第32話
公園を抜け商店街に突入すると、目当ての花屋はすぐ目の前にあった。
細長い店内の突き当たりには、数えきれないほどのの皺を浮かべてにこにこ愛想を振りまく八十ほどの店主が座っていた。
要は入るなりその人の姿を見つけると、その手を開放して色とりどりの花で囲まれた通路を抜け、駆け寄った。
要の手が離れた左手はすぐに冷えだす。
「あの、千円くらいで、花束を作ってくれませんか?お見舞いに持って行こうと思ってて」
「あぁ、いいとも」
店主は曲がった腰を叩いてゆっくりと立ち上がる。
「入れて欲しい花はあるかな?」
彼女は振り返ると、元来た道を慎重に引き戻した。途中で足を止め、一つの花に手を伸ばした。
「これ。この、赤い花がいいです」
店主は指さす先を覗き込むと、あぁと言って一本抜き、目の前まで持ち上げた。
「ダイヤモンドリリーだね。見舞いにはぴったり」
「そうなんですか?」
「花言葉は、また会う日を楽しみにしています」
えっ、と要が声を上げる。突然知識を挟んだ僕に驚いた目を向けた。
店主も関心したように目を細めて頷く。
「あら、お兄ちゃんよく知ってるねぇ。そうそう、色も鮮やかで、病室に飾る人は多いのよ」
「あ、じゃぁそれで……」
要の要望を受け入れ、店主は皺くちゃな手の中に、迷うことなく他の花をいくつかプラスし、落ち着いた雰囲気の花束を作り上げてくれた。
「どうして、知ってたんですか?」
支払いを済ませ、花束を抱えて再び歩き出す。花屋が見えなくなってきたあたりで、要から投げられた疑問に頬を掻きながら答えた。
「昔、ダイヤモンドリリーをテーマにした絵、描いてたんだよね。その時に調べたんだ」
「へぇ。……水無瀬さん、花好きなんですか?」
「え、なんで?」
「前に見た作品も確か、“月下美人”だったから……」
「本当だ」
考えてみれば、今まで描いた作品には花を題材にしたものが多かったように思う。
「別にすごく好きなわけじゃないんだけど、なんでだろう。想像しやすいからかな」
水無瀬佑の「花」作品は美術の教科書に取り入れられたこともある特に注目されたシリーズだが、中でもダイヤモンドリリーはその原点であったこともあり、僕にとって愛情の薄れない作品になっていた。
「水無瀬さんが、有名になったきっかけなんですね」
要の手の中で、ダイヤモンドリリーがふんわり跳ねた。
「うん。あれだけはすっごく大切なものだから、実はいくつかの美術館で飾ったあとに、僕の家に置いてもらうことにしたんだよね」
「うそ。じゃぁあの部屋にあったんですか?ぜひ見たいです!」
「いいよ。……要ちゃんは、なんでその花にしたの?」
すると顔を俯かせ、かと思えばすぐに僕を見上げた。ひたむきな表情で、じっと僕の双眼を捉える。
「母が好きだと言っていたんです。昔の話だから、今も好きかなんてわかりませんけど」
「この花を?それっていつの話?」
えっと、と少し考えるように空を仰いだ。「小学校の、六年生のころだったかと」
「それって、お父さんが事件を起こした……?」
「あ、そうです。その後です。よくわかりましたね」
もしダイヤモンドリリーの花言葉を要の母親が知っていたのなら、また会いたいと思っていた相手はきっと――。
そして要は、そんな母親のことを許そうとしているのだろうか。
僕には憶測でしか言えない。
だが、彼女が母親と向き合おうとしているのならば、二人の距離がまた元通りになるのであれば、僕は自分の身を引いてでもそうなってほしいと願うばかりだ。それは早くに両親を亡くした彼だから言えることだった。祖母に育ててもらったとはいえ、中学二年生から大学の今まで、実の親から教えてもらうことは数えきれないほどあるはずだ。
祖母との生活には満足しかなかった。甘やかすことなく片手でも家事ができるようしごいてくれたのも、今では感謝しかない。だがふと一人になると、もし両親が生きていたら一体どんな人生を送っていただろうと、そればかり妄想がはたらいてしまう。
だからもし母親が心を入れ替えてくれるのなら、そこに要が甘えられるのなら、ぎこちなくても家族の形を少しずつ取り戻してほしかった。
横を歩く要は、ただひたすら中央に咲く赤い火花を見つめていた。
その瞳には、若干だが不安の色が浮かんでいた。
石原総合病院にたどり着いたのは、午前十一時だった。家を出てから一時間が立っている。タクシーで走っても三十分はかかる、少し離れた場所に建っていた。庭の一角の鯉が泳ぐ池、病室から覗く大きなくすの木。僕はこの病院を知っていた。
久しぶりに訪れる白い建物を見上げ、額に汗が滲んだ。
受付を済ませ、面会票をもらってエレベーターに看護師とともに乗り込む。鍵のついた厳重な扉が開けられ、二人は“梨谷千賀子”と書かれたプレートの前にたどり着いた。
病室の前で足を止め、要はじっと引き戸を見つめた。
「水無瀬さん、最初、二人だけで話をさせてくれませんか」
一点の曇りもない表情を彼に向ける。僕はもちろん、と言って頷いた。
要も繰り返すように頷き、握りしめた手を少しずつ開いて取ってに手をかけていく。やがて病室に吸い込まれていった。
僕は廊下に一人、立っていた。
することもないのであたりを見回してみると、精神病棟の向かいの一般病棟の廊下を、車椅子で移動する少年が見えた。
遠くからでも十分わかるくらい、少年は静かに涙を流していた。包帯でぐるぐる巻きにされた片足を睨みつけながら、なにかぶつぶつと小さな声で呟きながら、泣いていた。
骨折でもしてしまったのか、それとももう使えなくなってしまったのか。もしかしたら少年の人生を大きく狂わせてしまったのかもしれない。彼の姿は、僕の少年時代を彷彿とさせた。
あの惨酷な一日を思い出すだけでも、気が狂いそうなほどの頭痛が襲いかかる。院内の匂い、真っ白な床、清潔なベッド……。すべて、あの時のままだった。
奇跡の右手があっさりと消え失せた、あの時のまま。
突然足ががくんと折れ曲がる。僕はそのまま床に突っ伏した。
激しい呼吸音を聞き、自分が脅えているのだと気付いた。自覚しても体の拒絶は収まらない。床の上を這いずり、目に付いたトイレに飛び込んだ。
個室に籠り、便器に顔を突っ込んで何度も嘔吐する。涙が溢れた。忘れかけていたあの記憶が再び脳裏に流れ込む。恐怖で、体が震えた。それでも容赦なく、あの瞬間の映像が引き出される。目を瞑っても、頭を振っても消えない。消えてくれない過去。
僕は狭い空間で、泣き崩れた。
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