第34話


                   *


 目を開けたら、真っ白な天井が広がっていた。


 薬品独特の匂いが鼻をつく。俺はベッドの上に寝かされていて、隣を見れば大量の花束やメッセージカード、フルーツや菓子の盛り合わせなんかが乱雑に棚の上に並べられていた。中には高級そうなものもちらほら見当たる。


 どうしてこんなところに、と上半身を起き上がらせようとするが、なぜか上手くいかずにベッドの上でころりと転がる。たったこれだけの動きで、肩が激しく上下していた。


 なにが起きているのか、俺は激しく混乱した。思い当たるものは何もないはずだった。


 だが現状を確認しようと、もう一度起き上がろうとして、体の異変に気付いた。普通両手を軸に体を起こすものだが、左手はしっかりと伸びているものの、右手はまるで動かない。というか、感覚がない。


 このとき自分の中で恐ろしい考えが頭を過り、右を向くのが怖くてできなかった。やがて元旦で親族が集まった時に何度か見た顔が、個室にぞろぞろと入ってきた。皆俺を一瞥すると、可哀想、といった顔で胸のあたりを押さえて目を反らす。


 最後に皺くちゃな医師が俺の前に立ち、言い放った言葉を俺は思わず繰り返した。


「腕が、ない?」


 先生は大丈夫だよ、と言いながら淡々と現状を話し始めた。内心これはドッキリなのではないかとか、単なる悪戯に巻き込まれているじゃないかとか、そんなことばかり考えていた。先生の話など微塵も聞いていなかったが、話の途中で毛布を軽く剥がされ、露わになった切断面を見て、俺は咄嗟に悲鳴を上げた。


 先生は慣れたように俺の興奮を止めるようとするが、俺はすべての声を遮断し、頭を抱えてその場で叫び散らした。頭の上には左手が一本、乗っているだけであった。


「嘘だろ。どういうことだよ!なんで俺の、腕が。こんなんじゃなんもできねぇじゃねぇかよ!何とかしてくれよ、なぁ、なあ!」


 ガキみたいに泣きじゃくって、先生にしがみついた。先生は苦い表情で、下を向くばかりだった。涙は滝のように零れ落ちる。


「絵、絵は?俺もう絵描けないのか?うそだろ、やめろよこんな冗談……俺は、絵がないと、絵がないと……」


 はっと振り返り、メッセージカードに目を向けた。表に向いているものを手当たり次第読んでいく。



「奇跡の右手、がんばれ!」

「水無瀬くんが元気になりますように。」

「水無瀬さんの絵が好きで、昔からファンです。交通事故に遭われたと聞いて、メッセージを送ろうと決めました。ぜひ元気な姿でまた絵を描く姿を楽しみにしています。早く良くなりますように!」

「体調はいかがですか?まだニュースでは現状が報道されていないので、どれだけ重症かわかりませんが、一刻も早い回復をお祈りします」

「あなたの絵に勇気をもらいました。画家の道は厳しいと思いますが、僕もあなたを目指して頑張ってみようと思います」

「佑、次学校に来たときは、この前の賞のお祝い会するからな!絶対来いよ!」

「災難でしたね。奇跡の右手は最も注目されている画家としてプレッシャーもあると思いますが、焦らずあなたのペースで、頑張ってください。」

「次回作楽しみにしています!応援しています!」



 多くの人に期待されているのは一目瞭然だった。俺は絵を描かなくては。でも、どうやって?奇跡の右手が右手を失ったら、どうやって期待に応えるんだ?


 一つ読むたびに涙を十こぼし、また一つ読むたびに涙を百こぼした。どうして俺がこんな目に、どうして俺がこんな目に。俺はだんだんと、この悲劇を呼び起こした事故の瞬間を思い出していた。家族三人で企画した旅行。行きたいスポットを挙げ、楽しみだねと口を揃えた車中。なにもかも、幸せな時間だった。


 ふと、あたりを見回した。


「……母さんと、父さんは?」

「そのことだけど、ね」急に、先生の顔が強張った。


 話を聞いた俺は、頭が真っ白になった。


 嘘をつくな、そんなわけない。そう喚いて止まない俺を宥めようとする周りの大人の青ざめた顔が、事実を物語っていた。


 俺は全員の視線を浴びながら、静かに毛布に体を縮めて泣いた。


                  *


 おちつけ、おちつけ……。胸元の服を掴み、大きく息を吸って、吐いた。


 たまに想起することはあっても、ここまで鮮明な映像は初めてだった。想像以上に体力を奪われ、しばらく動けなかった。


 まだ頭はくらくらしている。ここが現実なのか夢の中なのかどうかも判断できない。めまいがおさまるのを待ってから僕はゆっくりと立ち上がった。最初に視界に映りこんだのは、便器だった。どうやら戻ってきたようだと深く息を吐いた。


 個室を出て、嘔吐による口元の不快感を洗い流すべく、廊下の水道で手を受け皿に、うがいを繰り返した。ハンカチで軽く口元と、ついでに噴き出た額の汗を拭き取り、個室前の廊下に再び立った。


 もしトイレにいる間に話が済んでいたらどうしようと、僕は内心焦っていた。おそらく十分はあの場にいたのだろうから、ありえない話ではない。相手に見えないが繰り返し頭を下げ、そっとドアに聞き耳を立てた。


 会話はなかった。要の声も聞こえない。ただ、要の母と思われる声が、唸り声をあげてどうやら泣いているようだった。その様子は非常に荒く、過呼吸でも起こすのではないかと心配した。僕には何が起きたのか全く理解できない。だがなんとなく、要はもうそこにはいないような気がした。


 追い返されるのを覚悟で、僕はそのドアを引いた。


 要の母であろう女性は地べたにペタリと座りこみ、床に水たまりを作っていた。僕が来たことにはまだ気付かない。見たところ要は確かにいないようだった。一歩、二歩と歩みを進め、ようやく千賀子は顔をあげた。


 僕は千賀子の前でしゃがみ、涙で濡れた顔に聞く。


「突然、すみません。要……さんの連れですが、どこに行ったかわかりますか?」


 母親の手前、ちゃん付けだといろいろと変に疑われそうな気がして、言い換えた。そもそもの話、僕の話がまだ母子の間でされていないのなら、不審者か何かと思われても仕方ないくらい不自然な話しかけ方だった。


 だが千賀子はそんなことは全く気にしていないようだった。それどころかめいっぱい広げた目に僕を映し、赤ちゃんの発する喃語のように意味のない言葉を繰り返していた。


 やがて千賀子は呼吸を挟むと、額を床にくっつけ、今度はしっかりと聞き取れる言葉を発した。


「ごめんなさい、水無瀬佑さん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「ちょ、やめてください!急にどうしたんですか!」


 このときなぜ千賀子が僕の名を知っていたのか、まるで疑問に思わなかった。


 千賀子は鼻水を垂らし、ぼさぼさの髪をさらに乱し、続ける。


「あの子が、要が、ずっとお世話になっていたというのに、それなのに、本当のことを告げずに、ごめんなさい……こんな形で再び会うことになって、ごめんなさい……」


 あなたの両親を、右腕を奪ったのは、うちの主人なんです。


 はっきりと、そう聞こえた。

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