第24話

 私は目を擦りながらアトリエを離れ、トイレへと足を運んだ。用を足して部屋の時計を確認する。ひたすら立っていたことで時間の間隔がなくなっていたが、まだ十二時であったことに目を丸くした。


 台所へ向かった。昨日の残りのご飯をあっためて、熱さに片眼をつぶりながらラップの中のご飯を手の中でくるくると三角の形に仕上げる。おにぎり四つで、ご飯はなくなった。

 お皿に乗せてアトリエの扉を開けようとしたとき、声が聞こえた。


 背中を向けている佑の、ううう、と唸り苦しむような声。

 一瞬、足が止まった。

 きいたことのない声。湧き上がってくるような、痛い声。


 私は目を瞑り、ゆっくりとアトリエの扉を開けた。

 丸まった佑の背中が目に映る。

 彼の隣に皿を置き、また窓の前に立った。佑は、私が戻ってきたことに気づかないのだろうか。


 俯いている。

 俯いてきっと、涙を流している。


 いつの日か、質問したことがあった。

 絵を描いている人は、なにを思いながら描いているんですか、と。



「描いているものによって、描いている人によって、考えていることは全然違うと思うよ」

「じゃ、たとえば……」


 私はアトリエの絵の一つを手に取り、佑の前に掲げた。


「これを描いていたときは、どうでしたか?」


 遊園地のコーヒーカップで丸くなって眠る少年、少女の絵が描かれている。

 柵の外には撮影に夢中な親たちの姿もあった。


「あぁ、これは中学二年のときに描いたやつだね。このときはすっごく感情が不安定で、荒れてたんだ。僕は本当に絵が上手いんだろうかって迷走しちゃって」

「反抗期、って感じですかね?」

「そんな感じ。そのときたまたま友達に遊園地に連れて行かされてさ、回るコーヒーカップをみて、思ったんだ。僕に似てるなぁって。おんなじ所をくるくるまわって、それを眺める大人たちの顔色を伺って。それがムカついてムカついて、でも感情をぶちまける方法が絵を描く以外に思いつかなくて、唇から血が出るほど噛みしめながら描き上げてたよ」

「私には計り知れないくらいの苦労が、この絵には詰まっていたんですね」

「でも、追い詰められて描いていたこの絵にも、楽しいって思う瞬間はたくさんあったよ。画家にかかわらずに、小説家とかアスリートにだって続けていたら絶対に壁にぶち当たることってあって、それは避けられないものなんだけど、自分の力で壁を壊して突き進んでいった先には尋常じゃないくらいの”楽しい”がこみ上げるんだよね。僕はきっと、その感覚にいつまでも浸かっていたくて、あのころ夢中で絵を描いていたんだと思う」



 あの真っすぐな瞳が、今でも忘れられない。



 時刻は十二時二十分。


 彼はいま、壁にぶつかっている。月が消えかけるこの時間が、怖くて仕方がないのかもしれない。光がなくなってしまえば、あとは彼の記憶のみで描かなければいけないこの状況に、怯えているのかもしれない。


 でも、いまここで止まったら――


「一生後悔しちゃう」


 思わずこぼれた私の言葉に、佑はゆっくりと顔をあげた。

 その潤んだ瞳は涙でいっぱいで、月も、私のことも、見えていない。


 お願いします。私のことを見てください。

 あと少しの時間で、あなたの記憶にこびりついて離れないくらい、見つめてください。


 どうか。


 佑はおおきく息を吸い込んだ。そのわずかな音ですら、震えていた。

 それから、筆を置いて、袖で涙を拭いた。


 みえるまで、なんども、なんども拭いた。


 濡れた袖をさらに濡らす佑に、私は駆け寄り、ハンカチを差し出した。


 やっと目が合った。


 佑はハンカチを受け取ると、すべてを拭った重いハンカチを返した。

 私はそれを握りしめ、なにも言葉をかけずただ頷いた。

 佑も再び筆をとると、大きく頷く。


 月に目を向けながら、私は初めて訪れた感覚にそわそわしていた。

 キャンパスを擦る筆の音が心地いい。


 なんだろう、これは。むず痒い。


 チラリと佑の方へ目を向ける。必死な表情で、真剣な眼差しで、でもどこか楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。こんなに寒いのに汗を流してキャンパスに向かう佑の姿が、私にとっては何よりも綺麗なものにみえた。


 時間はあっという間に過ぎていく。

 雲が少しずつ影を作り、月に迫った。


「あっ」


 最後は一瞬だった。なんの未練もないように、簡単に月は姿を消した。

 アトリエの中が真っ暗になる。私は手探りで近くの玄関照明をつけた。


「私、まだ眠くないけど……」


 だが佑は首を横に振った。


「ううん。ここまで本当にありがとう。ゆっくり休んで。明日には必ず、完成した絵を見せるから」


 冷えた手に佑の汗ばんだ熱い手が重なる。

 じっとりと濡れた私の右手は指先まであったまって、少しばかり感じていた心配が溶けた。

 私は大きく息を吸い込む。


「また、あした」

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