第9話

 五日が、立っていた。


「もう諦めたら?」

「しか、ないのか……」


 全身筋肉痛の体を労わりながら嘆息をつく。


「そんだけ来ないんなら、もう佑に会いたくないってことかもしれないし」

 宏斗はお盆を適当なテーブルに置いて、腰掛ける。


「そうだよなぁ。そろそろ現実見ないとだめだよね」


 目の前のカレーをつつく。

 中には未だに克服できないピーマンが入っている。


「今日で終わりにするべき、かな」


 宏斗はでっかいから揚げを頬張る。

「いいんじゃね」


 そう言って二個目を頬張った。


 佑はルーを口に運ぶ。大学の食堂を使うのは今日で二日目だ。

 ここの味はまだ慣れていなかった。


 食事を終えてから何コマか授業を受け、課題を提出したりとやるべきことを終えて大学を出るころには午後の六時になっていた。冬は六時でも立派に暗い。

 見えづらくなったバスの時刻表に目を凝らす。


 帰りのバスは十分遅れで到着した。

 いつもの運転手が開いているのかわからないような目でハンドルを回している。

 僕は一番後ろの席に腰を落ち着かせた。

 車内には僕と運転手以外、誰もいない。


 バスは国道三号線を通り、最寄りのバス停に近づいていく。停車ボタンを車内に響かせた。お金を払って下車し、アトリエに向かって歩き出す。

 その途中にある一軒の家から、びくりと肩が揺れるほど大きな物音が聞こえた。


 振り返りなんとなく目に留まった表札に、身が固まるような感覚が襲う。


「梨谷」と、表札には書かれていた。

 うそ、もしかして。梨谷なんて名字あまり聞かないし、ここアトリエの近くだし。偶然、見つけてしまったのかもしれない。


 家の前で立ちすくんでいると、玄関のドアが開いて、男性が一人出てきた。財布を広げて中を覗きこんでいる。


「あのババア、金取りすぎだろ。クッソ」


 呟いて足元に唾を吐いた。財布をポケットに突っ込み、横を通りぬけていく。

 酒とたばこの臭いがした。

 お父さん、ではない気がする。


 とにかく、ここに突っ立っていてもしょうがない。今日は一旦帰ろう。

 どうせインターフォンを押す勇気なんてないのだから。


 アトリエに戻り、階段を上る。

 やっぱ、インターフォン押しとけばよかったかな。いやでも、家を特定したみたいになったら嫌だし、何もしなくて正解だったのかも……。

 いろんな考えが頭を回り回り、危うく足を踏み外しそうになったときだった。


「あ」


 え。

 頭上で声がした。顔を上げると、僕がずっと探していた顔があった。


「この間は、ごめんなさい!」


 アトリエのど真ん中で僕は頭を下げた。


「いくらイライラしたからって、要ちゃんのこと突き飛ばすなんて最低なことをした。本当にごめんなさい」


 あの、と言って要は肩に手を置く。「顔、あげてください」


「でも、痛い思いさせたよね。傷とか、できてしまってるんじゃ……」

「ほら、なにもないですよ。だから大丈夫。私は全然気にしてません」


 ゆっくりと顔をあげ、ほら、と促す要の姿を見回し、深く息を吐いた。

 要は指をいじり、もごもごと口を動かす。


「私が絵を描いてほしいって自分勝手な思いで、ズカズカ踏み込むようなこと言ってしまいました。あんなの怒って当然です」


 そして僕と同じように頭を下げた。「ごめんなさい」

「今まで水無瀬さんに会いに行かなかったのは、」


 そこまで言うと、要は深呼吸を繰り返す。

 吐いた息は、若干震えていた。

 ぎこちない動きで通学バックを床に置き、制服のブレザーを脱いでシャツの第三ボタンで開けた。


「あの日、私が倒れた時。この跡見たでしょ」


 そう言って鎖骨のあたりを手で撫でる。

 僕は少しだけそれを見ると、目線を反らして頷いた。


「これを見られたから、引かれてたらどうしようとかそんなことばっか考えて、会いに行く勇気がなかった、です」


 久しぶりに会えた喜びだけで終われず、複雑な気持ちが絡んで胸苦しい。

 火傷の跡を見た時おかしいとは思っていたが、彼女が頭を悩ます原因になっていたことなんてみじんも考えなかった。浅はかな自分の脳みそを殴りたい。


 目を反らさず、向き合わなければ。距離を詰め、しっかりと目に焼き付けた。


「僕は引かないよ。絶対」


 要は俯いたまま動かなかった。

 こんな信用に欠けたセリフ、何度も言われたことがあるのかもしれない。だけど、僕には僕にしか言えない根拠がある。

だって、


「だって、僕も気持ちわかるから」


 ようやく要は顔を上げた。


 僕の立つ位置からは、アトリエの大きな丸窓に反射された自分の体が映っていた。

 右腕がない不格好な姿に今更ながら苦笑した。

 要もそれに気づき、窓の方を振り返る。


 一緒に窓に映る自身を眺める。


「似てるのかもね。僕と要ちゃん」

「そっくり、ですね」


 窓には火傷を負った女と、腕を失った男が、映っていた。

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