第23話
テレビはあまり見るほうではないが、ドラマ好きの宏斗がたまには見ろと推してくるので、その日は僕の家で久しぶりにタレントの声が流れた。
二人で鍋をつつきながら、チャンネルを適当に変えていく。
ある番組のボタンを押したところで要が「あ!」と叫んで彼の手を止めた。
「スーパームーン、見れるんだ」
画面内の女性アナウンサーがにこやかに伝えているのは、今日の十一時過ぎから普通の十四倍もの大きさの月、つまり「スーパームーン」が見れるという情報だった。
このテレビに要は珍しく釘づけになっていた。まだ、見たことがないのかも知れない。
ちなみに僕は中学生の頃に初めてスーパームーンを見たのだが、そのあまりの大きさと迫力に圧倒され、今にも落ちてきてしまうのではないかと焦った覚えがある。窓枠いっぱいに現れたそれは、僕の記憶に深く刻まれていた。
要はしばらく画面を見つめた後、鍋を勢いよく食べ食器を片付けると、すぐさま風呂に入り十分足らずで出てきた。どうやら月が現れる十一時までに全て済ませるようだ。歯磨きを終えて濡れた髪を軽く櫛で梳かす。
ドライヤーに手をかけた要に時刻が十時五十五分だと告げると諦めてアトリエに駆け込んだ。
窓の前で三角座りをし、じっと空を見上げていた。
僕も久しぶりに眺めようとアトリエに足を運ぶ。
ドアを閉めたところで掛け時計がポーンと十一時を示した。
要は静かに立ち上がり、引き寄せられるように窓の縁に手を掛けた。
僕も首を伸ばして覗く。
六年ぶりの感動が、今蘇った。
雲間から現れた月は、黄金色に光輝いていた。
それは希望に満ちた中学時代に見たものと何も変わっていなかった。もしかしたらいま、自分は将来に希望を抱き始めているのかもしれないと思うと、懐かしさと嬉しさで思わず笑みがこぼれる。
充分に思い出を堪能したところでそろそろ隣室に戻ろうとドアノブを握ったところで、なんとなく振り返った。
要が、月を眺めていた。
ただそれだけだったのだが、僕の中でまた別の記憶が引き出された。今目の前に見えている景色は、昔思い描いたあれと重なって見えた。
「月下美人」
たしか、ローウェル美術コンクールで十三歳の時に大賞を受賞した時の絵だ。あの絵の女性のように要は髪が長いわけでも、白いドレスを着ているわけでもない。
だが、これは僕がまさに描きたかった理想だ。
表情だって全然違う。
あの絵ではつんとどこか遠くを眺めていたのだが、要はまるで待ち焦がれていた憧れの人に出会ったかのように頬をピンクに染め、キラキラとした目で見つめていた。その要を照らす月の光が相俟って、視界に映る景色が幻想的で、眩しかった。
愛おしい、と思った。
ごくりと唾を飲み込んだ。居ても立っても居られず、棚から真っ白なキャンパスと鉛筆を取り出していた。何も考えず、左手の指先に力を込める。
しばらくたってから、要が僕の行動に気づいて視線を向けた。口をパクパクさせている。そういえば、絵を描いている姿を見せるのは初めてだったな。
「動かないで」
キャンパスに目を向けたまま要に告げた。要は状況をすぐに飲み込んだのか、二度ほどうなずいて、また元の姿勢に戻った。
こんなにも欲に駆られて筆をとったことなどあっただろうか。今の僕にはただ一つ、彼女を描きたいというその欲だけが左手を動かしていた。
それから十分ほど、アトリエには鉛筆がキャンパスを擦る音だけが響いていた。キャンパスと要を交互に目に映し、線を描いていく。簡単な形を描いたところで、彼は鉛筆を離した。
「もういいよ、ありがとう」
「もうできたの?」
「下書き程度だよ」そう言って要の方にそれを向ける。
要は一目見て「すごい」と吐息のように声を漏らす。
「これが、形になっていくんだね」
期待に溢れた要の表情にほっと息をつく。
僕も内心、この絵がどのように進化していくのか、わくわくが止まらなかった。
「完成、させたいなぁ」
「私も、スーパームーンの光の優しさとか、私の表情とか、水無瀬さんがどんな風に絵で表現するのか、見たくて見たくてたまりません」
要が期待してくれていることに胸が高まる。
「でもスーパームーンって、十二時半までしか見れないって言ってなかったっけ」
「そうなんですか!?」
要は嘆息をついた。
「こんな短時間じゃ、厳しいですよね」
「うーん。確かに最後まで見ながら描き上げることはできないね。描くスピードも右手に比べたら明らかに落ちてる」
「そっかぁ。そうですよね」
要は立ち上がると、ぱたぱたと窓に駆け寄り先ほどと同じ位置に戻った。顔を上げ、踵を伸ばして月の光を浴びる。
「じゃぁ、いまのうちに目に焼き付けておかないと」
髪から滑り落ちた雫が首筋のあたりで光った。
このまま、未完成な下書きのまま、この絵を終わらせてもいいのだろうか。こんなにも筆を握りたいと思ったことなんてないのに。こんなにもこの景色を残しておきたいと思ったことなんてないのに。
どうしようもなく、いま君の絵が描きたいのに。
ふっと、笑いが吐き出す。
無理だ。止められない
「要ちゃん。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
乾燥した唇を舐める。
「スーパームーンが落ちる時間まででいいから、僕に、付き合ってください」
「え……」
要は瞬きを繰り返すと、慎重に言葉を放った。
「描けるところまで、挑戦するということですか」
「ううん。ちがう」
僕は立ち上がると、羽織っていたパーカーを脱いで要の背中に掛けた。
「絶対に描き上げるよ。約束する。たとえ時間が足りなかったとして、月が見えなくなってしまっても大丈夫。それまでに僕の目に、この景色を焼き付けておくから」
要はパーカーの裾を握りその温もりに顔を寄せると、また空を仰いだ。
「水無瀬さん、鉛筆を持ってください。……月は、待ってくれないんでしょ?」
僕も眩しい光に目を当てた。拳を握りしめ、大きく頷く。
キャンパスの前に再び戻ってからは、ただひたすらに、描き続けた。
どうか、少しでも長く。
近いようで遠い月に思いが届くのはいつだろう。
そんなことを考えながら、ともに静かな夜が始まった。
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