第33話
個室に足を踏み入れた瞬間、久しぶりに鼻先をくすぐった千賀子の匂いに、私は背筋を強張らせた。他の部屋からは別の患者が騒ぐ声が壁を突き抜ける。
ゆっくりと近寄り、立ち止まると、ベッドに向かって声を掛けた。
「要です」
返事はない。
千賀子はこちらに背を向け、窓の方をつまらなさそうに眺めていた。
くすの木がすぐ近くに見える。
私はベッドの脇の丸椅子に腰かけた。
「起きて、るの?」
「……」
千賀子は返答の代わりに、頭の位置を少しずらした。
素直に言えばいいものを。思わずため息をこぼす。
話すことも思いつかないので、なんとなくあたりを見回した。せっかくの個室にはベッドが一つあるだけで、折鶴も見舞いの花さえない質素なものだった。心配して尋ねる友人も、親戚も、誰もいない、寂しい母親だ。
「花、買ってきた。ダイヤモンドリリーの花。……その辺に飾っておくから」
少しは華やかになればいいが。私は備え付けの花瓶に水を少々加え、そこに花束をばらして生けた。二、三歩下がって全体を確認し、なんとか様になっているのを認めると、再び丸椅子についた。
さて、これからどうしよう。一向にこちらを向く気配もなければ、向かい合って話をする気もないこの母親の前で、どんな話を始めよう。相手は聞いているのかさえ分からない。おそらく私の一人演説になるだろう。
そもそも普通の母と子は一体普段どんな会話をしているのか。私と千賀子の間にまともな会話なんて成立した覚えがない。大抵は男関係、それから金だ。
なにかこの場にふさわしいことを言えないものか。私は頭を最大限に捻った。絶対に伝えておきたいこと、言わなきゃ後悔するようなこと、私にしか言えないこと。……そうだ。
言いたいことはまとまっても、今度はなかなか声に出せない。五分ほど指を弄って口をパクパクさせて、ようやく言葉を放った。
「私はあなたのこと、一生許せない」
千賀子の痩せ細った腕が、ぴくりと動いた。
「あいつが私に暴力を振い続けた十二年間、あなたは一度も止めようとしなかった。私が殴られてる間、何度あなたのことを睨みつけてたかわかる?気づかなかったよね、全然興味なさそうだったもん。私はあなたのこと、殺したいほど憎んでる」
千賀子は動かない。
十七年間の思いを初めてぶちまけて、千賀子が弱っているとわかっていても内心びくびくしている自分がいた。まだ暴力男の横で嘲笑う女の姿が脳裏にはこびり付いていた。
それでも言えたことへの安堵感と、心に残っていた不透明なもやもやからの解放は、硬直した体を充分にほぐした。
安心から緩んだ口が、流暢に言葉を吐き出した。
「私は、あなたのこともあいつのことも絶対に許さない。それは今後も絶対に変わらない思いだけど、でも、もう逃げるのは嫌だ。まるであなたと同じことをしているようで、嫌だ。あいつと同じことをしているようで、嫌だ。……だからさ」
そこまでいっぺんに言い終えると、私は大きく息を吸った。佑に出会ってから抱いた新たな私自身の答えは、頭で構成しなくともするする飛び出した。
「向き合ってみる。私が変わらないと、あなたはいつまでたっても子供のままだから」
はっきりと口にしたその言葉は、千賀子の耳に一言の漏れもなく届いた。数秒後、私にとって懐かしい低音が聞こえた。
「向き合うって、なにするの」
聞きなれた千賀子の声はか細く、弱弱しいものだった。強く言い返す体力すら千賀子には残っていないようだ。
私はこの変わり様に、酷く呆れた。今まで自分が脅え、軽蔑してきた残虐な母親は一体なんだったのだろう。私は口を開くことさえ一苦労の母親に、人生を棒に振られたのか。そう思うと、悔しかった。悔しくてたまらないと思うと、涙が溢れてとまらなかった。
じゅるりと鼻をすする音に、千賀子は反応して若干首をこちらに向けた。泣いていることはばれている。今更隠すのも煩わしかった。ぐちゃぐちゃな素顔のまま、丸まった小さな背中に決意をぶつけた。
