第37話

 桜の蕾が木々の間から覗いていた。昨日の雨で、蕾には雫が乗っかっている。日の光が当たってきらりと輝いていた。


「もうすぐ春だ」


 僕はその光景を記憶に焼き付けると、急いでアトリエまで歩みを進めた。扉を開け、すぐさま大量に買い込んだ白いキャンパスの一つを取り出し、筆を握る。さっきの景色を要にも見せてあげたい、その思いで左手をキャンパスにぶつけた。


 いままでは何かと描きあげた絵に対して気になる部分が浮かんでいたが、最近では少しずつ理想の形を表現できるようになっていた。右腕で描いたものとはまた違う雰囲気を帯びており、比較することも楽しみの一つとなっていった。


 夢中で色を描き、気づけば朝になっていたなんてことも最近では多い気がする。そうやって一つ絵を描き上げ床に寝そべると、必ず頭に浮かぶのは要と過ごした日々だった。


 最初に出会った時のこと、アトリエで話した他愛もない話、二人で寝る前におまじないをして。そうだ、神良に出かけたなぁ、クリスマスのお祝いもした。要をモデルに絵を描いて、橋の上で何度も告白みたいなことをして、抱きしめあって。


「いろいろ、あったなぁ」


 朝の光に目をしばたかせ、ゆっくりと硬い床から体を離す。指先に触れた絵に目線を落とす。蕾のふんわり丸い形、今にも滑り落ちそうな雫。うん、よく描けてる。


 腰を上げ、アトリエの絵と一つ一つ目を合わせていく。中二で初雪を見たときに描いたもの、中三の体育祭の後に描いたもの。最近描きあげたものもいくつもある。その絵を見ただけで、描いたころの映像が鮮明に頭の中に流れ込む。楽しかった記憶から、苦しかった記憶まで、全て。


 僕から絵をとることなんて、できなかったんだ。


 だってこんなにも、ここは愛情に包まれてる。


 ここで浮かべた笑みを、流した涙を、無駄にするところだった。


 僕は顔の前に左手を掲げた。真っすぐに伸びた指先、ペンのタコ。以前に比べて自身に満ち溢れているようだった。それは、右手なのではないかと錯覚してしまうほど、かっこよかった。


「……って、自分で思うのは変か」


 思わず一人で苦笑する。

 あぁでも、早く三月まで時が進んでほしい。だってきっと彼女なら、こんなときに真剣な顔で言うんだから。


 そんなことないです。水無瀬さんは、かっこいいです!って。


 僕はしゃがみこみ、転がった筆を握る。


 どうせかっこいいって言われてしまうのなら、今のうちにかっこよくなろう。離れている時間はその準備期間なのだと自分に言い聞かせ、再び買い溜めておいた白いキャンパスの一つに手を伸ばした。

 

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「あぁ、久しぶりやね」


 振り返ると斜め後ろで、よく美術館にくる顔なじみのおばあさんが立っていた。佑の作品「月下美人」を春に紹介してもらってから、月に二、三度は足を運んでいた。絵の中の女性の醸し出す雰囲気にのみこまれているのかもしれない。


 私はおばあさんにぺこりと頭を下げた。


「最近来ていなかったけん、どうしたんかと思っとったよ」

「ちょっといろいろ会って、会いにいけなかったんです……。おばあさんは、水無瀬さんのファンなんですか?」


 おばあさんは自慢げに大きく頷いた。

 私もその反応に胸が躍る。


「私も、大ファンなんです。彼の作品にしかない魅力に、もう何度も引き寄せられちゃって」


 うん、うん、とおばあさんはにこやかに話を聞いていた。


「好きな気持ちが十分に伝わってくるよ」

「おばあさんは、ファンになったきっかけの絵とか、あるんですか?」

「そうだねぇ。海外の美術館で、代表作『エール』を目にしたときは心を動かされたね。あのときは特に騒がれて有名な絵やったけん」

「『エール』ですか……」


 題名は聞いたことがあったが、どのような作品なのか、詳しいところは何一つ知らなかった。どれだけネットや本で調べてみても出てこないものは数多くある。自分の知らない彼を知っているおばあさんが、羨ましくてたまらなかった。


「見たかったなぁ。水無瀬さんが輝いていた瞬間を」


 水無瀬さんが、残した足跡を、ぜんぶ。


「あんたは……」


 おばあさんはなにか言おうとして、目を逸らした。眼鏡を外すと、レンズをふき取りながら私に目を向けた。


「なんで、笑っとるとね。悲しいはずなのに」


 言われて初めて、なぜか自然に笑えていることに気づいた。矛盾に首を傾げつつ、余計に笑みがこぼれる。

「変ですよね、こんな場面で笑ってるなんて。きっと水無瀬さんに期待しちゃってるからなのかもしれないです。あとは」


 部屋の隅で、何度も描いたにこにこマークをが頭に浮かぶ。


「笑顔のおまじないの効果、です」


 それはなんだと聞き返されたらちょっと恥ずかしいなぁなんて思いながら、堂々と言ってみる。ちらりとおばあさんの顔を覗くと、なぜか驚いていて、喜んでいた。


「あぁ、そうやったんか。あの子はいつまでたっても、子供だ」


 おばあさんの目に輝きが増えたような気がする。

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