第8話

 毎週火曜と木曜の夜六時から十時までは、バイトの予定が入っていた。


 僕はほとんどレジ業務だが、いまだに客から向けられる視線には慣れなかった。片手だし、商品とか落とされたりしたらやだわ。とか、急いでるから他の人にやってもらおう。とか。目の前で堂々と言われたわけではないが、陰口は言われるとわかって聞いていると意外とすんなり聞こえるものなのだ。特別耳がいいわけではない。


 ここに来て働くたびに、要がどれだけいい子なのかを実感する。

 公園の前で会ったあの日、彼女は少しも顔を歪めることなく接してくれた。

 彼女と話しているときは、右腕がないことを忘れるほど普通の人になれた気がした。


 ――それは……見たらわかります


 あの言葉、結構良かったな。初めて会って話した時の、要ちゃん。

 直球でぶつけてくるところ、宏斗に似てる。


 要ちゃん、大丈夫かな。


 突き飛ばしてしまったあの日から、二日がたった。

 毎日来ていたのがパッタリとなくなり、この二日間は静かなアトリエで、僕は一人で絵を眺めていた。そうやって一人でいるとふと、自然と絵に向き合っている自分がいることに気づいた。


 今まであんなに絵を見ることが嫌で嫌で仕方がなかったのに。

 いつから自ら見上げることが当たり前になったんだろう。

 こんなこと、昔の自分じゃ絶対にありえなかった。


 あのとき要に出会ったことは、ずいぶん大きい。


 でもどれだけ謝りたくても、どれだけ感謝したくても、彼女の家も、学校も、電話番号も、彼は何一つ知らなかった。あんなに毎日話していたのに、要のことを何も知らない。


 このままいつまでも来なかったらどうしよう。

 そう思っても、ただ待つことしかできない自分が憎かった。


「すみません」


 いつの間にか、困り顔のお客さんが目の前で商品を手にしていた。


「あ、はい」


 だめだ、考えだすと止まらない。

 一度頬を軽く叩いて、頭を振ってから再び仕事へと切り替えた。


 その数時間後、再び別の世界に思考が飛んでからは、お客さんは僕の前に現れなかった。

 あっという間に就業の時間が訪れる。


「水無瀬くん」


 裏のロッカールームで着替えをしていると、後ろから声を掛けられた。

 渋くゆったりとしたこの声は、店長だ。もしかして、今日の業務態度について怒られるんじゃないかと目を伏せたとき。


「なにか、悩みでもあった?」

「へ?」


 素っ頓狂な声が出てしまった。悩み?


「君はわかりやすいからね。今日の水無瀬くんを見て、なにかあるなと思ったんだけど、違った?」


 店長が微笑むのがわかった。皺が増えていく。


「いや、何も」


 僕の言葉を聞いて、店長はそうか、そうかと二度うなずき、隣の開いていたロッカーを優しく閉めてから、裏口に向かう。


 僕は勢いよくロッカーを閉めた。ガコンッと音を立てる。


「あの!」


 店長は足を止め、ゆっくりとした動作で振り返る。

 唾を飲み込んだ。


「もし、もし、僕に謝りたい相手がいて、でもその人はどこにいるのかわからなくて、そんな時、どうしたらいいと思いますか」


 店長は、しどろもどろだった僕の話を、相槌を打ちながら聞いてくれた。

 だんだん心が落ち着いてくる。


「やっぱり、待ってるのが一番いいんですかね」

「確かに、待つのも一つの手かもしれない」


 だけど、と言って少し瞼を上げる。「私ならね、待つことをえらんでしまったら、相手がもし戻ってこなかった時、何もしなかった自分を責める気がするんだよ」


 店長は皺を掻いて続けた。


「だから、足が棒になるまで探して探して、それでも見つからなかったとなったら潔く諦められると思うんだ」


 もちろん探し出せることが一番だけどね、と店長は笑った。


 僕は店長の考えに強く頷いていた。

 腰を折って深くお礼を告げると、弾かれたように走り出した。


 店を出た時には、すでに時刻は午後の十時半だった。

 こんな時間に女子高生が外に出歩くことはないだろうと思いながらも、東田公園や近所の住宅街など思いつく限りの場所を走って回った。

 途中で分厚いコートも蒸し暑く感じ、脱いでいた。


 結局、小一時間は探し回った。

 おぼつかない足取りで公園までたどり着き、ベンチに腰かけた。顔の前で白い息が広がる。


 空を見上げた。

 無数の小さな星が光っていた。


 突然、空っぽの頭に最後に見た要の後ろ姿がよぎった。

 あのとき、無理にでも足を動かして追いかけていれば。

 そんなことを考えて唇を噛み、また疲れ切った足を動かした。


 熱い体に冷たい風が刺さる。


 要ちゃんに会いたい。

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