第35話 想定外の事態

 午前10時。決戦のまくは上がった。


 1回表。一番の新田にったがセンター前ヒット、二番の岩崎いわさきもレフト前ヒットで出塁した聖陵学舎は、いきなりノーアウト一塁二塁のチャンスを迎える。

 しかし、恵一と雅則のバッテリーは後続のバッターをきっちり抑えこみ、この回を無失点で切り抜けた。

 ピンチをしのいだ常陽学院の士気しきは上がり、ここから反撃が始まる、はずだった。


 想定外の事態が起きたのは、1回裏が始まってすぐのことだった。


 観衆かんしゅうの注目が集まるなか、松沢恒翔がマウンド上でゆっくりと振りかぶる。その初球は、衝撃的だった。 

 バックスクリーンに表示された球速は156km。鮮烈せんれつなストレートが、またたにストライクゾーンを駆け抜けていた。


 シミュレーターよりも速い……。バッターボックスに立つ剛の表情がこおりつく。


 神泉スタジアム全体がどよめくなか、さらに松沢の右腕が振り抜かれる。ボールは剛の強烈なスイングをものともせず、キャッチャーミットに収まった。

 157km。規格外きかくがいの球速にスタンドのあちこちから歓声が上がる。剛のスイングスピードも超高校級だったが、球場内でもごく一握ひとにぎりの者しかそれに気づかない。


 想定外の事態じたいだが、とにかく塁にでなければ。剛はバットをかまえ、松沢に鋭い視線を送る。

 そんな彼に投じられたのは、ストライクゾーンをインコースに大きく外れ、体にむかってくるボールだった。


 わざとぶつかって、死球デッドボールで出塁する。剛はすぐさま判断したが、そんな彼をあざ笑うかのように、ボールは大きく変化してホームベースの上を通過する。

 判定はストライク。剛は見逃しの三振に倒れた。


 リアルタイムで配信される公式映像を確認しながら、唯は驚愕きょうがくしていた。

「なんだ、いまのフロントドア。こんなボール見たことない……」

 ノートパソコンのディスプレイに映しだされたのは、まるで生き物のようにインコースからストライクゾーンへと強烈に変化するスライダーだった。

 そしてそれは、彼女のデータにはない新しい球種だった。


「松沢は本気で投げてきている。シミュレーター以上のボールを」

 すれちがいざまに声をかけた剛にうなずいて、舞が左バッターボックスにむかう。

 彼女はちらりとベンチの様子をうかがったが、そこでノートパソコンを見つめる唯の表情は青ざめていた。


 あんな唯ちゃん初めて見るな。わたしがなんとかしないと。決意を胸にバットをかまえたを舞に投げこまれたのは、154kmのストレートだった。


「ストライク!」

 審判の声がスタジアムにひびき再び観客席から歓声が上がる。しかし、それらがまったく耳に入らないほど、舞は衝撃をうけていた。

 春の甲子園のときよりもレベルアップしてる……。兄の言葉どおりいやそれ以上に、松沢の投げたボールは速く鋭く強かった。


 続く二球目のスプリットに舞のバットが空を切る。反射神経なら誰にも負けない。そう自負じふする彼女ですら、その球速と落差に反応できない。

 このままだと、試合を一気に持っていかれる。危機感を抱いた舞はけにでた。


 三球目、彼女は2ストライクからセーフティーバントを敢行かんこうした。

 打球は三塁線ギリギリを力なく転がり、意表をつかれた聖陵学舎のサード川木かわきがその処理をあやまる。


 彼がボールをつかみ直してファーストに送ったとき、舞はすでに一塁ベースを走り抜けていた。彼女の賭けは成功し、相手のエラーにより常陽学院に初めてのランナーが生まれた。


 ネクストバッターズサークルで松沢の投球を見つめていた虎徹は、あることに気づいていた。あいつはさっきから、なにを見ているんだ?

 彼がバッターボックスにむかうときも、マウンド上の松沢はバックネット裏に視線を送っていた。それを追って、虎徹も観客席を見つめる。


 そこで彼が目にしたのは数人の外国人の集団だった。ある者はスピードガンや小型カメラをかまえ、またある者は手元の資料やノートパソコンに目をやりながら言葉を交わしている。

