第35話

 拳銃で撃ち抜かれたように声も立てられず、ただ呆然と千賀子の謝るさまを見ていた。先ほど頭をあげてもらおうと伸ばした左手が、あと数センチというところで硬直して前に進まない。拭き取ったはずの汗は簡単に滑り落ち、水たまりに加わった。

 

 僕は何も考えず、開けたままの口を強引に動かした。


「それって……あの事故の、犯人……?」

 

 千賀子は苦虫を噛み潰したように顔を歪め、わずかに首を縦に振る。


「じゃぁ、酒に酔って、人を殺したって……僕たちの、こと……?」


 また、縦に振る。その後、縋るように僕に弱弱しい声で懇願した。


「でも、要には教えていなかったんです。あの子はまだ小学生だったんです。だから今まで知らなかったんです。どうか責めないでください、お願いです。お願いします、どうか……」


 少しずつ我を取り戻していく。むしろ取り乱しているのは千賀子の方で、僕はその姿を見て逆に落ち着き始めていた。


 当然この件に要は全く関わっていないことは、要のこれまでの話でも理解している。だから要のことを責めるつもりも非難するつもりもない。だけどすごく、複雑な気分であることは否定できずにいた。


 要の父親の引き起こした殺人事件に、まさかこんなにも自分が密接に関わっているなど微塵も考えてはいなかった。思えばあのとき僕も受験が迫った中学生であった。どうしても、とせがまれない限り、周りの大人が積極的に犯人を教えるようなことはしないだろう。たとえせがまれても、上手い具合に言い逃れて耳打ちしなかったかもしれない。


 当時の僕は気になってはいたものの、訊くことはしなかった。一番大きな理由は、両親と右腕を失ったショックに押しつぶされ、それどころではなかったからだ。過去を引きずる性格だからか、その考えは今に至るまで一度も変わったことはない。


 千賀子の泣きじゃくる声を耳でぼんやりと聞いていると、いつの間にか彼の中で先ほどの衝撃が嘘のように消え、気づけばこれを知った要はいまどうしているだろうと、どんな顔をしているだろうとそればかりを考えていた。


「要ちゃんとは、上手く話せましたか?」

「へ……?」


 千賀子は一瞬遅れて反応を示した。なにがなんだかわからない、といった様子で目を点在させている。それでも返事が来るのを粘り強く待っていると、やがて唇を痛くなるほど噛みしめ、二度頷いた。涙はこの瞬間も絶えず流れ落ちる。


「そっか。ちゃんと、わかりあえたんですね。……要ちゃん、笑ってましたか?」

「……はい。すごく、いい笑顔でした」


 激しい涙声は語尾を曖昧にさせたが、僕にはなんとなく伝わっていた。報告を聞いて、思わず頬が緩む。明らかに状況と表情が違うことはわかっているが、それでも嬉しいと思わずにはいられなかった。


 伸ばしかけてひっこめた左手は、今度はすんなり千賀子の背中まで届いた。その背をさすり、千賀子の情緒を安定させる。


「要ちゃんのこと、もっと大切にしてあげてください。僕のことは気にしないで」


 若干これでいいのか、と揺らぐ気持ちもあったが、言ってしまえば後悔など一つも残らなかった。

 この対処は正しかったのだろうか。世間的に見れば非難を浴びるかもしれない。だがそれでも、すでに変わろうと必死な要ちゃんを、これから変わろうとする母親を、責めることなんてできなかった。やっと手と手を掴めた親子が共に前進しようとするところを、僕への気遣いでまた互いが離れるなんてこと、あってほしくない。僕にとってはそちらの方が苦痛だ。


 大切にします、涙声を吹っ飛ばして放った千賀子の言葉を信じ、彼女の手を握る。手を離すと、一礼して病院を抜け出した。ただ走って、走って走って走って、足が棒になるまで会いたい人影を、探し続けた。


 どれくらいの時間が立っただろう。白い息を振りまいてひたすら走り、気が付けば見覚えのある住宅が立ち並んでいた。さらに先へ進み、要の誕生日祝いの帰りに寄ったお気に入りの橋の上で一度立ち止まった。


 運動不足の僕はすでに体力の限界を超えていた。痙攣でも起こしそうな勢いで足が震えている。静かに呼吸を整え、再び一歩一歩前へ進む。うるさかった呼吸音が小さくなると、今まで遮断されていた周りの音が次第に聞こえ始めた。自動車の発信音、鳥の鳴き声、波の跳ねる音……。


 ふと立ち止まった。雑音に交じって、飛びぬけて鼓膜に触れるなにかがあった。そのなにかを聞こうと、止めた足をまたゆっくり前進させる。十ほど歩みを進めた時点で、耳に届くものの正体が明らかとなった。


 欄干にもたれ掛かり、要が声を上げていた。


「うあああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 悲鳴にも聞こえるその声は涙を含んでおり、次第に声は弱弱しくなって消えた。


 僕はその場で動くことができなかった。慰めに行くことも離れることもできず、ただ突っ立ってその声を見ていた。


 腕が通るはずの、ぶら下がった右袖が冷風に当たって虚しく揺れていた。




 十分ほど、そのまま立っていた。要は泣き続けた。やがて泣き果て、ゆっくりと濡れた顔をあげた。

 

 そばにいた僕を目にし、要の顔は一気に真っ青になった。


「要ちゃん」

「あ、あの私……」


 小さい声で口をもごもごと動かす要の近くまで寄り、僕はめいっぱい笑ってみせた。


「帰ろう」


 要は勢いよく顔をあげた。


「え……」

「一緒に、帰ろう」


 そう言ってアトリエのほうをちらりと示した。


 困惑したように視線を彷徨わせる要に、なにも言わず、大きく頷いてみせた。


「なんで、怒らないんですか」泣き叫んだ後だからか、その声は掠れていた。

「要ちゃんのせいじゃないってわかってるよ。聞いた時はホントに驚いた。だけど、それで今の僕たちの関係を変える必要なんてないし……それにさ、今の僕たちには過去よりも、明日の笑顔のほうが大事でしょ。僕は明日も、要ちゃんと笑っていたい」


 だから、ほら。


 不格好に左手をのばす。こんなときにへらへら笑っていられるのはきっと僕だけかもしれない。

 要は差し出された手を前に、大量の涙を零した。僕は手の甲で頬を流れる涙をやさしく拭う。


「要ちゃんはよく泣くよね。それってなんの涙?」


 ひっく、としゃくりをこぼしつつも、要は丁寧に言葉を発した。


「水無瀬さんとこれからも一緒にいられることが嬉しくて……だからこれは、そういう涙です」


 そう言って、首筋に汗を滲ませえくぼを浮かべる。

 僕は思わずその華奢な体を抱きしめた。

 わっ、と吃驚して声をあげた要だったが、次第に自らその背中に腕を回した。


 あったかい幸せを、お腹いっぱいに飲み込む。


 橋の欄干には、要が泣いている最中何度も指で書いたにこにこマークが、日の光に照らされて優しく微笑んでいた。

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