第25話

 鈍い音がして、目が覚めた。


 布団を剥いで時計を確認する。深夜三時過ぎだった。

 鈍い音が再び耳をつく。

 私はベッドから降り、足音を殺してアトリエに耳を当てた途端、何かが床を打ち付ける音が五度六度と静かな部屋に痛ましく響いた。驚いて仰け反り、尻餅をついた。


「水無瀬さん……」


 腰を引きずり、恐る恐るアトリエの扉に近付き中を覗く。

 肩を震わせ暗涙に咽ぶ姿が窺えた。

 佑の前には二つ目の壁が立ちふさがっているのだと気づいた。それよりも私が目を剥いたのは、懊悩する彼の左手が、確実に一本一本線を引いていたのだ。


 見えない壁が、硬く冷たい壁が、少しずつ崩れていくのがわかる。私は胸の前で両手を重ね合わせ、目を瞑った。


 祈ることしかできないのなら、せめて。


 床を打ち付けては筆を握り、掠り声をあげて泣いては筆を握りを繰り返した。睡魔に襲われそうな朦朧とした意識の中で、私の頭にはこれまでの佑との思い出がぽつりと降ってきた。



 最初に出会ったときの水無瀬さんは、とにかく絵から遠ざかることしか考えていなかった。


「絵、嫌いになったんですか?」

「うん。嫌いになったから、かな」


 私の持っていた絵から目を背き、左手の可能性を見つけようとしなかった。それがすごく悔しくて、どうしても自分の魅力に気づいてほしかった。


 胸を奥底を捉えた絵があった。だからこの絵すきですって伝えたら、照れた顔して小さな声でありがとうって言われた。


 拾った絵を持ってきた。


「絵の中で、この花を元気にしようとしてる要ちゃんを描いたらすっごく素敵な絵になりそう。花も元気になるよ。どうかな?」


 水無瀬さんは見たことのない笑顔でアイディアを出してくれた。

 この人は鈍感で不器用な人なのだと知った。

 だから大声で、水無瀬さんはまだ絵が大好きだって言ってやった。いわれた後の水無瀬さんの妙にすっきりしたような顔に、彼は正直で純粋な人だと、また知れた。


「誰にも共感されなかった自分の絵に感動して、ずっと持っていてくれる人が一人だけでもいることが、こんなに嬉しいことだなんて知らなかったんだ」


「要ちゃんがいれば、僕はずっとこの絵が好きでいられるんだ。だから、さ」


「隣に、いてほしい」


 あの瞬間、私が感極まって泣いたことなんて、知らないでしょ?

きっとこれからもあの感動は、私だけが秘めておきたい。


「水無瀬さん……描いたんですか」

「う、うん」


 はじめて描いてくれたとき。卒倒しそうなくらい喜びが溢れて止まらなかった。タイミングよく鐘が鳴って、こんなに幸せな奇跡があるんだって教えてくれた。


 あの時佑の前に立ちふさがった壁は、きっと痣ができるくらい痛かったはず。


 だってあの絵を私に見せてくれた時の声が明らかに跳ねていて、ふと描いたときのことを思い出してはにやけてた。


「頑張って、よかった」


 あの言葉が反芻してやまない。

 自分の力で乗り越えた彼に、私は深い愛に溺れたように目頭が熱くなって、視界から外すことができなくなった。


 それくらい、恰好よかった。


 また、見せてくれませんか。



 手首につけた腕時計の文字盤をめくる。

 皮膚の引っ掻き跡はだいぶひいていた。


 回想が消えてふと思ったことがある。要はこれまで必ず、どんなときでも曲げなかった信念がある。


 水無瀬佑を信じること。


 これはきっと私の強みなのだと言い聞かせ、そして今日また、彼を信じることにめいっぱい体力を使おう。何時間たっても佑がめげそうにしていたら、私は何時間でもその分笑って過ごせる未来を信じ続けよう。


 それが、私が存在する意味のすべてだとしたら。


 私は幸せだ。


 佑が汗を流して戦う時間が、私が祈る時間が、刻々と過ぎていった。

 ゆっくりと空に明るい色が差していく。小鳥の会話がところどころで始まり、新聞配達のバイクが家の前を通り過ぎた。


 わずかにかさりと紙が擦れる音がした。私は顔を上げ、アトリエに目を向けた。薄く日の流れ込んだアトリエで、佑はおにぎりを手にしていた。もう冷めてしまったであろう最後の一つを、大事そうに、噛みしめていた。


 全部、食べてくれてる。


 佑の背中の隙間から、ちらりと絵が覗いた。はっきりとは見えないが、右下の方に細く黒い線でサインが入っている。


「描き、あげたんだ……」


 肩の力がどっと抜ける。

 扉に背を向け、大きく息を吐いた。安堵の涙が零れ落ちる。頭がうまく働かない。


 まただ。彼とともに一つ目の壁を破った後にもでてきた、この感情。

 私は胸を抑え、漏れ出る口元の笑みはそのままに、重たい瞼をゆっくりと閉じた。


 水無瀬さん、絵を描く人に”楽しい”感情がこみ上げるように、近くで祈っていた私にもきましたよ。脳が痺れて、ふわふわと浮いたような、いままで知らなかった感情が。


 広くあたたかい夢の中で、私はその感情の名前を探した。

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