第27話
無駄に広い多目的スペースの壁に貼られた掲示板の広告の一つを、僕は食い入るように見つめていた。
上部に大きく「日本最高峰の画家、四谷影猪先生来校」と書かれている。
完璧に忘れていた。いつか来ることは聞いていたが、まさか今日だとは。
広告には、五時に美術学部の第一教室で講演その他作品の採点をしてもらうことになっていた。腕時計をもう一度確認する。何度見ても、時刻は六時を過ぎていた。
長いため息がこぼれる。どうして朝のうちに見ておかなかったのだろう。一時間も立っていればさすがにもう帰っているだろう。
昨日描いた絵は、宏斗に見せようと持ってきていたのだ。時間さえ間に合っていれば会えたかもしれないと肩を落とす。
仕方なく帰ろうとして回れ右をすると、真正面に立っていた誰かに激突してしまった。驚いて体をのけ反る。
背の高いその人を見上げて、僕は声をあげそうになった。
「よ、四谷、先生……?」
何度も雑誌やテレビで見たあの顔が、目の前にあった。信じられない光景に目を疑う。
僕が呆然と立ちすくんでいると、先生は「失礼」と言って胸に手を当てお辞儀をした。慌てて僕も頭を下げる。
本物を目の前にすると何も考えられなくなるというが、まさに僕は今その状態に陥っていた。昔から聞きたいことなんて山のようにあったのだが、一つも出てこない。
何も言えずにただ見つめていることしかできない僕に、先生の方から質問が飛んだ。
「その大きな袋の中は、絵のようですね」
左の手に目を落とす。白いカバーの端からちらりとのぞいていたキャンパスを見てそう思ったのだろう。
僕は大きくうなずいた。
「よかったら見せていただけませんか?その絵」
どうやら興味を持ってくれているようだった。もちろんです!と言って袋をよけて絵を取りだす。
ふと、昨日の記憶が浮かび上がった。要が窓の前で外を見上げている映像。綺麗だと思ったあの衝撃。彼女の笑顔。二人だけの記憶。
すべてが美しかったあの空間を。
僕は掴んでいたキャンパスをもとに戻した。
「すみません。やっぱりこの絵は、見せられません」
先生は目を細めた。失礼なことだと思ったが、止められなかった。だが先生は怒ることなく、寛容に受けとめてからこう言った。
「大切な物が、できたようですね」
なんでもお見通しだというように僕に不敵に笑いかけた。先生が何を知っているのかわからなかったが、その通りだったから何も言えない。
はい、と頷き、袋をきゅっと握りしめた。
先生も十分に頷くと、
「会えてよかったです。水無瀬くん」
そう言って、柔らかい笑顔を向けると背中を向けた。
あれ、そういえば名前言ったっけ?そんな単純な疑問よりも何よりも、名前を呼ばれたことで僕は咄嗟にアトリエの隅に眠ったままの手紙が記憶から引きずりだされた。
「あっ、あの……、すみませんでした。以前お誘いを、断ってしまって」
か細い僕の声に、先生は振り返らず告げた。
「いいえ。私はあなたをお誘いしたこと、後悔していませんよ。もちろん、あなたがまたその気になっていただけたら、その時は全面的に協力させていただきたいですね」
「どうしてそこまでして、僕のことを……」
綺麗に伸びた背筋が、クスリと笑った。僕を振り返り、一言。
「私も貴方に憧れを抱く、ファンの一人なのです」
その口から発せられた言葉とは到底信じられず、僕は颯爽と歩き去る先生を呆然と眺めていた。やがて頭の整理がついたとき、消えかけた背中に深く一礼をした。
「ようやく会えましたね」
そう呟いた先生の声は、僕の耳には届かなかった。
夢のような時間から解放され、僕は一人多目的スペースでしゃがみこんだ状態のまま、ぼうっと記憶の中に浸っていた。
憧れの人に、会えた。
憧れの人から、ファンだといわれた。
たまらない喜びに胸がはちきれそうだ。
僕は再び絵を取り出し、絵の中の笑顔の要に微笑みかけた。
「また一つ、幸せに出会えた」
彼女の頬に小さく描かれたえくぼを、優しく撫でた。
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