第7話
久しぶりの大学は、やけに広く感じた。
体が訛っているのを改めて自覚させられた。こんなに学内を歩くだけで汗を流すとは思わなかった。
家に帰って冷えた床の冷たさに浸り、十分ほどじっとしていた。
少しずつ瞼が閉じそうになっていた時、インターフォンが鳴った。
「今日は、大学行ったんだ」
特に報告することでもないが、彼女がここに来たときはいつも、今日はハンバーグが上手く作れただとか、道端で五百円玉を拾っただとか、コンビニに来た客がめんどくさかっただとか、好きな作家の小説がまだ発売されていなかっただとか、とにかくそんな風にいいことも悪いことも一日の事柄をお互いに語り合っていた。
要は絵に向けていた目をこちらに向けた。やけに嬉しそうだ。
「本当ですか、よかったです!どうでした?久しぶりの大学は」
「講義室に行くだけで疲れたよ」深い息をはいた。
「え、そんなでかい大学行ってるんですか?どこ?」
要は正座したまま、すすすっと距離を詰める。
「僕の体力がないだけだよ。岩城大学だけど、わかる?」
目の前で止まると、僕の顔を見て一層笑顔になった。
「岩城、すごい。水無瀬さん岩城通ってるんですね」
「でも僕文学部だからそうでもないけどね」
僕は笑いながら言い放ったが、要は笑顔のまま、表情が動かなくなった。
「あ、そっか」要はゆっくり顔を下に向けた。
なんとなく、彼女の言いたいことがわかった。
「ごめんね、美術学部じゃないんだ」
岩城大学はなにより美術学科が有名な大学だ。絵が大好きな人なら誰もが知ってる一流の。
もちろん、僕が行ったのは、文学部がある一番家から近い大学を調べたらたまたま岩城がヒットしたからだった。もう描く気は全くないから、美術学科があるからといって避けることなんてないと思った。
ここに決めたのはただそれだけだった。
「ただ、それだけだよ」こんなこと、説明する必要なかったかな。
少しの沈黙の後、
「水無瀬さん。ちがいます、よね」要は今にも泣きそうな声で呟いた。
僕は反射的に顔をあげる。
「ちがうって、何が」
「言おうか迷ったんですけど。私、ここで絵を見てる時、これ見つけたんです。妙に新しいスケッチブックだなって思って」
要が部屋の奥から出してきた少しだけホコリかぶったスケッチブックを見て、息が止まるかと思った。何度も、何度も手にしたことがある、捨てようと。
「それ、は」
口の中が乾ききっていて、言葉がうまくでてこない。
彼女は小さく肩を上げて息を吸い、僕の目をしっかりと捉えた。
すでに目には涙が零れそうなくらい溜まっていた。
「私、初めてここに来たとき、違和感を感じたんです。自分の持ってる水無瀬さんの絵と、ここに飾られてる絵は全然描き方が違うって。それで、水無瀬さんが最初に会った時に言ってた、『奇跡の右手』って、調べたんです。ここにある絵は全部右手で描かれていること、水無瀬さんが事故で、右腕を失ったこと……。いろいろ疑問だったことが繋がりました」
要は改めてスケッチブックに目をやる。
「水無瀬さんが事故にあったのは五年前、中学三年の五月ですよね。でも、このスケッチブックの最後の絵だけ、日付が事故から三年後になってました」
スケッチブックの最後のページをめくり、彼に向けて見せた。
手が震えていた。要も、僕も。
「大学受験を考えていた頃、ほんとは行きたいって思ってましたよね。だからこの絵、描いたんじゃないですか?」
「そんなの、絵って言わないから」
「鉛筆で描かれててもわかります。ここに描かれてるの、岩城大学の美術学部の教室の模写ですよね」
汗が、膝に零れた。要は話を止めない。
「水無瀬さんはホントは左手でも描けるんです。ただ右手と比べて少し劣っているだけで描けないって思いこんでるんです。だって私は、水無瀬さんの左手で描いたこの絵に惹かれたんですよ!誰かの気持ちを動かすことのできる絵を描くなんて、普通の人じゃできません。だから、あなたはまだ諦めなくても……」
「もうやめろ!」
要の言葉を遮るように、僕は絶叫していた。
同時に、左手でスケッチブックを思いっきり払い飛ばした。
こんな絵、もう見たくなかったのに。
絵をしっかりと握っていた要は、持ったままスケッチブックと一緒に床に倒れこんだ。ゴン、と頭を打ちつけた音とともに床が揺れる。
目が覚める。僕は自分が何をしたか理解した。
「要ちゃん……?ごめ、ごめん」
要のもとに駆け寄り、起こそうと手を差し出した。
要はこけた拍子に制服のリボンが外れ、シャツの中がほんの少しだけ見える状態になっていた。
「え」
無意識に声を出してしまっていた。
要の鎖骨のあたりに、丸い火傷の跡が見えたのだ。
一つではない。
皮膚の色かと疑うほどのそれが、何か所も。一瞬、体が固まった。
「はー、はー、は」
要は上半身だけ起き上がると、慌てて自分の胸元のシャツを握りしめて隠した。
肩で大きく呼吸を繰り返していた。
両手が震えている。
顔は乱れた髪で隠れていて見えない。
「か、要ちゃん」
「はーっ、はーっ、はーっ…」
もう過呼吸状態だった。
僕は立ち上がり部屋の中を見渡す。どうしよう、たしか袋は使わないほうがいいって聞いた気が、
「…ごめんなさい」
消えそうな声で呟いたと同時に、要はよろけながらも立ち上がりドアまで走って行った。
「あっ」
振り返ったときにはすでに、要は部屋から出て行っていた。
目に溜めた大量の涙を一滴も流すことなく、出ていった。
僕は足に力が入らなかった。
追いかけることもできず、ただドアを見つめて立ち尽くすばかりだった。
握りしめた左手に、さらに力が加わっていく。
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