第31話
一月の半ばを過ぎ、未だ雪は相変わらず止め処なく降り注いでいた。
閉じた瞼の奥は、すでに日が昇っていた。カーテンのない部屋には、小さな小窓からほんのりと朝日が流れ込む。その日は極めて自然に目を覚ました。
状態を起こすと、右肩の捻ったような痛みを覚えた。座ったまま寝てしまったので、いつの間にか重心が右側へ傾いていたらしい。体の節々が悲鳴をあげている。
だがその代わり、僕の体は要が寝る際に使用した毛布で包まれていた。
真冬の朝にはありがたい厚意だ。
振り返ると、ベッドはすでにもぬけの殻となっていた。机の上にはいつものように美味しそうな匂い漂う朝食が丁寧に並べられている。僕は肩を押さえながら立ち上がり、部屋をふらりと歩いてみた。なにかぼそぼそと声がする。それはアトリエから漏れていた。
真っ暗な部屋の中を目をすぼめて見ると、確かに要はそこにいた。アトリエの電話を耳に当て、電話の相手に何度も頷く姿が窺える。特に気にも留めず、用意してくれた温かいご飯に手を合わせた。キッチンで食べ終えた彼女の茶碗を見つけたので、待つ必要もない。一粒残らず綺麗に片づけた。
洗い物を終え、水回りを済ませてから着替えに掛かったところで、ようやく姿を現した要はなぜか外に出る格好をしていた。どこかに行く予定があるのだろうか。
「あ、おはようございます。もうご飯、食べたんですね」
「おはよう。うん、美味しかった。ごちそうさま」
どことなくトーンの低い要の声に応えた。要は喋ることなく頷き、手櫛で髪の毛を整える。
僕はその様子をトレーナーを着る前の腕を上げた体制のまま眺めていた。何か変だ、と思ったのだ。具体的に何が、と聞かれれば困るが、なんだか元気がないように見えるというか、上の空な気がする、とかそんな程度の不思議さ。
だが要は質問より先に、その答えを発した。
「あの、水無瀬さん。この辺に、花屋さんとかありますか?」
拳を握りしめ、なんだか勇気を持って話しかけたような彼女に、少し圧倒された。
「花屋だったら……公園抜けた先の商店街にあったと思うけど。どうして?」
「お見舞い、行くんです。あの人の。……母の」
伏せた要の目は揺らいでいた。
僕の家に病院から電話がかかってきたことがないため、現状を全く把握していなかった。確かにそろそろ、調子を取り戻している頃かもしれない。
「さっき電話してたのって、病院?」
「はい。容態を聞いてみたら、そろそろ退院できるだろうって。今まで着替えを持っていくことくらいしかしていなかったから、最後くらいちゃんとしようかと」
「そうだったんだね」
「はい。それに……一度はまともに、話をしておかないと、と思って」
拳をきつく握りしめ、唇を噛みしめるその様子には覚悟の色が滲んでいた。
緊張感が部屋を伝う。
「わかった。花屋まで案内するよ」
「お願いします」
ジャンパーを手に取り、自然に羽織ろうとするが上手くいかない。ぎこちない手は思い通りに動いてくれなかった。内心不安に駆られていることを証明させられたようだった。ずっと、彼女の母親が落ち着いたら、言わなければならないと思っていた。
そしてそれは、きっといまなのだ。
僕は心して口を開いた。
「やっぱり、一緒に病院まで行こう」
「え?」
「お母さんに、僕の事ちゃんと説明しないといけないと思う。勝手に要ちゃんの事、預かってるわけだし」
聞いた要は、大きくかぶりを振った。
「いえ!そんなことしなくていいです!私、母にはあの家で独り暮らししてることになってるので。言わなくてもばれないならその方が……」
「言った方がいいと思うけどなぁ。僕は怒られるの覚悟してるから。……要ちゃんも、怒られるかもだけど」
「なんでわざわざ怒られに行くんですか!」
「なんていうか、けじめというか」
「あ、もしかして大学サボる口実だったりして……」
「や、違うから!」
お互い譲らない五分ほどの対決に、最終的に折れたのは要の方だった。唇を尖らせてしょうがなく、といった彼女の調子は、いつの間にか普段通りを取り戻しているようだった。
「だって、お世話になってるから。文句言えないですよ」
諦めて投げやりに放った要に、僕の頬は緩む。
「ふふっ、ありがとう。じゃぁ、行こうか」
なんとなく差しのべた手に、要は大胆にも自分の手を重ねて握りしめた。僕はびくりと反射的に腕を強張らせる。その感覚が伝わったのか、彼女は口角を上げ、意地の悪さを含んだ微笑みを向けた。
「水無瀬さん、行かないんですか?それとも、恥ずかしくて出れないとか……」
「そ、んなわけ、ない。けど、無理に、繋がなくても、みたいな」
言っていてカタコトな自分に余計に落ち込む。だれが見ても意識しているのが露骨にわかる。
当然要にも丸わかりなわけで、さらに強く握りしめられた。
「外、寒いから」
上目づかいって、女子の技だとか言われてる涙を流す行為よりもよっぽど男の心を正確に打ち抜く技だろうと彼は思った。実際胸に感じる締め付けられるような熱い痛みは否定できない。
先ほどとは真逆の、自嘲的な笑みが浮かぶ。
「これ、諦めなきゃダメなパターン?」
「ですね。もしくは病院を諦めてもいいんですよ?」
「それは困るなぁ」
知り合いに会わないことを祈りつつ、外へと踏み出した。結局この戦いに敗れたのは僕の方であったが、だからと言って嫌でしょうがないわけではない。というかどちらかというと嬉しすぎて倒れてしまいそうだったのだ。それを要に悟られたくない一心で否定をしていたが、どうやらもう隠す必要はないみたいだ。
横目で見た要は、鼻歌を歌いながら豊頬を揺らしていた。そんなに純粋に喜びを表に出されると面映ゆい気持ちが湧きあがってくる。気を紛らわそうとそこらにある電柱やら標識やらに目を逸らしていたが、要のくすくすと笑う声が聞こえてすぐにやめた。
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