第1話 きっかけ

 窓の外をいつもどおりの景色が流れていく。コンビニ、ラーメン屋、しばらくするとガソリンスタンド。橋をわたってすぐの信号はいつも赤だ。

 高校に入学したばかり頃は新鮮な風景だったのに、いまはすべてがありきたりだ。瑞々みずみずしさは、いつ失われたのだろう。


 バスに揺られながら、そんなことをボンヤリと考えていた鈴木虎徹すずきこてつを、車内アナウンスが現実に引きもどす。

「次は、やま一丁目いっちょうめ。山の手一丁目」


 ヤバい。今日はここでおりるんだった。彼があわてて降車ボタンを押すと、車内に機械的な音声がひびいた。

「次、停まります」



 虎徹が初めておりた山の手一丁目は、都内でも有数の高級住宅街だった。彼のほおを涼しくおだやかな空気が流れていく。

「こういう場所は空気も高級なのか? ってそんなわけないか」

 小声で自分にツッコミをいれつつ、虎徹はポケットからスマホを取りだす。地図アプリに目的地を入力して検索。しかし、その結果に彼はおどろかされた。


「なんだこれ。目印になる店がない……」

 スマホの画面に表示されたのは、広大な邸宅に囲まれたせまい路地だけだった。コンビニやファストフード店といったどの町にもあるはずの目印が、この場所には存在していない。

 方向音痴ほうこうおんちな虎徹はとまどったが、このまま立ち止まるわけにもいかず、とりあえず歩きだした。


 そんな彼を迎えいれたのは、ここが人にまみれた東京であることを忘れさせるような静かな光景だった。すれちがう人影もまばらな路地は、その両側を立派な塀や美しく手入れされた生垣いけがきにかこまれている。


「どの家も大きな庭にたくさんの緑があるんだろうな。空気がきれいなのは、気のせいじゃなかった……」

 虎徹の口から思わず言葉がもれる。初めておりたバス停の先にひろがっていた別世界に、彼はただただ感心していた。


 しかし、そうしてばかりもいられない。本来の目的をはたすため、虎徹は地図アプリとにらめっこをしながら路地を進んでいった。


 ちょくちょく道に迷いながらも、彼は思ったよりスムーズに目的地にたどり着くことができた。目の前には黒い木造の門がそびえ立ち、白木の表札には「坂井」の二文字が黒く刻まれている。

「おそらく、この家だ」

 虎徹はもう一度アプリを確認してうなずく。ここは、坂井美雪さかいみゆきの自宅でまちがいなかった。



 坂井美雪。常陽学院じょうようがくいんの二年生に、この名前を知らない生徒はいない。


 全国でもトップクラスの進学実績を誇るこの高校において、彼女は入学以来、ほとんどすべてのテストで学年一位に輝いていた。

 さらに、容姿ようしの美しさでも有名で、何人もの男子生徒が彼女に告白してはあえなく撃沈げきちんしていった。

 そんな美雪の自宅に書類を届ける。それが虎徹の目的だった。



「鈴木君。ちょっといいかな?」

 放課後に彼をよびとめたのは、担任の木内沙也加きうちさやかだった。

「鈴木君、坂井さんとバスの路線が同じだよね? 帰るついでに、たまったプリントを彼女の家に届けてほしいんだけど、お願いできないかな……」


 6月の中旬に体調を崩した美雪は、7月になっても学校を休んだままだった。

 幼い頃から重い持病を抱えているらしい。そんな噂を、虎徹は教室で何度か耳にしことがあった。


 クラスメイトとはいえ、ろくに話したこともない女の子の家にいくのは、気まずいし面倒くさい。それが虎徹の本音だった。

 しかし、担任の頼みを断ろうとしたそのとき、始業式後のホームルームでの光景が彼の頭をよぎる。


「鈴木虎徹です。よろしくお願いします」

 自己紹介で、虎徹が自分の名前を口にした瞬間、美雪はふりむいて、おどろいたような表情で彼を見ていた。

 それはほんの一瞬のできごとだったが、虎徹の心に鮮烈な印象をのこしていた。


「鈴木君、どうかした? ボーっとしてるけど」

 虎徹の心を見透かすかのように、沙也加が小さな笑みをうかべて声をかける。彼女はかんするどく、それが気配りや心づかいといった形で表にでているため生徒からの人気は高い。


「い、いえ。なんでもありません。大丈夫です!」

 あわてて返答した虎徹に沙也加がたたみかける。

「よかった。それじゃ、お願いね」

 そういう意味の大丈夫じゃないんですが……。とっさに弁解べんかいしようとした虎徹だったが、自己紹介のときに美雪がうかべた表情への好奇心がそれを押しとどめる。

「わかりました」

 受け取った茶封筒をカバンにしまい、彼は昇降口へとむかっていった。



 虎徹の背中を見送る沙也加も、自己紹介のときの光景を思いだしていた。


 入学以来、誰にも心をひらかず、感情を表にだすこともなかった美雪。そんな彼女がふいに虎徹にむけた視線を、沙也加は見のがさなかった。そして、そこになにかある気がした。


「なにかのきっかけになればいいけど……」

 彼女は祈るように、小さくつぶやいた。

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