第26話

 ふんわりと暖かいなにかに包まれる。

 その心地よさの正体が知りたくて、私は目を開けた。


「あ、おはよう」


 佑が私の体に毛布を被せようとしたところだった。慌てて体を起こす。どうやら床でそのまま突っ伏して寝てしまったようだ。


「おはよう、ございます」


 疲労の溜まった重たい体を持ち上げる。

 なんでこんなところで寝ていたんだっけ、と後頭部を掻く。


「僕もいまちょうど起きたばかりなんだけど……みる?」


 佑はアトリエの方を向いてから、私に目配せした。

 私の記憶は一瞬で引き戻される。


「み、みます!」


 二人でアトリエへ移動する。緊張気味の佑の隣に座り、その絵に顔を近づける。


「どう、かな」


 私の反応を窺うように佑は顔を覗き込んだ。


「僕は、すごく自信があるんだけど」


 目に移りこんだ女性は、私なのだろうか。

 疑いたくなるほど、それは綺麗だった。

 絵の中の女性は透き通りそうなほど磨かれた丸い窓ガラスに手のひらを合わせ、まるで月に恋をしているように熱っぽく見つめていた。やんわりと部屋に光を落とす月が絵全体を優しく包んでいるようで、落ち着く空間になっている。


 佑の感じていた左腕への不安感など、この絵には一切感じられなかった。確かにところどころ線が戸惑っているように見えるが、それがより夜の不穏さを醸し出していて好きだった。


「これ、本当に私……」


 自分自身に見とれるなんて変な言いようだが、そうなってしまったのだからしょうがない。私はこの女性から、この絵から目が離せなくなった。次第に視界がぼやけ、絵が細部まで見えなくなった。


「要ちゃん、泣いてくれてる?」


 じわじわとこみ上げてくるそれが、涙だとやっと気づいた。慌てて目の縁を手で拭う。再び周りが見え始めたところで、振り返っていた佑と見合う形になった。

 あたたかさに満ちた佑の表情に、どきりと胸が鳴る。


「この絵、気に入ってくれた?」


 私はめいっぱい首を縦に振った。彼は私の必死さに、照れながらも笑った。

 その優しい表情がすきで、私も笑みが溢れる。


「水無瀬さん、絵ちょっとは好きになりました?」


 そこで弱気な発言をしたら、私は言ってやろうと思った。絵を描いている時の時折みせる嬉しそうな表情だとか、描く前のわくわくするって言ってたあの言葉だとか、言いくるめる反撃のセリフならいくらでも思いつく。そこで今度こそ、絵が好きだと自覚してもらおうと思っていた。

 だからこんなことされるなんて予想外で、私の体はカチンコチンに固まっていた。


 強く、抱きしめられたのだ。


 反射的に息が止まった。


 佑は耳元で言った。


「僕から絵を取ることなんて無理だったみたい。この二日間、すごく楽しかった。もちろん苦しさの方がたくさん味わったけどさ、でもなぜか、喜びの方が大きいんだよ。達成感っていうのかな」


 密着した体が、熱い。

 だけどそんなことなんて一切感じさせなくなるほど、佑は私がずっと言ってほしくて待ち焦がれていた言葉を口にした。


「僕は、絵が好きだ。また好きになれたんだ」


 ありがとう、と言って、佑はゆっくりと体を離した。

 私はもう嬉しくて嬉しくて、変な声を上げて泣きそうになった。


 やっと聞けた。


 目を閉じ、心の中でその言葉を復唱する。

 夢じゃない。

 彼の少し低くて優しさの籠った声で言ったその一言を、一生忘れるものかと心に誓った。


 離れたあとも、後ろに回った佑の手は解かれなかった。だからお互いの距離が五センチほどになったところで、彼のさじ加減で再び私の体は固定された。鼻と鼻の先がぶつかりそうだった。

