第6話

「は?女子高生が可愛い?」

「誰もそんな話してないんだけど」僕はベッドに座って、彼を見上げた。


 目の前にそびえるように立つ宏斗は、眠そうにあくびをしている。

 今は午前七時だ。そりゃ眠い。


「そうじゃなくて!隣のアトリエに最近毎日高校生の女の子が来るんだけど、この状況どう

思うかって話で……」


 宏斗は目を擦り、「なにそれ、誘拐してんの?」と真面目な顔で聞いてくる。


 なぜか中学校からずっと一緒なのに、宏斗と会話が成立することはほとんどない。

 僕の説明が下手なのか、単に宏斗がバカなのかと考えたってわかるはずもなかった。

 もちろん誘拐の件はしっかりと否定する。


 出会ってから一週間ほどがたった今でも、要は毎日アトリエに顔を見せていた。

 すっかり日常となっていた。

 最初に出会った時、こんな風になるなんて一ミリも思ってなかったが、慣れてしまうと家でも人と触れ合えることに少なからず喜びを感じていた。


 一人が寂しかったのかもしれない。


「じゃあどういう関係?」

「なんか、僕のファン、らしい。絵の」


 そう言ってチラッと隣のアトリエの方を見る。

 昨日、要が拾ってきたという絵が置きっぱなしになっている。持って帰らなかったようだ。朝になるまで気がつかなかった。


「それって、お前が右手あった時に描いた絵のファンってこと?」


 宏斗は羽織っているジャージのチャックを上下にジージー言わせながら聞いてきた。

 宏斗は結構、僕に対しては気を使わないことが多い。というかほとんど直球だ。中学の時、いつも通り接してほしいと僕が言ったことを守っているのかと思ったが、最近そのことを聞くと、宏斗はスルメをかじりながら忘れた、と言った。きっと何も考えていない。


「いいや。あの子がファンになったきっかけは、僕が最後に描いたやつだよ。左で」


 宏斗は目を閉じると、「あー、あれか」とこぼした。

「へぇ、俺はてっきり賞取った時のやつかと」


「あの子は昔のことなんてなにも知らないと思うよ。『奇跡の右手』知らなかったし」


 聞いた途端、ぶふっと宏斗が吹き出した。


「それ自分で聞いたの?ウケる」

「思い出すと恥ずかしくなるから笑わないでよ」僕は布団の中にもぐりこむ。

「無理無理、笑う」


 宏斗はケラケラ笑いながら勝手に冷蔵庫を開け、中にあった残り一本のコーラをなんの遠慮もなく開ける。


「まあでも、お互いOKしてるんだし、今はいいんじゃね?高校サボってるぐらいなら親もユルそうだし。その子も絵見てるだけなんだろ?」

「まぁ、ね」


 コーラを喉に通して一息つく宏斗を見る。

 ペットボトルの中身はもう半分以上なくなっていた。


「お前が、理性ぶっ飛んで襲わない限り大丈夫だよ」


 なんて失礼なことを……言ってることは、わかるけど。


「じゃぁ、今のところは気にしなくていっか」


 僕は上半身だけ体を起こした。


 キッチンで、だな!と言って宏斗はコーラを飲み干す。

 そういえば、今更気になったのだが。


「宏斗、なにしにうち来たの?」

「あ?決まってんだろ」空のペットボトルを流しに置き、口を拭う。

「お前を大学に連れて行くんだよ。ほら行くぞ、佑」


 すごくいい奴なのはわかるんだけど。

 聞かなきゃよかった。


 スウェットのまま連れて行かされそうになるのをなんとか耐えて、長そでの白シャツにジーパン、そして紺のコートを引っ張り出し、かろうじて着ることができた。

 引きずられるがままに体を預け、大学が姿を見せたところでふと思う。


 彼女は今頃高校にいるのかなぁ、と。



「気を付け、礼」

「さようなら」


 私は教科書を鞄に詰め、すぐに教室から出ようとした。黒板の前まで来たところで肩を叩かれる。

 振り返ると相変わらずのメンバーが立っていた。


「梨谷さん、学級日誌書いてくれた?」


 自慢げにブロンドの髪を撫でまわしながら、同級生の仁科里香は掌を見せた。

 早く寄越せと言いたいのだろう。


 私は鞄から取り出してその手に乗せると、途端に里香はページをめくって確認作業を始めた。他二人の取り巻きと共に要の書いたページを舐めまわすように見て、ふーん、と一言。

