第24話 春の王者

 4月3日。新年度が明けて間もないこの日、虎徹は山の手一丁目のバス停から美雪の自宅へとむかっていた。


「春は一段ときれいだな……」

 思わずつぶやいた虎徹の視線の先では、生垣いけがきを彩る花々や満開を迎えた桜の大木が、やわらかな日差しのもとで春の美しさを体現たいげんしていた。

 彼の少し前を、まるで道案内をするかのように白いちょうが舞っていく。都会の喧騒けんそうとは無縁のこの一角は、コンクリートジャングルよりも季節の気配が色濃かった。



 坂井家に到着した虎徹がインターフォンを押すと、美雪が応答する。二月の中旬に山の手総合病院を退院した彼女は、自宅療養を続けながらしばしば学校にも姿を見せていた。


 それまで誰ともかかわろうとしなかった美雪が、唯や舞と談笑する姿はほかのクラスメイトをおどろかせたが、彼女は自分から少しづつ周囲に打ち解けていった。

 また、出席日数は足りなかったが、テストで常に優秀な成績をのこしていた美雪には特例により三年への進級が認められた。


「いらっしゃい。虎徹君」

 くぐから顔をだした美雪が虎徹に笑いかける。唯の影響から、彼女はいつのまにか虎徹のことを名前でよぶようになっていた。もっとも彼は、そのことにまだ慣れておらず、照れを隠しながら美雪に問いかける。


「あれ、夏美さんは?」

 いつもなら妹と共に現れる姉の姿が、今日はなかった。

「お姉ちゃんはお昼寝中。あんまり気持ちよさそうに眠ってるから、起こすの悪いかなと思って」

「たしかに、絶好の昼寝日和ひるねびよりだね。今日は」

「うん。本当にいい天気」

 澄み切った春の青空を、美雪はまぶしそうに見上げた。



「そうそう、昨日は唯がきてたんだ」

 客間にとおされた虎徹に、急須きゅうすでお茶を入れながら美雪が話を切りだす。

 唯は、美雪からデータの提供を受けて以来、しばしば彼女と連絡を取り合ってアドバイスを求めていた。


「そうだったんだ。是川さんは、やっぱり大変そう?」

「うん。データ分析の結果を鵜吞うのみにしないで、ちゃんと自分でも検証してるから、大変な作業だと思う」

 大事なのはデータの奥にひそむ原因との関係なんだよ。いつか唯が口にしていた言葉を、虎徹は思いだしていた。


 二人はしばらく、とりとめのない会話をかわしていたが、時間に気づいた美雪がテレビのリモコンに手をのばす。

「そろそろ始まるね」

 彼女がボタンを押すと、テレビの画面は5万人近い観衆でいっぱいになった甲子園球場の様子をうつしだした。


 今日、4月3日は、春の選抜高校野球の決勝戦当日だった。


 雌雄しゆうを決するのは、メジャーリーグからも注目される天才ピッチャー松沢恒翔を擁する聖陵学舎と、超高校級のバッターをそろえた強力打線が売りの南洋義塾なんようぎじゅく。東西の横綱とよばれる二校だ。

 前評判の高かった優勝候補同士の対決に、試合開始前から甲子園は興奮のるつぼと化していた。


 春の陽気とスタンドの熱気におおわれたグラウンドの中心では、松沢恒翔が試合前の投球練習にのぞんでいた。テレビ画面に映しだされた彼の姿を見て、美雪が虎徹に問いかける。

