第39話

 電車を乗り継ぎ、聞いたこともない駅で降りた。手紙の最後に書かれた住所と照らし合わせながら少しづつ歩を進めていく。見上げるほどのビルがいくつも立ち並ぶ景色を目の当たりにし、浮いてないかと服装やらなにやら気になってしまうのを抑えた。


 十分ほど歩いたところで、一面鏡張りのような高級感漂う建物が現れた。どうやらこの中の一室が、四谷先生の仕事場だという。引きつった頬をほぐし、一歩踏み出した。

 広いエレベーターの端っこで時が過ぎるのをひたすら待ち、ようやく部屋の前へたどり着く。震える指で呼び鈴を押すと、中から出てきたのはやせ細った眼鏡の男性だった。


「はい、どちらさまでしょう」

「え、ええと……」


 この場合、何と答えればいいのだろう。考えればアポイントすらとっていない、非常に失礼な訪問だ。


「水無瀬、佑です……」


 よっぽど絵画の世界に詳しい人でなければ、突然名乗られたところで『奇跡の右手』だ、とはならないだろう。少しでも男性が首を傾げるようなら、一度引き返そうと心に決めた。


 だが、向かい合う男性は眼鏡がずり落ちるほど目を見開き、勢いよく息を吸い込んで一歩あとずさりをした。首を傾げたのは僕の方だった。

「少々お待ちください」


 言うなり男性はそそくさと部屋へ戻ってしまった。あれは僕のことを知っていての反応だろうか、と待ち時間にあれこれ考えだす。

 男性はほどなくして再び顔をみせた。この時にはなぜか、僕よりも男性のほうが明らかに緊張しているようだった。額が軽く濡れている。


「ようこそおいで下さいました。どうぞ、お入りください」


 最初の態度と比べて、やけに丁寧だった。あまり気を使われたくはないが、肩をすぼめて素早く中へお邪魔した。


「お待ちしておりました。お久しぶりですね」


 玄関を抜けた先で僕を出迎えたのは、四谷先生だった。


「お久しぶりです。……すみません。突然押し掛けるようなこと」

「いえいえ」四谷先生は嬉しそうに首を振る。「貴方がお越しになることは、おおよそわかっていました」


 えっ、と声をあげる僕に椅子を進め、四谷先生は向かい合うように腰かけた


「決心が、ついたのでしょう?六年前の」

「どうして、それが……」


 四谷先生は目の周りの皺をふやした。「以前大学に伺ったとき、初めてお会いしましたね。その時思ったのです。六年前のあの日以降、絵に対して目も向けることのなかった貴方が少しづつ、向かい合っていることを。だから、あの手紙の相談もそろそろなのではないかと勝手ながら期待を寄せていました」

「そう、だったんですね」


 先生と僕の目の前にコーヒーカップが置かれる。たちまち香ばしい匂いが鼻先まで立ち昇った。四谷先生はカップを手に取ると、香りを楽しんでからゆっくりと口へ運んだ。


 僕はカップの中身を眺めながら、率直に思いを打ち明けた。


「一度断ったことを頼むなんて、非常識なことだと思います。四谷先生に悲しい思いをさせておきながら、再びお願いする身勝手な僕をお許しください」


 僕はごくりと唾を呑み込むと、先生の目を見てはっきりと告げた。


「もう一度僕に、チャンスをいただけないでしょうか」

「チャンス、と言いますと」


 四谷先生の口角は上がっていた。きっとこの瞬間の感情はお互いに一緒のものだろう。わくわくしていた。


「右腕を失った僕に、手を貸してください」


 今の、あるべき姿の水無瀬佑で挑戦して、輝きたい。


「やっと、決断してくれました」


 満足そうに四谷先生は大きく頷くと、ある一枚の紙を差し出した。僕は一礼して宣伝用のチラシと思われるそれに目を通す。一番に目に飛び込んできた大きなフォントに、心臓が飛び出るくらいの衝撃を受け思わず立ち上がった。


「よ、四谷先生、これは……」

「私は自身の勘を信じていますからね。貴方が今年、私の元を訪ねて頂けると。その為に準備を重ねているのは当然です」

「だからって、こんな大胆なこと……。僕が決心しなかったら、どうするおつもりだったんですか」


 四谷先生はなんの問題もないといったように、穏やかに微笑んだ。「その時は、すべて私が責任を取るつもりでしたよ。でもほら、貴方はこうやって現れた。勘というものを信じるのも、悪くはないでしょう?」


 四谷影猪は真の天才だ。

 世界中が口にしたその言葉は、やはり正しかった。


「貴方がここにサインを入れるだけで、多くの人間が最終形態に向けて取り掛かります。さあ、どうぞ」


 左手にペンが握られる。僕は責任の詰まった片腕を眺め、サインをする前に長年引っかかっていた疑問を投げかけた。


「あの、事故後頂いた六年前の手紙を見た時から思ってたんですけど。どうして今の僕を、使ってくれるんですか。”奇跡の右腕”に右腕はもうないというのに」


 要とは違い、僕の過去を知っているのだ。普通なら、売れていた頃にするようなことを、どうしてこの人は今になっても続けようとするのだろう。どうして左手で描いた絵を見てもいないのに期待しているのだろう。


「貴方は自分自身のことをよく理解できていないのかもしれませんね」

「え?」


 四谷先生はカップを机に置いた。その中身は、もう入っていなかった。


「貴方が右腕を失ったところで、あなた自身の魅力はなにも変わっていないのですよ。そしてそれをわかってくれる人は、この世界にたくさんいる」

「たくさん……」

「一度は世界を虜にさせたんですから。昔も今もあなたのファンだと胸を張って言っている人が大勢いるんです」


 そう言ってスマートフォンを取り出すと、SNSを開きある一枚の写真を僕に見せた。


「これは?」

「一年前のものです。あなたのファン同士で集まりあって、あなたの魅力を語り合う会、だそうです」


 写真には男女合わせてざっと五十人ほどが、仲良く写真を撮っている姿が映っていた。中には外国人の姿まである。みんな、僕のファン。


 だが僕が胸を突かれたのは、写真の下に寄せられたファンのコメントだった。


 奇跡の右手はもう終わったと世間はため息をついているようですが、私たちはそうは思いません。先生はこれまで数々の作品で私たちを感動させてくれた絵画の天才です。また機会があれば、先生が挑戦する意思があればどんな形でも脚光を浴びると信じています。

 事故以来、水無瀬先生がどれだけの苦悩を背負ってきたのか、とても想像できません。ですがただ一つ先生に伝えたいことがあるとすれば、私たちはいつまでもあなたのファンでいるということです。どうか先生のペースで、歩き出してください。そしてまた世界を見つめる時間があれば、その時は全力で応援させてください。

                            水無瀬佑ファン一同


「かつて一世を風靡した画家、水無瀬佑の新たな挑戦を、誰もが期待していますよ」


―――なんだ、僕はとんだ、幸せ者じゃないか。


 手紙の最後の文が脳内で繰り返される。それに覆いかぶさるように、四谷先生は再び繰り返した。


「貴方がデビューした三月二十八日、水無瀬佑個展を開催しませんか」

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