第33話 決戦前日

 7月16日。翌日に聖陵学舎戦をひかえた常陽学院野球部は、午前中から是川スポーツ科学センターに集まり、最後の調整をこなしていた。


 シミュレーターをつかった打撃練習では、先発が予想される二年生ピッチャー菊田きくたとエースピッチャー松沢への対策が入念にゅうねんに行われ、昼食後のミーティングでは明日の試合の作戦について最終確認がなされた。

 そして、明日の試合に疲れをのこさないために、午後2時に練習はすべて終了し解散となった。



 練習を終えた雅則、遼太郎、歩の三人は、そろって明の墓参りにおとずれていた。


「いよいよ明日だな」

 慣れた手つきで線香せんこうに火をつけながら、雅則が二人に声をかける。

「そうだね。総武大付属に勝ったと思ったら、もう明日だ。息つくひまもないよ」

「ああ。でも、そのほうが有利だ。こっちはかなり前から聖陵学舎を分析してきたけど、むこうは俺たちの分析なんて、この短期間じゃろくにできないだろうから」

 歩の言葉を遼太郎がつなぎ、二人は雅則から線香をうけとった。


 三人は明の墓前ぼぜんで手を合わせる。抜けるような青空のもと、あたりにはセミの鳴き声だけがひびいていた。


「思ったんだけど。兄貴は、自分の夢を俺にかなえて欲しかったわけじゃなかったのかもな……」

 線香のうすいけむり芳香ほうこうがただようなか、口をひらいたのは雅則だった。

 彼の脳裏のうりには、亡くなったその日、夢のなかに現れて優しく微笑ほほえんだ兄の姿がうかんでいた。


「たしかに。明先輩は、自分の夢を強引にたくすような人じゃないな」

「僕もそう思う」

 遼太郎の言葉に歩もうなずく。

 自分の都合を相手に押しつけるようなことはせず、それとなく気をつかいながら静かに背中を押してくれる。そんな明の姿勢にかつて二人は救われていた。


「だよな。常陽学院に入学して野球部に入ってみろ。きっとおもしろいことが起こるぞ。それが、兄貴の伝えたかったことだと思うんだ」

「そのほうが明先輩らしい。きっとあっちでも、いまの状況を楽しみながら見てるんじゃないかな……」

 遼太郎が空を見上げ、雅則と歩もそれに続く。


「ああ、きっと楽しんでる。でも、兄貴のために始めたはずが、いまじゃ俺が夢中になってみんなと甲子園にいきたいと思ってるからな。すべてお見通しだったなら、やっぱり兄貴にはかなわないよ」

 肩をすくめて笑った雅則に、二人も笑顔を返す。


「明日は、明先輩にもっとおもしろいものを見せてあげようよ。みんなで聖陵学舎を倒してさ!」

 いつになく熱のこもった歩の言葉に、雅則と遼太郎も大きくうなずいた。


 静けさに包まれた墓地で、三人はもう一度空を見上げる。彼らに照りつける真夏の日差しは、高らかな笑顔のように明るく力強かった。



「是川さん。ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてもらえないかな?」

 ミーティング終了後、荷物をまとめていた唯に声をかけたのは大吉だった。

「ああ、いいけど。どうかしたか?」

 軽く返事をしながら彼女が振りむく。


「もう1時間。いや30分でいいんだ。シミュレーターで打撃練習をさせてもらえないかな? 明日のために、もう一度だけ確認したいんだ」

「まあ、できなくはないけど。今日は休んでおけよ。これでケガでもしたら元も子もないぞ」

 唯は反対したが、彼女が白といえば黒いものでも白という大吉が、今日はめずらしく食い下がる。


「そこをなんとかお願いしたいんだ! 30分、いや20分でもいいから!」

「唯ちゃん。わたしも少し練習したいんだけど、ダメかな?」

 必死に頭を下げる大吉の横から、舞が声をかける。

「唯様。できれば自分も参加したいのですが……」

 舞に続いて剛も顔をだし、大吉に援護射撃えんごしゃげきを送る。さすがの唯も、三人にたのまれては断りきれなかった。


「やれやれ……。わかったよ。すぐに準備する」

 観念かんねんした彼女は、しまったばかりのノートパソコンをカバンから取りだした。


 打撃練習場へむかう途中、ならんで歩く大吉を唯がまじまじと見つめる。

「しかし、こうして見ると、一年前と比べたら本当に別人だよな」

「是川さんにみっちりきたえてもらったからね。とくにウエストなんかは相当しぼられたよ。おかげで、それまで着ていたお気に入りの洋服たちがすべてブカブカになってしまってね。いまはタンスの奥で眠っているよ」

