になっていたのではないか。そのせいで発作が起きたのではないか。

 だとすれば、彼女の体調も考えずに一人で浮かれていた俺は、最低だ……。



 美雪が入院してから、一週間以上が経った。


 その間、虎徹は彼女に送るメールの文面を何度も考えたが、いざ送信しようとすると手が止まってしまう。

 どんな言葉でなにを伝えればいいのか。絡み合ったあらゆる感情は、なかなか文字列にまとまらなかった。


 ベットであお向けになった虎徹は、憂鬱ゆううつな気持ちを引きずったまま、意味もなくスマホを手に取る。その瞬間、着信があった。


「もしもし。鈴木君ですか? 坂井家の姉です!」

 声のぬしは夏美だった。無理をしているのかもしれないが、いつもの明るさがもどっていることに虎徹は少しホッとする。


「み、美雪さんの調子はいかがですか?」

「おかげ様でだいぶ落ち着いたよ。もっとも、すぐに退院というわけにはいかないんだけどね」

「お、お見舞いにいきます!」

「鈴木君。今日はグイグイくるねー!」

 はやる気持ちをおさえきれなかったことに気づいて、虎徹は口ごもる。


「す、すみません。つい……」

「冗談だよ。お見舞いに来てよ。美雪も会いたがってると思うから」


 その後のやり取りで、彼は五日後に美雪を見舞うことになった。

 まだ心の中で整理できていないことは山ほどある。けれど、いまはただ美雪に会いたい。会って話がしたい。それが虎徹の心からの願いだった。

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