第9話 決意
数年前に建設された山の手総合病院の
しかし、空間をただよう消毒液のにおいが、この建物がはたす役割をそれとなく主張していた。
虎徹は、夏美とならんで白く
夏美が軽くノックすると、ドアのむこうから応答する声が聞こえた。夏美にうながされ病室に入った虎徹を、うすいピンク色のパジャマに身を包んだ美雪が迎えた。
「ありがとう。わざわざお見舞いに来てくれて……」
「か、体のほうは大丈夫?」
「う、うん。ごめん。迷惑かけちゃって」
「いや、気にしないでよ……」
楽しくすごした時間がリセットされたかのように、二人の間をぎこちない空気が流れる。そんな様子を横目で見つつ、夏美は荷物をおろしてドアへとむかった。
「先生にご
彼女はそのまま病室を出ていった。
「よかったらそのイスつかってよ」
美雪に
「外は暑かった?」
「うん。今日もかなり暑いよ。今年の夏は、ずっとこんな感じだね」
窓の外には、抜けるような夏の青空がひろがっていた。輝く太陽と照りつける日差し。あふれんばかりの生命力が外の世界には満ちている。
その一方で、ガラス一枚で
「この前は本当にごめん。わたしからお願いしたのに」
美雪が再び謝罪する。虎徹には、彼女がいつもよりも小さく見えた。
「気にしないでよ。それよりも早くよくなってもらわないと! いまは一人で勉強してるけど、とくに数学なんてわからないことだらけで、泣きそうだよ」
美雪を元気づけるために虎徹がわざとおどけた口調で話すと、彼女の表情にもいくぶん明るさがもどる。
その様子を見て、虎徹はすかさず野球の話題をふった。
「病気でそれどころじゃなかったと思うけど、甲子園の結果は知ってる? 聖陵学舎はベスト4まで勝ち進んだんだけど」
「うん。最後のほうは少し見てた。もし松沢君が登板してたら、聖陵学舎は準決勝も勝てたんじゃないかな」
「俺もそう思う。あいつ、ストレートも変化球もさらにレベルアップしてたよ」
「そうだね。それでも肩の休養を優先させるんだから、鈴木君が話してくれたように、松沢君は本当にメジャーリーグにしか興味がないんだね」
「まったく
肩をすくめた虎徹を見て、美雪も
それからしばらく二人は
彼女には、どうしても虎徹に伝えておきたいことがあった。
「鈴木君。今回の入院のことだけど、悪いのは全部わたしだから。鈴木君は、少しも悪くないから……」
訴えかけるような瞳で虎徹を見つめながら、美雪は話を続ける。
「わたしって、いつもこうだから。夏場は体がもたないし、それ以外でも……」
それから美雪は、ポツリポツリと過去のできごとを語り始めた。小学校の演劇や中学校の修学旅行。いつだって最後は病気が彼女の邪魔をしていた。
「なにかするたびに、いろんな人に迷惑かけてがっかりさせて……」
悲痛な思いが言葉になって、美雪の
「わたしの病気のせいでお母さんは出ていって、お父さんも仕事に
彼女の両親の不在は、虎徹も
「お姉ちゃんにはずっと迷惑かけっぱなしだし、こんどは鈴木君にまで……」
うつむく美雪に、虎徹が励ましの言葉をかける。
「迷惑だなんて俺は思ってない。夏美さんだってきっとそうだよ……」
「ありがとう。でもやっぱり負担にはなるよ。これからも絶対に……。持って生まれたものって本当に大きいよ。嫌になっちゃうね」
虎徹の視線の先で、美雪は力なく笑った。こんなにも痛々しく弱々しい笑顔を、彼は見たことがなかった。
次の瞬間、美雪の
「あれ? なんで……」
美雪はあわてて目元をぬぐったが、涙はさらに
「ご、ごめん。大丈夫だから……」
泣き顔を見せまいと、美雪は虎徹から顔をそらす。いたたまれなくなった虎徹も、彼女から視線を外してうつむく。
二人きりの病室には、美雪の
俺になにができるだろうか……。泣き
