第21話 データの裏側

 常陽学院野球部が、是川スポーツ科学センターを拠点にしたトレーニングを始めてから三か月がすぎた。


 唯が用意したメニューは、専任のコーチ陣によるハードな練習のほかにも、肉体強化のための食事指導や、最新のマシンを使った疲労回復など多岐たきにわたった。

 そして、それらを日々こなしていった野球部員の能力は着実にレベルアップしていたが、そのなかでも、ダイエット食品の宣伝につかえそうなレベルで劇的に変身したのが大吉だった。


 贅肉ぜいにくまみれのわがままボディは、筋骨隆々きんこつりゅうりゅうのたくましい肉体へと生まれ変わり、たるんでいた顔つきもいまは別人のように引き締まっている。

 変化したのは外見だけではない。彼は性格も明るく前向きになっており、かつての傲慢ごうまんさや嫉妬深さは見る影もなかった。


「外見も性格も、たった三か月でここまで変わるとは思わなかったな……」

 彼の急激な変化には、さすがの唯もおどろくばかりだったが、そんな彼女のもとに今日も大吉が参上する。


「是川さん。今日の練習メニューは走力トレーニングだったよね?」

 彼は、自分をここまで変えてくれた唯に忠誠心を抱くまでになっており、彼女のために自発的に雑用や連絡係をこなしていた。


「ああ。みんなへの確認と準備をたのむ」

「了解したよ。任せてくれたまえ!」

 唯から指示されると、大吉はキビキビとした動きで教室を出ていった。



 来年の夏までに、部員全員の打力を強豪校レベルに押し上げるのは不可能だ。そう考えていた唯は、その埋め合わせとして機動力の強化を重視しており、練習メニューには走力トレーニングが組みこまれていた。


 虎徹もその考えには賛成だったが、同時に疑問も抱いていた。走力の強化も、バッティングと同じように生まれつきのセンスが必要なのではないか。

「長距離ならともかく、短距離を速く走るのって努力でなんとかなるもんなの?」

 三か月前、是川スポーツ科学センターでのミーティングで、彼は唯に率直そっちょくな疑問をぶつけていた。


「それは僕も思った。短距離走って小学生の頃から速い人は速いし、遅い人は遅いよね。僕は昔から遅かったから、実感あるなあ……」

 虎徹の言葉に歩も同調したが、唯は動じない。むしろその質問を待っていたかのように、資料を手にしながら説明を始めた。


「まあ、二人の意見はもっともだ。でもな、科学は常に進歩しているのだよ」

 彼女が手元のノートパソコンを操作すると、スクリーンにデータが表示される。

「これは、メジャーリーグのあるチームのデータだ。ここに注目してくれ」

 唯は、手にしたレーザーポインターの赤い点を、盗塁のデータの上でクルクルとまわした。


「このチームの盗塁数が、二年前から飛躍的に増加しているのはわかるだろ?」

 データに注目しながら全員がうなずく。

「なぜ盗塁が急に増えたのか。答えは簡単。ランニング専門のトレーナーをこのチームがやとって、選手の走力強化に着手ちゃくしゅしたからだ」


「そういえば、ヨーロッパのサッカーチームでもその手のトレーナーがいるってのは聞いたことがある。トップアスリートの世界はそういう流れなのかな?」

 遼太郎が問いかけると、唯が満足そうに笑みをうかべる。


「そのとおり! 短距離走でもトレーニング次第でタイムは劇的に変化する。というのがいまの世界の常識なのさ。それに、足が速くなれば守備範囲もひろがる。いいことずくめだろ?」


「あの……」

 一同が感心するなか、自信なさげに手を上げたのは大吉だった。

「あの、是川さん。僕でも大丈夫なのかな。その、僕はこんな体型だし、走るのは昔から本当に苦手で……」


 「大丈夫だ。すぐにとはいかないが、三か月も続ければきっと大吉の走力は大きく向上する。それに走力だけじゃない。おまえはハードなトレーニングで、新しく生まれ変わるんだ。アタシを信じろ!」