 大吉はわざとらしく困った顔をして見せたが、その口調はどこか得意気とくいげだ。


「昔からの友達は、みんなびっくりしてるでしょ?」

「うーん。どうだろうな……」

 舞からの質問に、大吉の言葉がわずかによどむ。


「情けない話なんだけど、父さんの会社が倒産してから、それまで友達だと思ってた人たちからの連絡がなくなってね。きっと彼らは、僕が野球を始めたことすら知らないと思うよ」

「ごめん。変なこと聞いちゃって……」

 申し訳なさそうに舞は口をつぐんだが、そんな彼女に大吉は笑顔をむける。


「気にしないでくれよ。あの頃の僕のふるまいからすれば当然の結果なんだから。彼らは僕ではなく、僕のお金に興味があっただけなんだ。金の切れ目がえんの切れ目。まさにその言葉どおりさ」

「そんな連中とつきあっても、ロクなことがないからな。結果的に縁が切れてよかっただろ?」

 唯の言葉に、大吉は大きくうなずく。


「そのとおりだよ。それにしても、人生ってわからないものだね。父さんの会社が倒産したときは途方とほうれたものだけど、それがなかったら僕は野球部には入っていなかったし、いまほど充実した日々も送れていなかっただろうからね」

 そこまで話した大吉は、ふと気がついて唯に問いかける。


「そういえば是川さん。ずっと聞きたかったんだけど、僕を野球部に勧誘したとき、どうして素質があると思ったんだい? たしか舞さんがどうとか……」

 彼女はその質問に答えず、舞に目配めくばせした。


「去年の夏休み前に、ちょっとゴタゴタしたでしょ? 大吉君の動きを止めたときにいろいろわかったんだよ。筋力の強さとか関節の柔らかさとかね」

「あれがきっかけだったのか!」

 舞からの種明たねあかしに大吉は心の底からおどろかされた。そして、そんな彼に剛が横から言葉をかける。


「ちなみに自分には、接触せっしょくした相手の身体能力を把握はあくする力はありません。ですから、あのとき抑えこんだのが舞ではなく自分だったら、大江君が野球部に誘われることはなかったでしょう。これもまた不思議なめぐり合わせですね」

 めずらしく饒舌じょうぜつな彼の言葉に耳をかたむけながら、大吉は感心していた。


「本当に不思議だね。でも、三人もふくめた野球部のメンバーに出会えた僕は本当にラッキーだ。みんなには感謝の言葉しかないよ」

「それじゃあ明日は、その感謝の気持ちを試合でハデに見せてくれよな!」

 大吉に発破をかけながら、唯はカギを差しこんで打撃練習場のドアをひらいた。


「もちろんだとも。明日は最高のショータイムをお見せするよ。是川さんが発掘した僕の才能が爆発したとき、誰もが最強と認める聖陵学舎と松沢恒翔は、予選でその姿を消すのさ!」