野球をあきらめ勉強からも逃げていた自分がなにかしたところで、彼女の心を動かすことはできない気がした。
それでも虎徹は考える。俺になにができるだろうか――。
――それは突然のひらめきだった。
いまの俺にできることがないなら、そんな自分を変えればいい。夢をあきらめなかった自分になればいい。
ただの思いつきだろ? そんなの無理に決まってる。一瞬だけ、現実が心の奥からよびかけた。しかし、そんな弱い気持ちを強い確信が振りはらう。
できるかできないかじゃない。やるんだ! 虎徹の心に迷いはなかった。
「坂井さん。来年の夏までには、絶対に元気になってくれ!」
あまりに
「――俺が甲子園に連れていくから」
「……こ、甲子園?」
理解が追いつかない美雪の瞳には、とまどいとおどろきの色がうかんでいた。そんな彼女に、虎徹ははっきりと決意を伝える。
「そう。甲子園。俺はいまから野球部に入って、来年の夏に坂井さんを甲子園に連れていく。だからそれまでに、必ず元気になってほしいんだ!」
「でも、鈴木君。野球はもうやらないって……」
虎徹の
「もう一度、挑戦する」
虎徹の真剣なまなざしと言葉を受けた美雪は、彼の瞳を見つめて問いかける。
「本気、なの?」
「本気だよ」
虎徹は瞳をそらさない。
「でも、部員が足りないよ? それに、部員がそろったとしても、東東京大会は激戦区だし、聖陵学舎と松沢君だっているんだよ?」
「わかってる」
厳しい現実をならべられても、虎徹の決意は揺るがない。
そんなの絶対に無理だよ。美雪の心のなかで現実が冷たくよびかけた。しかし、その声を無視して、彼女は自分自身に問いかける。わたしは、どうしたいの?
答えは決まっていた。どんなに困難な道のりでも、自分を勇気づけるために立ち上がってくれた虎徹と一緒に、美雪は前に進みたかった。
「わかった。元気になるよ。来年の夏までには、絶対に」
ありったけの気持ちをこめて、美雪は決意を口にした。
「一緒にいこう。甲子園に」
かさなり合った二人の感情は、
「ちょっと、電話してもいいかな?」
虎徹はポケットからスマホを取りだし美雪に問いかける。
「うん。いいけど」
うなずく彼女を横目に、虎徹が通話先に選んだのは晴人だった。
「こてっちゃん。久しぶりだね。どうかした?」
いつもの明るい調子で応答した彼に、虎徹はすぐさま本題を切りだす。
「いきなりで悪いんだけど、野球部に入りたいんだ。いつから入部できる?」
「……え! 入部してくれるの? マジで? こてっちゃん! マジで?」
耳をつんざくような晴人の大声がひびき、そのあまりのうるささに虎徹は顔をしかめてスマホを遠ざける。その様子を見て美雪がクスクスと笑う。
「こてっちゃん! 聞こえてる? こてっちゃーん!」
「聞こえてるよ。たのむから少し落ち着いてくれよ!」
興奮気味の晴人を虎徹はいさめたが、彼のテンションは高いままだ。
「いったいどうしたの? あんだけ嫌がってたのに、なんかあったの?」
目の前にいる美雪のためだなんて、口が
「そんなことより、次の練習はいつ?」
「今日も2時から5時まで学校のグラウンドで練習だよ。ぜひ来てよ!」
虎徹が時計を確認すると、時刻は午後1時をすぎたところだった。いまから帰って準備をすれば練習に合流できる。
けれど、見舞いにきたばかりなのに
「行ってきなよ」
虎徹の気持ちを
「じゃあ、ちょっといってくるよ」
「うん。がんばって」
イスから立ち上がった虎徹を見つめながら、美雪はさらに言葉に力をこめる。
「わたしも、がんばるから」
病室を出た虎徹は、白く無機質な廊下を早歩きで進んでいく。そしてエントランスにたどり着いた彼は、自動ドアがひらいた瞬間、全速力で駆けだした。
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