「今日は松沢君が投げるんだね」

「うん。雨で日程が延びたからだろうね」


 肩の消耗しょうもうをなによりも嫌う松沢は、決勝戦には登場しないのでは。というのが大方の予想だった。

 しかし、雨により二日ほど試合が順延し過密日程が解消されたことにより、彼は決勝戦のマウンドに万全ばんぜんの状態で姿を現していた。


「きっと唯は、いまごろ飛び上がって喜んでるよ」

「だろうね。本気になった松沢を分析できるチャンスは、めったにないからね」

 是川スポーツ科学センターの分析室で、大きくガッツポーズをかかげる唯の姿を想像して、二人は笑い合った。


 それから間もなく、試合開始を告げるサイレンと共に、春の王者を決める戦いの幕が切って落とされた。


「ドキドキするね! 虎徹君は、どんな展開になると思う?」

「松沢と南洋打線の真っ向勝負になるだろうね。初回から目がはなせないよ!」

 虎徹と美雪は、気持ちを高ぶらせながらテレビ画面をじっと見つめた。


 二人の視線の先で松沢が大きく振りかぶる。その初球は、ストライクゾーンの真ん中を射抜く強烈なストレートだった。

 バックスクリーンに表示された球速は155km。挨拶あいさつがわりの剛速球に、甲子園は大きなどよめきに包まれる。


「すごい……。いきなりエンジン全開だね」

「今日は本気で投げる。っていう宣言かもしれない」

 虎徹の予想どおり、その後も松沢は圧巻あっかんのピッチングを披露ひろうし、1回表の南洋義塾の攻撃を三者三振でねじ伏せた。


 続く1回裏、エースの好投に触発しょくはつされた聖陵学舎打線が、制球の定まらない南洋義塾の先発投手をとらえる。

 一番新田にった、二番岩崎いわさきが連続ヒットで出塁し、三番青井あおい四球フォアボールを選んでノーアウト満塁。このチャンスでバッターボックスに立ったのが、今大会でめざましい活躍を見せている聖陵学舎の四番、田村健也たむらけんやだった。


「田村君も中学時代から有名だったけど、高校に入ってからさらにレベルが上がってるよね。体もかなり大きくなってる」

「うん。でも、正直ここまで大物になるとは思わなかった。それに田村だけじゃないんだ。聖陵学舎の多くの選手が高校に入ってから大きく力をのばしてる。それは、きっと松沢の……」

 次の瞬間、テレビからひびいた強烈な打撃音が虎徹の言葉をかき消す。


 あわててテレビに視線を戻す二人。その先で、大空高く舞い上がったボールは、レフトスタンド上段へと吸いこまれていった。

 いきなり初回から飛びだした特大の満塁ホームランに、超満員の甲子園が大歓声に包まれる。


「これもきっと松沢君の影響なのかもね」

 強烈な一撃にさえぎられた虎徹の言葉を、美雪がつなぐ。


「前に本で読んだんだけど、飛び抜けた天才がチームに一人混じると、大抵は天才の方が周囲の影響で力を落とすんだって。でも例外もあって、天才にチームが引っ張られて全体のレベルが大きく向上することもあるみたい」

「聖陵学舎はその例外ってわけだね」

 虎徹の言葉に美雪は大きくうなずいた。


 その後も聖陵学舎は投打で南洋義塾を圧倒した。6回裏が終わった時点で、スコアは12対0。試合はほぼ決まったようなものだった。


「ここまで差がつくとは思わなかったね……」

「そうだね……」

 テレビ画面を呆然ぼうぜんと見つめたまま美雪が口にした言葉を、虎徹が短く返す。

 あまりにも一方的な試合展開を目の当たりにして、二人はそれ以上、言葉を発することができなかった。


 7回表。それまでノーヒットに抑えられていた南洋義塾打線だったが、この試合初めてのヒットを皮切りに、1アウト一塁二塁のチャンスを迎える。

 ここで打席に立ったのが、高校ナンバーワンスラッガーの異名を持つ南洋義塾の四番、土佐勝男とさかつおだった。


 待ちに待ったチャンスの到来に、南洋義塾の大応援団のボルテージは一気にね上がり、それまでよりもさらに大きな声援が一塁側アルプススタンドから球場全体にひびき渡る。

 しかし、それも長くは続かなかった。


 土佐に対峙した松沢は、その初球に火の玉のような剛速球を投げこんだ。ボールがキャッチャーミットに収まった直後に鳴りひびいた衝撃音。その凄まじさに球場中の誰もが息をのむ。

 158km。バックスクリーンに球速が表示されると、静寂はどよめきに変わり甲子園全体が異様な雰囲気に包まれる。


 さらに二球目のストレートも156kmを記録し、バッターボックスの土佐も意地のフルスイングを見せるが、バットは虚しく空を切る。

 続く三球目に松沢が選んだ球種はスライダーだった。それまでの二球と同じ軌道で放たれたボールは、ホームベースの直前で土佐のスイングを嘲笑あざわらうかのように大きく変化しキャッチャーミットに収まる。