 自信たっぷりの言葉と共に、大吉はキビキビとした動作で練習の準備を始めた。



 練習を終えて学生寮にもどった恵一は、ベッドで横になりながら明日のピッチングの要点を整理していた。

「俺が打たれなきゃ、明日はなんとかなるはずだ……」

 ひとり呟いた彼の手元で、スマホが着信を知らせる。相手は実家の母だった。


「もしもし、恵一?」

「ああ。どうかした?」

「明日の試合、弥生やよい真智まちもつれて応援にいきたいんだけど、会場は神泉スタジアムの三塁側であってたよね?」

 母からの意外な言葉に、恵一はベッドから体を起こしてスマホを持ちなおす。


「あってるけど、母さん明日も仕事だろ?」

「それがね、弥生と真智がどうしても応援にいきたい。っていうもんだから、店長さんに相談してみたんだよ。そしたら特別に休みをもらえてね」

「そりゃよかった。そんなことより、弥生と真智が応援にいきたがってるって? それって、俺の応援よりも東京観光が目当てだろ?」

 都心に位置する神泉スタジアムの周辺には、恵一の二人の妹が喜びそうな観光スポットが宝石のようにちりばめられている。


「まあ、それもあるかもしれないね。ところで恵一。明日はすごい相手と試合するんだよね?」

「まあね。聖陵学舎。春の甲子園の優勝チームだよ。わざわざ応援に来てもらって悪いけど、明日はきっとボコボコに打ちこまれるだろうな」

 もちろんそんなつもりは欠片かけらもないが、恵一は冗談めかして口にする。


「それじゃあ母さんも、全力で応援しなきゃね。恵一、がんばってね。それと、ケガだけはしないようにね」

「わかったよ。母さんも来るときは気をつけてな。東京は人も車も多いから。それと弥生と真智からは、くれぐれも目をはなさないでくれよ。はしゃいで迷子にでもなったら大変だ」


 通話を終えた恵一は、再びベッドに体をあずける。

「明日は絶対に負けられねえな……」

 彼はもう一度、スマホに落としこんだ聖陵学舎のデータを確認し始めた。



 練習後、是川スポーツ科学センターのゲートを出た虎徹は、晴人とならんで最寄もよりの駅へむかっていた。


「いよいよ明日は正念場しょうねんばだね」

 いつもの明るい表情に、少しだけ緊張をうかべながら晴人が切りだす。

「うん。いよいよだ」

 虎徹の表情も、自然と引き締まる。


「それにしても、一年前の野球部の状態と比べたら、いまはまるで夢みたいだよ。こてっちゃんが入部してくれて、さらに是川さんを誘ってくれたおかげだね。本当に感謝してる」

「そんな大げさな。ここまで来れたのは、みんなでがんばってきたからだって」

 律義りちぎに頭を下げた晴人に、虎徹はかぶりを振って答える。


 そういえば、前にもこんなやり取りがあったな……。彼が思いだしたのは、晴人が野球部に入った理由を聞かせてくれたときのことだった。

「晴人は見つけられたのか? その、心の底からやりたいことを……。それと、自分自身を変えられたと思う?」

 虎徹は、思いうかんだ質問を反射的に言葉にしていた。


「おぼえててくれたんだ」

 晴人の内心にかかわるデリケートな問題を考えなしに聞いてしまった。虎徹はすぐに後悔したが、晴人にそれを気にする様子はない。


「人生をかけてやりたいことは、まだ見つかってないよ。それに、自分が変われたかどうかも正直わからない。でも、そんなものはどうだっていい。みんなと甲子園にいきたい。それがいまの僕のすべてで、そんな自分も悪くないと思ってる」