 こんなに近いのに、私は目を離せなかった。佑もじっと要の目を見つめる。


 彼が何をしたいのかわからなくて、先ほどの感動が一瞬で不安へと変わっていった。どうしたらいいんだろう。男の人とこんな距離になったことなんてないから、余計に混乱した。


 見つめられている緊張で、体中を熱いものがめぐるような感覚に襲われた。いつまでそうしていただろう。心臓がもたないと思いはじめた頃、彼は手を回したまま一定の距離に離してくれた。やっと普段くらいの間隔に保たれ、疲れて深いため息がこぼれる。


 再び佑と目をあわせると、なぜかとても真剣な顔つきをしていた。そして、


「一緒に暮らそう」


 と、言われた。


 おそらく私はこの時、とんでもなくバカみたいな顔をしていたことだろう。唐突に告げられた言葉に、鼓動だけが早まる。何も考える隙を与えず、佑は二言目を発した。


「ずっと、考えてたんだ。あの時――要ちゃんのお母さんが入院した日から要ちゃんはずっとここに泊ってるでしょ。でも暮らしてるわけじゃないから、毎日「泊らせてください」って僕に毎回頭を下げてくれるけど、それってなんか堅苦しいっていうか。要ちゃんが楽になる場所がないんじゃないかなって思ってて」


 その喋り方はたどたどしくて、でもどこか必死だった。


「あっでも!僕はもともと知り合いでもなんでもないただの大学生の、しかも男だから、一緒に暮らすって言われると抵抗があるって思うなら今までのままでいい!ただ、今まで要ちゃんの判断でここに泊ってくれてたから、僕もここに泊りたいって思ってくれてるのかなってちょっと自惚れてて。あー、考えまとまってなくて、ごめん」


 佑は頭を振る。


「つまり、さ。この家が要ちゃんにとって、何のためらいもなく帰れる場所になったらいいなって思ったんだ。そうするには、一緒に暮らすって考えが浮かんだんだけど……要ちゃんは……」


 次の言葉が、なかなか出てこないようだった。言いたいことはわかっている。彼は少し恥ずかしがり屋なのだ。私は佑の考えをすくって真っ先に答えを出した。


「一緒に暮らしたいです。水無瀬さんと、一緒に」


 声が震えずに出せた。要もどことなく気恥ずかしかったのだ。佑はひどく驚いた顔をしていた。それをみて私はまた笑う。


 前にも一度こんなことがあったと私は思い出す。彼がなかなか言い出せずにいて、私が先を越して言っちゃうこと。こういうときの佑は、初めて大きなステージに立った子供みたいに萎縮していて、なんだか守ってあげたい気持ちになるのだ。母性本能?と言うのだろうか。


「要ちゃんには、かなわないなぁ」

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ」


 くすくすと笑うと、佑は背中に回していた手をようやく離した。

 じんわりと温もりが溶けていく。


 佑は勢いよく息を吸うと、立ち上がり「さあ!」と言って手を叩いた。


「ご飯、たべよっか」


 私も頷き立ち上がる。「はいっ」


「今日は僕が作るよ」

「ええ!だめですよ、水無瀬さん一日頑張ってたんだから」

「それは要ちゃんだって同じでしょ」


 え、と佑の顔を二度見した。

 佑は汗で濡れてよれた私の前髪をみて苦笑した。


「一緒に、頑張ってくれてありがとう」


 私は慌てておでこに手を当てる。


「……気づいてたんですか」

「床で寝てる姿みてたらわかるよ。……あ、それと」

「それと?」

「おにぎり、美味しかった」


 目にクマを乗せて、今日の空のように曇りのない晴れやかな微笑みをみせた。

胸が大きく揺さぶられる。

 ゆらりゆられて私は視線を足元に移動させた。


「二人で、作りましょ」

「うん、そうしよう」


 絵の中の私は、淡く光る月にいつまでも甘い感情を抱いていた。

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