第2話 笑顔

 坂井家の門に備えつけられたインターホンを押す前に、虎徹こてつはあらかじめ考えておいたセリフを小さく口にする。


「常陽学院の鈴木虎徹と申します。今日は、担任の木内先生の依頼で美雪さんに書類を届けにうかがいました。……こんな感じかな」

 そして、リラックスするために深呼吸したが、この時点で少し前に抱いた好奇心は彼のなかから消え去っていた。


「自己紹介のとき、なんで俺のこと見てたの?」

 冷静に考えれば、そんなバカげたことを聞けるわけがなかった。


 自意識過剰にもほどがある。あの一瞬のできごともきっと気のせいだ。ちょっとした好奇心から担任の頼みを聞いてしまったことを、虎徹は後悔していた。

 書類をわたしてさっさと帰ろう。彼はカバンから茶封筒を取りだし、目の前のインターホンを押した。


「はい! 坂井です!」

 インターホンから聞こえてきたのは、若い女性の明るい声だった。

 こんな立派な家に住んでいるなら、応答するのはおしとやかなお母さまか家政婦さんだろう。勝手にそう思いこんでいた虎徹は、不意をつかれて混乱する。


「僕は、いや、ワタクシは……。ええっと、しょ、書類をたのまれまして、あ、鈴木です。常陽、学院の……」

 ついさっき確認したはずのセリフが、口元でバラバラに組みかえられながらインターホンに吸いこまれていった。

 やってしまった! これじゃただの不審者だ。虎徹はさらに混乱したが、聞こえてきたのは意外な言葉だった。


「鈴木君でしょ? わざわざありがとね。ちょっと待ってて!」

 声の主に、虎徹を警戒する様子はなかった。


 今度はちゃんとしないと。まもなくひらく大きな門を前にして、虎徹はハンカチで汗をぬぐいつつ気持ちを落ち着かせる。

 しかし、またしても彼は不意をつかれる。勢いよくひらいたのは、門の横にある小さなくぐり戸だった。


「お待たせしました!」

 姿を見せたのは明るい髪色のショートカットの女性だった。雰囲気こそ正反対だが、整った顔立ちと涼し気な目元が坂井美雪によくにている。


「はじめまして。美雪の姉の夏美なつみです。こんな暑い日にありがとね。立ち話もなんだから上がっていきなよ!」

「い、いや。ここで結構けっこうですから」

「いいからいいから。遠慮えんりょしないで!」


 強引に腕をつかまれた虎徹は、ひきずりこまれるように坂井家の敷地しきちに入ってしまったが、そのあとも夏美の猛攻は止まらない。


「あ、あの、坂井さんのお姉さん。本当にここで結構ですから」

「夏美でいいよ!」

「え? えっと夏美さん。その、急にお邪魔じゃましたらご迷惑めいわくじゃ……」

「大丈夫。木内先生から連絡もらって、準備してあるから!」

 虎徹は玄関に入ってしまった。


「あの、書類をわたすだけですから」

「お茶ぐらい飲んで休んでいきなよ。今日も暑いんだし、帰りに熱中症で倒れたら大変でしょ?」

 虎徹は客間きゃくまにとおされてしまった。


「じゃあ、美雪をよんでくるから!」

「いやいや! 美雪さん、体調を崩してますよね?」

「大丈夫。ここのところ落ち着いてるから。ちょっと待っててね!」

 虎徹は美雪との対面をセッティングされてしまった。



 とんでもないことになった。まさか家に上がるなんて……。坂井家の客間に取りのこされた虎徹は、座布団ざぶとんに正座しながら頭を悩ませていた。

 いったいなにを話せばいいのか。そもそも会話が成立するのか。考えれば考えるほど彼の心のなかを暗雲が立ちこめる。


 美雪は、クラスでは誰とかかわろうとせず、普段から口数がとても少なかった。対する虎徹も話し上手とはいえない。そんな二人が対面すれば、すぐに会話が途切とぎれて気まずい空気になるのは明らかだ。

 しかし、そんな危機的状況にも希望はのこされていた。美雪の姉、夏美の存在だ。彼女が明るく会話をつなげてくれれば、なんとかなるかもしれない。


 虎徹は、頭のなかで必死に会話のシミュレーションをくり返していたが、その背後で静かにふすまがひらく。彼がふりむくと、そこには細身のデニムと白いシャツに身を包んだ美雪が立っていた。