 静かな口調ながら、晴人ははっきりと胸の内を語った。そしてすぐに、照れ笑いをうかべる。


「ごめん。ちょっとカッコつけた」

 つられて虎徹も笑ったが、正直に話してくれた晴人に感謝していた。そして同時に決心した。晴人には正直に話しておこう。


「去年の夏、俺が野球部に入った理由なんだけどさ……」

 一呼吸ひとこきゅうおいて話を続ける。

「テレビで甲子園を見て熱い気持ちを思いだしたから、っていうのはただのごまかしなんだ。本当は、ある人のためにもう一度野球を始めたんだ」

 本心を語りだした虎徹に、晴人は真剣なまなざしをむける。


「ちょうど去年の夏休み前に仲良くなったんだけど、その人はいろいろ大変な境遇きょうぐうにあってさ。俺は、そんな彼女の力になりたくて、甲子園をめざすことにしたんだ」

「それで、あんな時期に入部したんだね」

 晴人は納得したようにうなずく。しかし、彼はさらにこの話題を掘り下げるような無粋ぶすいなまねはせず、明るい調子で虎徹に言葉をかけた。


「そんな事情があるなら、明日はますます負けられないね! 僕も全力でがんばらせてもらうよ。こてっちゃんの恋を実らせるためにもね」

「話が飛躍ひやくしてるよ……」

 虎徹は照れながらツッコミを入れたが、晴人の気持ちをありがたく思った。



 晴人と別れた後、虎徹は美雪を見舞いに山の手総合病院をおとずれていた。


「ごめんね。明日は日曜日なのに、応援にいけなくて……」

 それが美雪の第一声だいいっせいだった。梅雨明けから検査の数値が悪化していた彼女には、担当医から応援の許可は下りなかった。


「いやいや、気にしないでよ。本番は甲子園だから。それに、明日の予想最高気温は38度だってさ。病気じゃなくたって危険な暑さだよ」

 ゴールデンウイーク明けから始まった例年にない気温上昇は、夏になっても収まるどころかその勢いを増している。異常気象は美雪の体にも悪影響をおよぼしていた。


「甲子園までには必ずよくなるから……」

 申し訳なさそうにうつむいた美雪を元気づけるために、虎徹はやや声のトーンを上げて語りかける。

「そうだね。甲子園は去年改装されて空調も万全だから、それまでにはよくなってもらわないと!」

 虎徹にはげまされ、美雪の表情にも明るさがもどる。二人の話題は、明日の試合へと移っていった。


「明日って、松沢君が先発する可能性は低いよね。三日前に投げたばかりだし。二年生ピッチャーの菊田君あたりかな、登板するのは……」

「これまでの実績から考えると、そうだと思う」


「松沢君と比べたら格下だけど、菊田君も好投手だよね。とくに最近は、急速に力をのばしてる……」

「たしかに難しい相手だよ。けど、変化球を投げるときにいくつかクセがあるんだ。そこをうまく突けば可能性は十分あると思う」

 虎徹の言葉がわずかに熱を帯びる。そこには、自分勝手な思いこみではなくデータにもとづいた確信がこめられていた。


「舞ちゃんと鬼塚君の実力も、聖陵学舎には気づかれてないよね?」

「大丈夫だと思う。警戒されるとしても足の速さぐらいじゃないかな」

 常陽学院が、聖陵学舎相手にジャイアントキリングを演じる。そのために必要な条件はそろっていた。


「もちろん、こっちの攻撃が空回りしてリードできなかったら話にならないし、相手の強力打線が爆発したら一巻の終わりだけど……」

 厳しい戦いになるのはまちがいない。しかし、確実に希望はあった。

「すべてがかみ合えば、絶対にチャンスはあるよ!」

 虎徹の力強い言葉に、美雪も大きくうなずいた。



 それからしばらく二人は明日の試合の展望について語り合ったが、虎徹の帰り際、美雪が口にしたのは意外なニュースだった。


「そういえば、虎徹君もチームのみんなも体調は大丈夫? 最近インフルエンザが流行してるみたいなんだけど……」

「インフルエンザ? この時期に?」

 季節外れの病名を虎徹は思わず聞き返す。


「そう。夏場なのにめずらしいよね。でも、このところ流行はやりだしたみたいで、この病院でも注意喚起ちゅういかんきされてるんだよ。それに新聞にも……」

 美雪は新聞を取りだし、スポーツらんの記事を指でなぞる。


「タイタンズで集団感染。エースの小石川こいしかわもインフルエンザで離脱りだつ……。本当だ。けっこう大事おおごとになってるんだね」

 記事を読み上げた虎徹に、美雪が問いかける。


「この小石川選手って、来年はメジャーリーグに挑戦するんだよね?」

「うん。ほぼ確定らしいね。そんな大物でもインフルエンザには勝てないんだから、俺も気をつけないと。とりあえず帰ったら手洗いうがいはしておくよ」

 虎徹は美雪に、大げさに手を洗うそぶりをして見せた。


 しかし、このときの二人はよしもなかった。この季節外れの感染症が、翌日に降りかかる残酷で非情な現実のきっかけだったことを。

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