 日誌の氏名は、仁科里香となっている。


「私急いでるから」


 早口で言い放ち、私は踵を返して教室から出る。


 背中からありがとーう!と甲高い声が響いた。

 やっときつい香水の匂いから解放されてほっと溜息をつく。


 門を出たところで時計に目を向ける。午後四時だった。


 今日は教科書の量が多いので、アトリエに寄る前に一度バッグを置いてから行こうと家に向かう。

 学校近くの国道三号線から左に曲がり、東田公園をさらに右に曲がると住宅街に入る。

 家と家の間の細い道をいくつか抜けた先に、私の家はあった。


 帰り道、私はずっと水無瀬さんと出会った時のことを思い出していた。


 ずっと会いたかった人に会えたことは、今年一番の出来事だった。

 私の我儘をきいてくれて、絵も見せてくれて、想像していた通りの優しくて素敵な人だった。だけど、もし会えたら言おうと思っていたセリフは、本人を前にすると照れくさくて言えなかった。


 “あなたの絵に何度も救われました。私が今いるのは、あなたのおかげです。”って。


 ちょっと、重いかなぁ。水無瀬さん、引いちゃうかもしれない。

 それでもいいや。

 そして今度こそ、思いをぶつけよう。


 頬を緩ませそんなことばかり考えていると、いつの間にか自宅にたどり着いていた。

 扉を開け、中に入る。


 知らない男の靴が無造作に置かれていた。

 どきりと胸が鳴った。ドアを握る手が汗で滲む。


 静かに靴を脱ぎ、廊下をひたひたと歩く。

 リビングにつながるドアをゆっくり開けた。漂う匂いに思わず息を止め顔を背ける。床にはビールの空き缶やカップ麺の殻で溢れている。低いソファの傍にはやっぱり、当然のように母と知らない男が裸で寝ていた。部屋は薄暗い。


 私はすぐに視界からその姿を消し、シャワー室へ足を速める。


「あんたこれからどっか行くの」

 母の千賀子がだるそうに起き上がり、持っていた煙草に火をつける。


「最近帰り遅いけど、男?」


 声を聞いて足を止めた。

 後ろは振り向きたくなくて、前を向いたまま言った。


「友達の家」震える声を押し殺したから、低い声になった。

「へぇ、あんた友達なんていたんだ」


 千賀子は鼻で笑った。

 言い返す言葉が見つからず、腕時計の下の手首をひたすら掻き続ける。


「シャワー使うんだろ、二時間ぐらい入ってな」


 手首を掻く手を止め、振り返った。目に嫌なものが映る。


「なんで」

「まだ、終わってないから」


 そういうと、千賀子は引き笑いをし、隣の男を指さした。そして、私めがけてタバコの煙を吐き出した。思わずしかめ顔になる。イライラが止まらず、勢いに任せて再び手首を掻き毟った。


 汚い。気持ち悪い。こんなのが母親だなんて、信じたくもない。

 家のリビングで、子供の前で、こんな恰好で、どうして笑っていられるの?


「いいだろ、あんたの親父はいつ帰るかわからないんだし」

 千賀子は、ニヤリと口角を上げて笑う。


 ガリッと、手首に爪が食い込んだ。


「あいつの話はするな!」


 吐き捨てるように叫び、千賀子の顔も見ず、要は脱衣所に駆け込んだ。

 結局、泣いてしまった。

 泣き顔を見られたのが悔しくてたまらない。手首からは血が滲みでていた。


 袖口で目を擦ると、痛みとともに涙はおさまってきた。

 濡れてよれたニットに気も留めず、よろよろとした足取りでシャワー室の扉を開ける。


 ギシギシ、と音を立てながら開いた扉の向こうを見て、もう今更驚いたりなんてしなかった。

 シャワー室の中は、使用済みのコンドームや出っぱなしのローションが散らばっている。


 要は無表情でそれらを見下ろしていた。

 気づけばまたがりがりと、手首を掻き毟っていた。

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