 唯の予言どおり、いやそれ以上に、いまの大吉は三か月前とは別人になっていた。



 唯は、味方選手の強化だけでなく相手チームの研究にも力を入れていた。


 最新の映像分析システムを使って各校の有力選手のクセや弱点を洗いだし、過去の試合データから、チームごとの戦略や傾向を探りだす。

 これらの作業を、彼女は自らが組織した分析チームと共に日々こなしていた。


 しかし、最新鋭のデジタル技術を駆使くしする唯は、意外なことに虎徹に中学時代の経験や知識についてしばしば質問してきた。


「なあ、虎徹。総武大付属のエースピッチャーの小岩竜司こいわりゅうじって、おまえと同じ中学だったよな。どんな奴だった?」

 この日も、休み時間に唯から質問が飛んでくる。自分に補欠というあだ名をつけた張本人の名前を聞かされ虎徹はひそかに動揺したが、表面的には平静をよそおう。


「ポテンシャルは中学の頃からすごかったよ。うちの中学でもエースだったしプロのスカウトからも注目されてた。ただ……」

「メンタルが弱かった。だろ?」

 彼が説明する前に、唯は小岩の弱点を言い当てる。

「なんでわかったの?」

 おどろく虎徹を見ながら、彼女は得意気な表情をうかべた。


「小岩ってさ。試合ごと、もっといえばイニングごとに、投球内容にかなりのムラがあるんだ。これは、メンタルに問題があるピッチャーの典型的な特徴なんだよ」

 唯の指摘は正しかった。ちょっとしたきっかけで別人のようにコントロールを乱すのが、中学時代の小岩の大きな欠点だった。


「ちなみに小岩って、格下相手には実力以上の力を発揮するんだけど、格上が相手だったりピンチの場面になると、急に危なっかしくなったんだ。それもメンタルが原因だったりするのかな?」


「そうだろうな。下には強気で上には弱気。クソ野郎にありがちな特徴なんだが、どうだった? 性格も相当悪かったんじゃないか?」

 クソ野郎。唯の的確な毒舌どくぜつに、虎徹は思わずプッとふきだす。


「まあ、よくはなかったかな。練習も真面目まじめにやってなかったし、わがままも多かったよ。ただ、さっきも話したけどポテンシャルはまちがいなく高かった。実際に、中学時代は松沢の次に注目されたピッチャーだったよ」


松沢恒翔まつざわこうしょうか……。やっかいな相手だな」

 来年の夏、大きな壁として立ちふさがるであろう相手の名前を耳にして、唯の表情がわずかに険しくなる。


「そうだね。中学の頃から、松沢の才能は桁外けたはずれだったし、いまも確実に進歩してると思う。小岩とちがってストイックだからね」

「まあな。でも、松沢は表向きはストイックで完璧なアスリートだが、心のなかでは自分の能力を過信かしんしていると思うぞ」

「松沢が?」

 おどろく虎徹に、唯はノートパソコンの画面を見せながら説明を始めた。


「これはあいつが本気で投げた試合のデータなんだ。見てみろ。最後の一球は、全部ど真ん中のストレートだろ?」

「本当だ。ほとんどの球が、その日の最速かそれに近いストレートだね」

「打てるもんなら打ってみろ。ってことなんだろうな。なんかしゃくさわるよ、こういうのは。それにこっちも見てみろ」

 彼女は、別なデータをノートパソコンに表示する。


「松沢は、実力を認めた相手にはストレート一本で勝負することがあるんだ。観客は盛り上がるだろうけど、野球はチームスポーツだからな。個人的な勝負を優先するって姿勢、アタシは気に入らないな」

 不機嫌ふきげんそうな唯を見て、虎徹は話題を変えるために以前から感じていた疑問を彼女に投げかける。


「ところでさ。中学時代の話って分析の役に立つもんなの? それに、俺の話はデータっていうよりは、ただの感想だと思うけど……」

「ああ。古い情報のほうがヒントになることもあるよ。それに、実際にその場にいた人間の話ってのは大事なんだ。データの裏側が見えるからな」


「データの裏側?」

「そう。データの裏側。データってのは数字として表に出てきた結果だが、じつは氷山の一角にすぎないんだ。大事なのはその奥にひそむ原因との関係なんだよ」

 いまいち理解できていない虎徹に、唯は例え話を持ちだす。


「あるバッターのデータを分析したら、インコースが苦手だって結論が出たとするよな。でも、その結論に盲目的もうもくてきに従うのは、ものすごく危険なことなんだ」

 危険。それは、データ分析について虎徹が持っている、正確、緻密ちみつといったイメージとは、真逆の言葉だった。


「そのバッターが、インコースを打てない原因がバッティングフォームにあったとして、次の試合にフォームが改善されてたら、虎徹はどう思う?」

「インコース攻めは、もう有効じゃないかもしれない……」

「そう思うだろ? でもデータしか見ない奴はそれに気づけない。原因が改善されて前提がくずれているのに、過去のデータから導きだされた結論にとらわれて、インコースを攻め続けるのさ」

 データ分析の危険性。その意味が虎徹にも理解できた。


「データ分析って、絶対じゃないんだね」

「そのとおり。もちろん、うまく使えば強力な武器にはなるよ。でも絶対じゃない。想定外の事象には弱いしな。投資の分野でも、世界でもトップクラスの優秀な頭脳を持ちながら、データを過信して破滅した人間がたくさんいるんだ」

 唯の言葉には、前線で戦ってきた人間の実感がこもっていた。


「すまないな。なんだか小難しい話になって。ところで虎徹。中学野球のデータってどこかで入手できないか? 高校野球なら公式データがあるんだが……」

 虎徹にはひとつ心当たりがあった。


「あのさ、中学野球のデータに詳しい人がいたら是川さんの役に立つかな?」

「誰かいるのか? ぜひ紹介してくれ!」

 唯が前のめりになって食いつく。そのとき虎徹が思いうかべていたのは、野球について楽しそうに話す美雪の姿だった。

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