 あれがメジャーリーグのスカウトだとしたら……。虎徹の直感は考えれば考えるほど確信に変わっていく。

 松沢が初回から全力で投げている理由は、ほかに考えられなかった。


 スタミナをアピールするために、最低でも5回まではこのペースで投げてくる。そう考えた虎徹は、集中力を高めてバッターボックスに立つ。

 この先も厳しい状況が続くなら、ランナーが出たこの回になんとしてでも得点する必要があった。


 しかし、虎徹はすぐに残酷ざんこく非情ひじょうな現実を突きつけられる。松沢が投げたボールはそのすべてが別次元べつじげんのものだった。

 彼はボールにふれることすらできずに、たった三球でバッターボックスから退しりぞけられた。


 ベンチにもどった虎徹は、急いで唯のもとに駆けつける。

「メジャーリーグのスカウトだと?」

 報告をうけた唯は、すぐさま双眼鏡を手にしバックネット裏をのぞきこんだ。

 そこで彼女の目にまったのは、外国人集団のうちの数人がかぶっている黒いキャップだった。その前面には、白地でBとRのロゴがあしらわれている。


「あれは、ニューヨークブラックロックスの関係者か……」

 メジャーリーグの超名門球団であるニューヨークブラックロックスは、以前から松沢に強い関心を持っていると公言こうげんしていた。


「くそっ! よりによってなんで今日なんだ。松沢はアタシらなんか眼中がんちゅうにない。あいつは、バックネット裏のスカウトに真剣勝負をしかけてるんだ!」

 悔しさをうかべながら唯が放った言葉に、全員が大きなショックをうけた。


「ストライクスリー」

 審判の声がグラウンドにひびき、松沢の圧倒的なピッチングを目にした観客から、拍手と歓声が上がる。

 四番の大吉も三振に倒れ、常陽学院の1回裏の攻撃はあえなく終了した。



「松沢恒翔……。とんでもない逸材いつざいですね」

 神泉スタジアムのバックネット裏で、シルバーウルブズの若手スカウト初見達彦はつみたつひこが、隣にすわるベテランスカウト海老名拓郎えびなたくろうに言葉をかける。


「ええ、本当にすばらしい選手です。しかし、意外でしたね。これまでの傾向けいこうからすれば、今日は登板しないはずでしたが……」

「そうですよね。試合に出場するだけでもおどろきなのに、まさかの全力投球。なにかあったんですかね?」

 聖陵学舎の有力選手を視察におとずれていた二人にとっても、松沢の登板は想定外のできごとだった。


「海老名さん。ご無沙汰ぶさたしております」

 二人の背後から声をかけたのは、ブラックロックスのスカウト新藤育夫しんどういくおだった。海老名が振りむくと、新藤はサングラスをはずして深々と頭を下げる。


「おお、新藤君。こちらこそご無沙汰してます。活躍は耳にしてますよ」

「活躍だなんてとんでもない。毎日こき使われてるだけですよ」

 海老名は、新藤と笑顔で言葉を交わしながら、初見との間をとりもつ。


「こちらはブラックロックスの新藤育夫さん。わたしのかつての同僚なんです。彼は初見達彦君。うちの編成部門の若手で、データ分析を担当しています」

 紹介された二人は、挨拶あいさつを交わしつつ名刺めいしを交換した。


「日本には、いつもどったんですか?」

「五日前です。本当は、タイタンズの小石川を視察するつもりだったんですよ」

 海老名の質問に、とくに隠すことなく新藤は答える。


「タイタンズは、インフルエンザで大変なことになってますね。たしか小石川も発熱したとか……」

「そうなんですよ。それで予定が大幅に狂いまして、今日はここで松沢君をリサーチしているわけです。本当はサボって、日本でゆっくりしたかったんですけどね」

 新藤が肩をすくめて笑う。軽い雑談の後、三人はそれぞれの仕事にもどった。


「松沢君が本気で投げている理由は、ブラックロックスさんが視察に来ていたからだったんですね」

 納得した様子で、初見が問いかける。

「そうですね。おそらく彼らは、あらかじめ聖陵学舎に足を運んで松沢君とも面会しているはずです。それが今日の登板のきっかけでしょうね」


「なるほど……。聖陵学舎がベストメンバーなのも、彼に心置きなく投げてもらうためですかね?」

「それもありますが、ブラックロックスのスカウトに自分をアピールしようと燃えている選手もいるかもしれません。いずれにせよ、本気の聖陵学舎を視察できるのは貴重なことです」

 初見の質問に答えながら、海老名は静かに笑った。


「ところで、少し気になったことがあるので、先ほどの回の動画を、もう一度見せてもらえませんか?」

 今度は、海老名が初見に言葉をかける。

「わかりました。松沢君の投球を確認するんですね?」

「いいえ。ちがいます。気になったのは、別の選手です……」


 その瞬間、普段はおだやかな海老名の瞳が、鋭く光った。

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