「退院したら、時間を作って。私との時間を、作ってよ。話すだけでもいいから……」
私はこのとき大泣きしながら、人生で初めて親に甘えた。千賀子の背中に顔を埋め、枯れた声を上げて盛大に泣きわめく。子供の頃、幼稚園で友達がしていたみたいに。
「ごめん。時間作る、から。ごめん」千賀子の震える唇が、ごめんを繰り返した。
私は拳でその背を何度も叩いた。
もっと社会に出る前に、教えてもらいたいことはあった。作りたい思い出もあった。お母さんと料理をしたり、家族で旅行に行ったり、そんな普通の生活にどれだけ憧れたことだろう。でも憧れ続けて、もう十八年がたった。一番楽しみたかった時期には、怨念の籠った自分の泣き叫ぶ声しか記憶に残っていない。
今さら謝られたって、遅い。
それなのに、どうして。どうして私は、潜ったシーツの中で、笑みを浮かべているのだろう。これから十八年願いつづけた望みが叶うから?でも本当に約束してくれる確証なんてない。まだ素直に、嬉しいとは思いたくない。
涙をシーツに染み込ませ、顔を離した。一旦深呼吸して興奮した心を落ち着かせて、丸椅子に座り直す。きっと目はウサギのように赤く腫れあがっているだろうが、そんなこと気にも留めなかった。
「こっち向いてよ」
二言目を発さずとも、千賀子は素直に上体を起こし、向き合った。その簡単な動きですら、支える腕がぷるぷると小刻みに揺れている。
久しぶりに対面して、私は変わり果てた母親の顔に息を呑んだ。真っ白な肌に目立つ青黒い痣、こけた頬、ぐにゃりと曲がった鼻、色味を失くした唇。どれもあの濃い化粧のにやり顔とは結びつかない。鏡でこの姿を目に映したのなら、私に電話を寄越さなかったのにも、いまのいままで顔を見せなかったのにも納得がいく。
千賀子はへそをこちらに向けているものの、俯いて指の間をじっと眺め、目を合わそうとはしなかった。もともとプライドの高い人なだけあって頷ける仕草だが、こちらに素顔を晒す行為がどれほど千賀子の勇気を奮い立たせたのか、想像では計り知れない。
私は下を向いたその瞳に見えるよう、眼前に小指を出した。当然千賀子は吃驚し、そこで目を合わせた。まつ毛がすべて抜け落ちていた。
「これ、してよ。してくれないとさっきの約束、信じない」
千賀子は私の小指に視線を戻し、再び顔を上げ目を合わせた。咄嗟のことに頭が追いついていないのか。私はもう一度強調するように、ん!と小指を振った。
納得したのか、千賀子は小さく頷くと、その指に自分の小指を絡めた。繋がったのを待ってから、私はわざと病室の重苦しい雰囲気を壊すかのように、アホっぽくでかい声で指切りげんまんを歌った。歌中にお互いの指をリズムよく振ることも忘れない。
指切った!でお互いの小指が離れる。病室は再び静寂が訪れたが、二人の間には、どことなく清々しい空気が流れていた。たった数十分の出来事で、私の抱えた十八年間の苦痛から解かれたような開放的な気分だった。千賀子もなんだか、ほっとした顔をしていた。
今はそれでいい。これで許されたとは思っていないだろうが、今はとにかく初めて味わった母子の温かい世界に、浸っていたかった。
私は席を立った。まだ言うべきことがもう一つあることを忘れてはいけない。千賀子には少し待っててと言い、廊下に出る。だが目の届く範囲には、佑の姿は見当たらなかった。
「水無瀬さん……?」
途端、背後の千賀子は弾かれたように顔をあげた。
はっと大きく息を吸う千賀子に吃驚して振り返る。
「ど、どうしたの?」
目に映る千賀子は、なぜか怯えていた。
全身の血を抜かれたように酷く青ざめ、乾ききった目を見開く。
心配になって駆け寄ると、千賀子は私の腕にしがみつき、小さな声で、なんとか私に届く声で言った。
どうして、その名前を知ってるの。
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