第36話
「そっか……じゃぁあまりアトリエ来れなくなっちゃうか」
僕は寂しさ半分、喜び半分の気持ちで、これからアトリエを出ようとする要を見送る。
要は鞄を背負い、靴を履いて頷く。
「今は退院した母との時間を作ろうと思います。高校を卒業するまでは、あの家で暮らすので」
表情の硬い要の顔を覗き込む。「……不安?」
「……ちょっとだけ」
「そうだよね。親との楽しい生活なんて、僕も昔の記憶からしかイメージできない」
「はい。……でもとりあえず、母のことを信じてみます」
そう言って小指を目の前にかざした。
「水無瀬さん」
「ん?」
「あの、卒業したら、わ、私のこと……」
どことなく恥じらいを見せる要に、僕は大きく頷いて見せた。
「うん。待ってる」
気持ちが和んだのか、強張らせていた要の頬が緩んだ。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
首を傾げる彼女をおいて部屋に駆けた。綺麗に包装された長方形の箱を手に要のもとへ戻る。照れくささとともに渡し、後頭部をポリポリ掻いた。
「これ、は……?」
「ずっと、持ってたんだよね。……渡しそびれたクリスマスプレゼント、ってことで」
「え、ほんとですか!」
途端に要の目が輝いた。
「開けても……いいですか?」
「う、うん」
結ばれたリボンをそろりと解き、中を覗き込んだ途端、要は一気に明るい表情をみせた。
「あ、これって!」
「ほんとはクリスマスには違う絵をあげようって用意してたんだけどね。いま渡すならこっちのほうがいいなって思って」
「この間のこと、覚えてたんですね」
箱に収められたキャンパスには、ダイヤモンドリリーの花が揺れていた。花瓶の奥では男の子が自身を抱きかかえしゃがみこんでいる。ぼかしているが、この男の子はきっと涙を流しながら笑みを浮かべている。
要は絵に目を留めたまま、ぽつりと呟いた。
「このとき、この瞬間、水無瀬さんはたくさんの人に慕われて、たくさんの人を笑顔にしていたんですね」
「……昔の僕にちょっと会いたかったとか、思う?」
「いえ、叶わないことを願ってもしょうがないです。でも」
要はすうっと息を吸い、僕に思い切りぶつけた。
「水無瀬さんはまだ諦めなくてもいいと思います!」
ふと出会った頃の映像が湧き上がり、思わず笑みが零れた。いつだってまっすぐに背中を押してくれるその姿が、最高にかっこよくて好きなのだ。
「諦めないって……なにを?」
「また有名になること!」
服が皺になるほど握りしめる要の右手が目に映る。
震える声が耳に残る。
あぁ、そっか。きっと彼女は、叶わない夢を願ってる。
「だけど、私はこれ以上なにも言いません。だってもう水無瀬さんは、」
要はアトリエの絵ぜんぶと目をあわせた。「この絵たちに笑顔を向けられるようになったんですから。私はそれだけで十分です」
要はじゅるりと鼻を鳴らす。
一歩下がり、目に涙を溜め込んでゆっくりと頭を下げた。
「いままで、たくさんの幸せをもらいました。ありがとうございました」
僕の目にも熱いものが溜まっていく。彼女の左手をとると、要は濡れた顔をあげた。
「僕も右腕を失って、希望も未来も、なにもないと思っていたから。手を差し伸べてくれて、立ち上がらせてくれて、なにより楽しい時間を、ありがとう」
要は首を横に振る。
「水無瀬さんがまた立ち上がれたのは、私じゃないです。恋のちから、ですよ」
「え?」
要はふふっと、甘い笑みを浮かべた。
「初恋って、そのあといろんな経験を重ねても意外と覚えてるものみたいなんです。絵に置き換えてみても、一緒じゃないですか?」
そういうことか。僕は相変わらず、要の想像する世界が好きみたいだ。胸がどきどきと大きく音を鳴らし、締め付けてくる。息が苦しいはずなのに、口角はあがってゆく。
「僕は、絵に二度も恋をしたんだ」
要がぎゅっと目を瞑る。涙の粒がはじけて広がった。
二人の温もった手が離れる。人差し指が求めようとするのを咄嗟に堪えた。
要はごくりと飲み込むと、袖ですべて拭い去り、思いきり笑ってみせた。
「それじゃぁ……行ってきます!」
「いってらっしゃい!」
笑顔で手を左右に振る要に、僕もちぎれそうなほど強く手を振り返した。要は真っ赤な頬にえくぼをのせ、名残惜しそうに静かに扉を閉めた。
佑は振っていた手をゆっくりと降ろす。頭に残った要の笑顔に心で何度も言った。
大丈夫、要ちゃんなら大丈夫。だから、頑張って。と。
アトリエを振り返った。飾られたたくさんの絵たちは、まるで僕と要を見守ってくれているように感じて、僕はその絵たちに笑いかけた。傍に寄り、真っ白なキャンパスに手をかける。
「僕も、もっと前に進もう」
左手は、すぐにでも筆を握りたい気持ちでいっぱいだった。
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私は重い扉を開け、久しぶりの家に帰った。深呼吸を二度繰り返し、大きく一歩を踏み出してリビングに入った。リビングの扉は、すんなり開いた。
中では母の千賀子が、ごみ袋を片手に床に落ちた食べかすやらを拾い上げていた。千賀子は私の姿を認めると、気まずそうに目を伏せた。
「お母さん」
千賀子は手を止める。
「それ、手伝うよ。……終わったら夕飯、一緒に作ろう」
痩せ細った腕が伸ばしかけた手を引っ込める。げっそりした頬を向け、千賀子はほっと穏やかな表情を見せた。こんな風に優しい顔ができるのだと、私は初めて母親の綺麗な表情を目に映した。
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