第37話 そこに、彼女はいた
3回裏も松沢の勢いはおとろえず、剛が
一方で聖陵学舎の4回表の攻撃も、恵一のねばりの投球や守備陣のファインプレーにより追加点を
4回裏。松沢の圧倒的なピッチングは続き、虎徹と大吉が
そして三球目、松沢が投じた高速スライダーに雅則のバットが空を切る。しかし、それで終わりではなかった。
大きく変化したボールは、キャッチャーミットをはじいてバックネットへと転がっていく。それを見た雅則はすぐさま一塁へと駆けだした。
ギリギリのタイミングだったが、判定はセーフ。雅則はラッキーな振り逃げにより出塁した。しかし、その表情に喜びはない。
「なんなんだ。あのボールの変化は……」
彼は一塁上で、松沢が投じた規格外のスライダーに
4回裏を終えてスコアは2対0。常陽学院は聖陵学舎に必死に食い下がっていたが、得点の糸口をまったく見つけられずにいた。
そして5回表、
この回の聖陵学舎の攻撃は、四番の田村から始まる。その三球目、甘く入ったストレートを彼は見逃さなかった。
強烈なピッチャー返しが放たれ、打球が恵一の右足に直撃する。
思わぬアクシデントにスタジアムがざわめくなか、彼は
審判からタイムが
「恵一! 大丈夫か!」
「ああ。これぐらいどうってことねえよ」
唯によびかけられた恵一は強がって見せたが、その表情は険しく、額には
「舞。ちょっと確認してくれ」
唯の指示をうけた舞が、すぐさま恵一の足元にしゃがみこむ。
「ちょっと痛いと思うけど、ごめんね」
彼女はケガの状況を確認するために、打球をうけた恵一の
「骨に異常はないよ。でも、痛みはしばらく続くと思う」
唯は、手当のために恵一をベンチにもどすことに決め、審判からも許可を得る。
「お嬢。俺なら平気だ。すぐにでも投げられる」
なおも強がる恵一に、彼女は小さく耳打ちした。
「焦るな恵一。痛みが引くまで、少しでも時間をかせぐんだ」
唯に従って恵一はベンチに歩きだそうとしたが、右膝に走った
それから5分後、恵一は再びグラウンドに姿を現し、試合は再開された。
その初球、彼が投じたのはど真ん中のストレート。明らかな
センターの虎徹がすばやくホームに送球したため、ランナーの田村は三塁でストップしたが、ノーアウト二塁三塁のピンチ。
さらに、六番新井に対して、恵一はストレートの
しかし、常陽学院には代わりのピッチャーがいない。選手が9人しかいない。それは彼らの最大の弱点だった。
そして、聖陵学舎の猛攻が始まった。
ノーアウト満塁のチャンスから、七番鈴村と八番川木の連続ヒットで2点が追加され、スコアは4対0。
その後、九番松沢は三振に倒れたが、続く一番新田が
二番岩崎と三番青井が、完全にコントロールを失った恵一から連続で
その後、五番木口と六番新井が内野ゴロに倒れ5回表は終了したが、聖陵学舎はこの回、常陽学院から一気に7点をうばった。
「みんな、すまねえ……」
ベンチにもどった恵一が、絞りだすような声で
力なくうなだれる恵一をチームメイトが口々に励ます。しかし、そんな彼らの表情も一様に青ざめていた。
スコアは9対0。相手は
5回裏。打線の
スコアは13対0。これまでノーヒットに抑えられている松沢から、6回裏に4点以上うばわなければ、常陽学院のコールド負けが決定する。
そんな絶望的な状況で、最初にバッターボックスに立ったのは剛だった。
唯様のためにもみんなのためにも、このまま終わるわけにはいかない。強い思いを胸に刻みながら、彼は
その初球、松沢の放った156kmのアウトコースのストレートに剛は食らいつく。鋭いスイングから放たれた打球は一塁線を襲ったが、審判の判定はファールだった。
あわや長打かという強烈な一撃に、スタンドがどよめく。
続く二球目、松沢はまたしてもアウトコースにストレートを投げこむ。剛は再び大きく踏みこんでバットを振り抜いたが、今度は空振りに終わった。
松沢の放った二球目のストレートは、初球よりも低めいっぱいにコントロールされていた。
さらに三球目、彼は空振りを誘うように、高めのボールゾーンに強烈なストレートを投げこむ。
剛も思わずバットを出しかけたが、かろうじてスイングを止めて踏みとどまった。その瞬間、マウンド上の松沢はバッターボックスの剛に一瞬だけ笑みを見せた。
そして四球目、松沢の右腕から放たれたのは、真ん中高めのストレートだった。狙いどおりの一球に、剛はあらん限りの力をこめてスイングを繰りだす。
しかし、とらえたはずのボールは、彼のバットの上を走り抜けキャッチャーミットに叩きこまれていった。
バックスクリーンに表示された球速は159km。真っ向勝負の結果は、鬼塚剛の完敗だった。