「悪いね。こんな暑い日に来てもらって」

「いや、こっちこそ家にまでお邪魔しちゃって。本当にごめん」

「いいよ。気にしないで」

 すでに会話の雲行きがあやしい。

 いつもとはちがい、肩までのびた髪をポニーテールにまとめている美雪。しかし、他人をよせつけない雰囲気はいつもと変わらない。


 客間に重い空気が流れ始める。しかしそれを打ちやぶるように、虎徹の救世主、夏美が姿を現した。


「お待たせしました。遠慮しないでゆっくりしてってね!」

 彼女は、冷たいお茶の入ったグラスと水羊羹みずようかんがのった小皿を、テキパキとテーブルにならべていく。

 助かった……。虎徹はひそかに安堵あんどしたが、あることに気づいた。なぜだろう? お茶と水羊羹が二人分しかない……。


「それじゃ、あとは二人でごゆっくり!」

 夏美はまたたに客間から姿を消した。虎徹がすがろうとした希望の糸は、一瞬でぷつりと切れてしまった。


「体の調子はどう?」

「大丈夫」

「最近、暑いね」

「そうだね」

 あんじょう、二人の会話は続かない。

 虎徹は頭をフル回転させるが、気のいた話題はうかばない。ほとんど話したこともない美雪が相手なら、それも仕方しかたのないことだった。


 それでも虎徹はあきらめずに考える。彼女はどんな人間だ? 特徴とくちょうはなんだ? その瞬間、ひとつのひらめきがあった。

 そうだ! 彼女の成績は、いつだって学年トップクラスじゃないか!


 会話の糸口を発見したことで、虎徹の心はいくぶん軽くなった。彼女の成績をほめながら学年最下位レベルの自分の成績をネタにすれば、少しは話も続くはず。

 彼は自虐じぎゃくネタで笑いを取るのは嫌だったが、そんなワガママをいっている余裕はない。重苦しい空気を変えるために虎徹はすぐさま動いた。


「この前、実力テストの結果が発表されてたんだけど、坂井さん今回も学年トップだったよ。本当にいつもすごいね」

「ありがとう」

 美雪の反応はうすかった。短い感謝の言葉にも喜びはまったく感じられない。


「俺の成績なんてひどいもんでさ。まあ、いつものことなんだけどね。もとがバカだから。常陽学院に合格できたのもマグレだったんだろうなー」

「そうなんだ」

 彼女は、虎徹の自虐ネタにもまったく関心をしめさない。成績の話でなんとかしようという彼の作戦は、すでに失敗したも同然だった。


 外からセミの鳴き声が聞こえてくる。いっそのことセミのモノマネでもしてみようか。そこの柱に飛びうつってミーン、ミーン……。

 いやいや、絶対にダメだ! 虎徹は、頭にうかんだ破滅的はめつてきなアイデアを急いでかき消した。


 お茶でも飲んでとりあえず落ち着こう。そう考えた虎徹は、テーブルの上のグラスに手をのばす。

「い、いただいても、いいかな?」

「どうぞ」

 手に取ったお茶を口にした瞬間、のどが砂漠のようにカラカラにかわいていたことに彼は気づいた。


 ついさっきまで炎天下を歩きまわり、目的地にたどり着いたと思ったら夏美に翻弄ほんろうされ、いまは美雪との会話をつなげるために緊張しながら必死に頭をはたらかせている。

 そんな状況で、体が水分を欲しがるのは当然のことだった。


「ぷはー!」

 一気にお茶を飲みほした虎徹は、思わずビールのコマーシャルのような歓声を上げてしまった。

「おいしそうに飲むね」

 美雪から指摘してきされ、虎徹は恥ずかしさのあまり赤面せきめんする。

「ご、ごめん。の、のどがかわいてて、つい……」

 なにやってんだバカ野郎! 心のなかでさけびながら、彼は自分の下品なふるまいをやんだ。


 しかし、そんな虎徹を見ながら、美雪は口元に手をあてて小さく笑っていた。


「お茶のおかわり持ってくるね」

 彼女は静かに立ち上がり客間を出ていった。


「あんなふうに笑うんだ……」

 美雪が初めて見せた笑顔。その余韻がのこるなか、虎徹は小さくつぶやいた。

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