「ストライクスリー!」

 審判の宣告と同時に、空振りでバランスをくずした土佐はバッターボックスで倒れこんだ。二人の直接対決は試合前から大いに注目されていたが、どちらが勝者なのかは誰の目にも明らかだった。

 さらに後続のバッターも圧倒され、南洋義塾が初めてつかんだチャンスは、ギアを一段上げた松沢のピッチングにより、いとも簡単に潰されてしまった。


 7回裏。待望のチャンスを無惨につみとられたショックから、南洋義塾のピッチャーの制球と野手の守備に乱れが生じ、そこに聖陵学舎の打線が襲いかかる。

 容赦ようしゃない連打に、緊張の切れた守備陣のエラーがかさなり、終わってみればこの回、聖陵学舎は南洋義塾から9点を奪取だっしゅしていた。

 そして次の回、松沢はグラウンドに姿を現さず、控えのピッチャーがマウンドで投球練習を始めた。


 春の甲子園で敗退の涙にくれる選手は、夏に比べればはるかに少ない。当然だ。彼らの目線はすでに次の戦いにむけられているのだから。

 この借りは、夏に必ず返す。そんな誓いを胸に敗者はグラウンドを去っていく。


 しかし、優勝した聖陵学舎の校歌が流れるなか、ベンチ前に整列していた南洋義塾の選手たちは全員が号泣していた。

 24対0という前代未聞の大敗は、彼らのプライドをズタズタに切り裂き、無力感を突きつけ、胸に抱くはずだった夏への希望すら黒く塗りつぶしていた。



「こんなワンサイドゲームになるとは思わなかったね……」

 力のない表情でテレビ画面を見つめながら、美雪が口をひらく。

「松沢のピッチングが想像以上だったのはもちろんだけど、聖陵学舎の打線がここまで爆発するとはね……」


「やっぱり、松沢君のピッチングに触発しょくはつされたのかな?」

 美雪を見ながら、虎徹が首をたてに振る。ピッチャーとバッター。チームを一つの生き物として見れば相互に影響しあうのは当然のことで、特に松沢恒翔の影響が大きい聖陵学舎ではその傾向が顕著けんちょだった。


「7回以降に、南洋義塾の守備が乱れて打線が沈黙したのも、松沢の影響が大きかったと思う」

「たしかに……。松沢君の後に投げたピッチャーも悪くはなかったけど、南洋義塾の実力なら打てない相手じゃなかったよね」

「そうだね。でも、7回表に本気になった松沢に圧倒されたことで、南洋義塾の選手の心は折れてしまったんだと思う」


「松沢君がゲームを支配していたんだ。やっぱり凄いね。実力も影響力も……」

 あまりにも厳しい現実を目の当たりにして、美雪は思わずうつむく。しかし、そんな彼女に虎徹がかけたのは意外な言葉だった。


「たしかに松沢は凄い。凄すぎる。でも、だからこそチャンスがあると思うんだ」

 いつになくポジティブな彼の言葉に、美雪が顔を上げる。


「今日の試合もそうだったけど、聖陵学舎は松沢に大きく影響されるチームなんだ。だから、もしも松沢をうまく攻略できればチームは大きく動揺するだろうし、そこから勝機が生まれるはずなんだ」

 虎徹は美雪を真っ直ぐ見つめながら、さらに話を続ける。

「それに、練習試合で是川重工と戦えるのも大きいよ。毎回ボロ負けしてるけど、得るものは大きいし、強い相手に慣れておけば本番でもあせらず戦えると思うんだ」


「そうだよね。ごめん。なんか勝手に弱気になっちゃって」

 あやまる美雪の表情に明るさがもどる。そんな彼女に、虎徹はいたずらっぽく笑いながら真相を明かした。


「まあ、この話。ぜんぶ是川さんの受け売りなんだけどね」

「やっぱり。なんか唯っぽいと思った」

 二人の笑い声がかさなる。甲子園の決勝戦がもたらした重苦しい空気は、いつのまにかどこかに消え去っていた。

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