この日最速の剛速球にスタジアムが熱狂するなか、バッターボックスにむかう舞と退く剛がすれちがう。
「すまない。なにもできなかった……」
「大丈夫。わたしが、なんとかする」
うつむいて歯を食いしばる兄に、妹は小さく言葉を返した。
バッターボックスに立った舞は、剛と同じように鋭い視線を松沢に送ったが、対する松沢も、真剣な表情で舞を見ていた。
松沢は、1回裏に対戦したときから、
なんの
最後の勝負では、強打者の剛をストレートで圧倒し、
舞への初球、松沢は通常なら決め球に使う低めのスプリットを投げこみ、彼女から空振りでストライクをうばう。
さらに二球目には、左バッターの内角を鋭くえぐるスライダーで舞にファールを打たせ、たった二球で彼女を2ストライクに追いこんだ。
しかし、ここから舞は、超人的な反射神経と集中力で松沢に食い下がる。
三球目に松沢が投じたのは、
見逃し三振を狙うこの鋭い変化球に、彼女はバランスを崩しながらも反応し、ファールで逃げる。
さらに、四球目の縦に変化する高速スライダーも、しぶとくバットに当ててボールをファールゾーンに転がした。
それまでのストレート主体の投球とは異なる変化球のオンパレード。それを目の当たりにして、舞は一つの確信を抱いていた。
松沢君は、わたしを変化球だけで打ち取るつもりなんだな――。
「――なめやがって」
舞は歯を食いしばり、さらに鋭い眼光をマウンド上の松沢にむける。いつもの明るく優しい彼女の
五球目に松沢が投じたのは、それまでの高速の変化球ではなく、大きく縦に変化するスローカーブだった。
普通のバッターなら、完全にタイミングを狂わされる一球。しかし、舞が狙っていたのはまさにこのボールだった。
力では劣っていても、
「くそっ……」
舞の口から、悔しさのこもった言葉がもれる。
彼女の放った鋭い打球は、一塁側のスタンドへと吸いこまれていった。狙いは的中していたが、はやる気持ちが打ち急ぎを招いていた。
舞の放った強烈なファールにスタジアムは
完全に裏をかいたはずのスローカーブを彼女は狙っていた。一歩まちがえれば、ノーヒットノーランはやぶられていた。
気持ちを切りかえた松沢が選んだのは、本気のストレートだった。
彼の右腕から放たれた剛速球は、何物にもふれることを許さずに一瞬でストライクゾーンを走り抜ける。
バックスクリーンに表示された球速は159km。舞のバットは虚しく空を切り、彼女は三振に倒れた。
「ごめん……」
すれちがいざま、舞は消え入りそうな声で虎徹に言葉をかける。彼女の瞳には悔し涙があふれていた。
松沢恒翔と鬼塚兄妹の対決を
バッターボックスに立った虎徹に放たれた初球は、155kmのストレートだった。火の玉のような剛速球に彼は反応すらできない。
甲子園にいくだなんて最初から無理な話だったんだ。中学時代からわかっていたことじゃないか……。
「あと一人! あと一人!」
松沢の投球に酔いしれた観客の一部から声が上がる。そして、それは一気にひろまり、大きなコールとなって神泉スタジアムにひびき渡った。
その真ん中で、虎徹は一人立ちすくんでいた。
歓声に後押しされた松沢が二球目に選んだのは、フロントドアだった。虎徹は、自分の体にむかってくるボールをあわててよけたが、そんな彼をあざ笑うかのようにボールは大きく変化してストライクゾーンを通過していく。
「ストライク!」
審判のコールがひびいたとき、虎徹はバランスを失ってバッターボックスで
きっと坂井さんは、テレビの前で失望しているだろう。本当に最低だ。こんな情けない姿までさらして……。
力なく立ち上がった彼に、審判が声をかける。
「君、フットガードが外れかかっているよ」
虎徹が足元に目をむけると、左足につけた
「あと一球! あと一球!」
彼はバッターボックスをはなれ、しゃがんでフットガードをつけなおす。球場を包むコールは、あと一人からあと一球へと変わっていた。
しかし、虎徹の耳に入ってきたのは、まったく別の声だった。
「虎徹君、がんばれ」
こんなときにまで、俺は坂井さんの声を思いだして、それにすがるのか……。虎徹は、そんな自分を心の底から情けなく思った。
「虎徹君、がんばれ!」
もう一度、声が聞こえた。今度はもっとはっきりと、心の内側からではなく
「虎徹君! がんばれ!」
まさか……。虎徹はすぐさま顔を上げ、たった一人、レフトスタンドから自分に声援を送る人影に目をむける。
そこに、彼女はいた。
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